「聖徳太子」は創作された 3
2017.04.17
最後に、『日本書紀』の記述から「創作」の証拠をいくつかピックアップしておきます。

祟峻天皇の時代。
仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」(丁未の変、丁未の役、物部守屋の変)で、若き日の聖徳太子こと厩戸皇子は、「負けるかもしれない」と思って急遽、戦場で四天王の像をつくります。
そして、勝たせてくれたら「寺塔を建てましょう」と誓願し、勝ったのち「四天王寺」を造ったというお話は有名です。

ですが、当時、厩戸皇子は13歳。そこまでの権力はまだありません。

実は、『日本書紀』には、そのとき、蘇我馬子も勝たせてくれたら「寺塔を建てて三宝(仏・法・僧)を広めましょう」と誓願したと書かれています。
権力もない厩戸皇子が単に「寺塔を建てましょう」と言ったのと、権力を掌握していた蘇我馬子が「寺塔を建てて三宝を広めましょう」と誓願したというのとでは、誰がみても蘇我氏のほうにリアリティーがあります。
なので厩戸皇子こと“聖徳太子”は創作で、ほんとうは蘇我氏のエピソードです。

次に、推古天皇の時代です。
推古元年、すなわち即位してすぐに推古天皇は19歳の厩戸皇子を皇太子に立てて「国政のすべてを任せた」と書かれています。

1、翌2年、皇太子と蘇我馬子に詔して、仏教の興隆を図られます。
2、11年、来目皇子が薨去し、皇太子と蘇我馬子を召されて詔されます。
3、13年、推古天皇は、皇太子と蘇我馬子、および諸王や諸臣に詔されています。
4、15年、皇太子と蘇我馬子は、百寮を率いて神祇を祀り拝します。
5、28年、皇太子と蘇我馬子は、相議って天皇記および国記と多くの本記を記録します。

翌29年に、厩戸皇子は48歳で薨去します。
推古紀には、権威づけのための厩戸皇子のエピソードと、蘇我馬子大臣のリアルなエピソードも、2~3、記されていますが、大半が上述のように「皇太子と蘇我馬子」の併記なのです。
国政のすべてを任された厩戸皇子なのに? ヘンだと思いません?

なので、これもほんとうは蘇我馬子が“摂政”、というか推古は国政のすべてを任せるしかない傀儡(かいらい)だったので、実質は“蘇我大王”(天皇)だったことをあらわしています。

もう一つ、聖徳太子の「十七条憲法」のくだりを書いておきます。

●『日本書紀』から抜粋
(12年)夏4月3日、皇太子は、はじめて自ら作られた十七条憲法を発表された。
【原文】
夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。

もし、厩戸皇子(聖徳太子)がほんとうに摂政であれば、ここはシンプルに「皇太子は十七条憲法を発表された」でよいのです。
しかし、原文、「親肇作」、すなわち「はじめて“自ら”作られた」とわざわざ“ことわり”を入れています。

このように不必要な記述を入れる場合、まず「蘇我馬子が作ったものではない」とメッセージしたいのはもちろんです。
ですが、ほんとうは作者が“聖徳太子”ではないために、太子作かのように念押しの偽装をしているのです。

実際は、蘇我馬子の作(原案)です。
しかし、後年、『日本書紀』編纂の時点で、蘇我本宗家を滅ぼした「中大兄」(天智天皇)の皇孫と「中臣氏」(藤原氏)の子の藤原不比等が権力中枢にいて、編纂にもかかわっているために『日本書紀』には書き残せないのです。
もし書けば、『日本書紀』で「逆賊」に貶められた蘇我氏の「十七条憲法」など、だれも信用しなくなります。
そういうことからも、それは絶対に書けません。

結局、厩戸皇子こと“聖徳太子”を創作して、“聖人”にして“天才”が書いたことにし、このときに『日本書紀』に残された条文ように編纂者が修正を加えたというのが真相です。
そして、第1条「和」をもって貴しとし、第2条あつく「仏・法・僧」を敬い、第3条「天皇の詔」には必ず従うべく信頼性を高め、日本の安定と統一と天皇の維持を図ったわけです。





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