皇子と記されない「中大兄」
2016.12.07
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第6弾です。


「三貴子」のついでに書いておきます。

『日本書紀』には、「中大兄」と記されていても「中大兄皇子」とは記されていません。
なぜなら、「中大兄」は“皇子”すなわち天皇(大王)の子ではなかったからです。

一般には天智天皇こと「中大兄」と、天武天皇こと「大海人皇子」は兄弟とされます。

たしかに「天武天皇」紀(上)の冒頭には、「天武天皇は天智天皇の同母弟なり。幼くは大海人皇子という」と書かれています。
※原文:天渟中原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。

であれば、ここでいくつかの疑問が生じます。

1、なら、なぜ天智天皇の和風諡号「天命開別天皇」に“別”と記されるのか。
2、なぜ『日本書紀』は、「中大兄」を「中大兄皇子」と記さなかったのか。
3、“兄”であるはずの天智は、なぜ4人もの娘を天武に嫁がせたのか。

ほかにもありますが上の3つが“疑問”の代表です。

かろうじて納得できる「解答」の1つは、天武と天智は同母ではあっても“異父”だったということです。
「天武」の父は正統な天皇(大王)だったので「大海人皇子」と記され、「天智」の父は天皇(大王)ではなく、「天智」は母の連れ子だったので「中大兄」としか記されなかったということです。

事実、二人の同母とされる「斉明天皇」紀には、次のような記述があります。

「斉明天皇は、初め用明天皇の孫高向王に嫁して、漢皇子を生まれた。後に舒明天皇に嫁して二男一女を生まれた。二年、皇后になられた。」
※原文:天豐財重日足姬天皇、初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子、後適於息長足日廣額天皇而生二男一女、二年立爲皇后。

そのため、連れ子だった“兄”は「中大兄」としか記されず、天皇に嫁して生まれた“弟”は「大海人皇子」と正しく記されたという仮説です。
結果、中大兄(天智)は4人もの娘を大海人皇子(天武)に嫁がせて、まず自らの立場の安泰を図り、さらには先に皇位(王位)に就く“了承”をえたと推理できます。

本当の皇子であれば直接手をくだすはずのない「蘇我入鹿暗殺」に、中大兄が自ら手を染めたというのも、またその後、23年間も皇位(王位)に就けなかったというのも、中大兄が皇子ではなかったからだと考えれば納得できます。

ちなみに、『日本書紀』には必要上、残せませんが、歴史的には「舒明天皇」も「皇極天皇」も“架空の天皇”で、その時代、実質は蘇我氏が天皇(大王)でした。
詳細は「占星学と解く日本成立史」に書いたとおりです。
また、「斉明天皇」は、皇極天皇の重祚ではなく別人で、正規の天皇でもなかったゆえに、皇子でもなかった天智天皇の和風諡号には“別”が号されます。


※講談社学術文庫の現代語訳『日本書紀』は、著者が「中大兄皇子」と注記したり、『日本書紀』にはいっさい出てこない「聖徳太子」という名前を見出しに使ったりと、読者に誤解を与える表記があります。「聖徳太子」という名前も『日本書紀』にはないのです。



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