「日向」の地名を移した理由
2016.11.30
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第4弾です。


古代日本の歴史を探ろうとするとき、『古事記』もそうですが、『日本書紀』の信憑性が重要になります。
記述内容は、どこまで信用できるのかということです。

『古事記』や『日本書紀』が記された7~8世紀において、書ける内容と書けない内容があります。
日本書紀の編集方針にもかかわりますが、それが当時の時代状況からみえてきます。

その筆頭は2つ、「白村江の戦い」と「壬申の乱」です。

白村江の戦いは、7世紀の朝鮮半島において、百済復興のために「唐羅連合軍」と戦い、大敗北を喫した国家存亡を招きかねない重大事件でした。

その敗北の首謀者「中大兄」(天智天皇)の遺児「大友皇子」と、大海人皇子(天武天皇)の戦いが「壬申の乱」です。

要は、そういった国家的危機の中で「唐羅」に対抗するために、「壬申の乱」に勝利した天武天皇が挙国一致を目指して天皇を中心とした統一国家「大和」を築くバックボーンとして編纂を命じたのが『古事記』と『日本書紀』です。

「唐羅」はその後、高句麗をめぐって仲間割れを起こし、幸い日本に攻めてくることはありませんでした。
「唐」というのは当時の中国のことで、「羅」というのは朝鮮半島の新羅のことです。

つまり、当時の中国や朝鮮半島と完全に訣別をし、統一独立国家「大和」を明確に国内外に認識させる必要があったために、太古からの万世一系の独立国家「大和」として、歴史を記録する必要があったのです。

そういった事由から、本来の天孫降臨の地「北部九州」は、かつて卑弥呼の時代に、中国「魏」の冊封体制下にあったために、天孫降臨が卑弥呼以前の歴史だとはいえ、事実を記すことを避けました。

結局、北部九州にあった「日向」の地名を、中国とは関係のない現在の宮崎県に移して、天孫降臨の地が南部九州の山奥にあったかのように、神話化したという寸法(段取り)です。


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