「邪馬台国」の誤解3
2017.03.08
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その3」です。


さて、先回、名称は「邪馬台国」で間違いがないことを確認いたしました。

その邪馬台国がどこにあったのかは、当時2~3世紀の日本のインフラ状況を考えれば、簡単にみえきます。
要は、交通手段また連絡をはじめとした統治可能範囲の問題です。

どこの国でも、常識ですが国内に道路や橋が整備されるのは、国家が統一されて平和になってからです。
国内で争っているかつての状況下では、道路を整備したり、橋をかけると、ほかの国々からたやすく攻められてしまいます。

たとえば、家康によって日本が統一された江戸時代にあっても、西国から江戸を守るために静岡の大井川には橋をかけませんでした。

また、五街道も現代のように舗装されていないのはもちろんのこと、藩と藩をつなぐ今に残る古道などをみても、一人がとおれるほどのいわゆる「山道」が多かったのも事実です。

ましてや、人口も少なく、獣も多かった邪馬台国の時代に、大軍がとおれるような整備された道はもちろんのこと、道路はないに等しく、せいぜい村落の中にのみ「道」とよべる道ができていた程度です。

そういった事情から、当時の交通手段は、天候まかせ、また風や潮まかせの海そして河川でした。
要は、帆掛け舟がなくはなかったのですが、大半が手漕ぎの船(舟)です。

では、そのような2~3世紀の邪馬台国の時代に、どれだけの兵隊がいれば、どれだけの範囲を支配下におけるでしょうか。

たとえば、畿内国(のちの大和)に、どれだけの兵隊がいれば、東日本はともかくとして、西日本の要衝の国々を支配下におくことができたのか、というお話です。

各地を治めるには、兵の常駐支配か、江戸時代のように「代官所」があって、ことあれば直ちに畿内に連絡がいき、兵を動員して不穏な動きや反乱を治めなければ統治することはできません。

それだけの兵員と動員力また食料や武器などの兵站はもちろん、輸送力や交通手段や連絡手段が、どの範囲に効力を発するまで万全に整っていたのかということです。

それができなければ、「魏」との窓口とされた「伊都国」など北部九州はもちろん、「吉備国」をはじめとした瀬戸内海両岸の国々を治めることができません。

いかがでしょうか。

考えるまでもありません。答えは決まっています。
当時の状況下では、人も多くない畿内国(のちの大和)が、そのように北部九州までも支配下におくことは無理です。

であれば、女王・卑弥呼の「倭国連合」の範囲と位置はみえてきます。

現代人の地理感覚や交通運搬などのインフラによって無条件に考えると、邪馬台国は、九州のはるか南の海の中にあったなどと言い出しますので、あくまでも当時の状況下で考えなければなりません。




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