古代史の秘密を解くカギ3
2017.07.20
具体例はあとまわしにして、『日本書紀』をベースにした古代史の秘密を解く第2のカギをご紹介します。
それは『古事記』です。

「神話」をふくめて、同じ日本の古代史を記録しながら、記紀には大きな相違がいくつかあります。
代表的なものを挙げると次の3つです。

1、『古事記』の1/3をさいた「出雲系の記録」が『日本書紀』には「神代」にごく一部しか記されない。

2、『日本書紀』では、歴代天皇と同じく1巻をさいて記された「神功皇后」が『古事記』にはない。

3、『古事記』は推古天皇までしか記されず、『日本書紀』には持統天皇までが記されている。

これらはだれもが指摘するところです。

目新しくもないこの違いが、どうして古代史の秘密を解くカギになるのでしょうか。

それは先回、書きましたように、誰がどのような意図と目的で『日本書紀』を記したのかという最大のカギで、まず最初の“秘密の扉”を開けないと知ることができません。

つまり、『日本書紀』の編纂者が、「出雲」のお話をカットし、「神功皇后」に1巻をあて、「持統天皇」まで記載したというのは、統一大和にとって、そのほうが確実に「万世一系」の礎となるためです。

『日本書紀』は、天智系また天武系天皇の「万世一系」、すなわち皇統の正当性を“裏付け”て、確固としたゆるぎなきものとしていくことが最大の編纂目的です。

なので、それにそった歴史記録は、優先的に記載し、そうでないものは記載しないか、簡略化するか、または別のお話にカタチをかえて記載しています。

このような第1の“カギ”を使うと、『古事記』との相違が、意味をもつものとしてみえてきます。
おおむね、次のようなことです。

1、出雲系の記録が簡略化され神代にしか記されない理由

この答えは簡単です。
統一大和の「天皇」とは異なる本州「大国主連合」のお話なので、万世一系の天皇の皇統には属さない記録であるためです。

事実、統一大和の「天皇」は、彼ら大国主系から“国譲り”を受けてのち、天照大神から孫の瓊瓊杵尊の「天孫降臨」をもって4代後の「神武天皇」から万世一系の皇統がはじまるとしています。
なので『日本書紀』は、「出雲系の記録」を神武以前の神話にしてしまいました。

それゆえ「出雲神話」と呼ばれるのですが、それこそ『日本書紀』に丸め込まれてしまった証拠で、出雲のお話を架空の「神話」とかたづけるわけにはいきません。
出雲に大国主系の拠点があったのは事実で、それゆえ荒神谷遺跡から日本最多の銅剣や銅鐸が出土しています。
出雲もそうですが、大和以前の畿内にも、また越や尾張などにも、出雲系の「大国主連合」が築かれていました。

もし、出雲や大国主連合を史実として認めると、統一大和の「天皇」より先に日本を治めていた国の主であることがバレてしまいますので、出雲の素戔嗚尊を天孫族かのように記しました。

2、『日本書紀』に神功皇后紀がある理由

基本、『日本書紀』が1巻をさくということは、表向きは記載できないものの、その時代には「天皇」(大王:おおきみ)がいたことを意味します。

たとえば、天武天皇紀は、上巻の「壬申の乱」と、それに勝利してのち下巻の「即位後」にわけられています。
後者の天武天皇紀(下)は、第40代「天武天皇」そのものの記録ですが、前者の上巻「壬申の乱」は、本来、第38代「天智天皇」の皇子(大友皇子)の第39代「弘文天皇」(追諡)のものです。

それをはるかにさかのぼりますが、『日本書紀』の第7巻は「景行天皇」と「成務天皇」の二人が記され、第8巻は「仲哀天皇」、第9巻は「神功皇后」、第10巻は「応神天皇」となっています。
このあたりには架空の天皇もいるのですが、第7代「景行天皇」と第8代「成務天皇」を同じ巻に記すことで、神功皇后をはさみながらも、第10代「応神天皇」へとつじつま合わせをしています。

それほど神功皇后の時代は、統一大和の「天皇」(万世一系)にとっては重要で、弘文天皇と同様に史実として残せない事情があったわけです。
つまり、これまた別の「天皇」(大王:おおきみ)の存在が秘められており、“神功皇后”をもって代用されています。

ちなみに、神功皇后の時代に活躍したのは武内宿禰で実質の大王でした。

3、持統天皇で『日本書紀』が終わる理由

これはいうまでもありません。

天照大神になぞらえられた「高天原広野姫天皇」こと持統天皇が、皇孫瓊瓊杵尊になぞらえられた「倭根子豊祖父天皇」(天之真宗祖父天皇)こと孫の文武天皇への譲位が成功し、『日本書紀』の編纂目的である「万世一系」が名実ともに成立したためです。

なのでこれ以上、記載する必要はありません。

つまり、『日本書紀』は、神代でまず「天照大神」の正当性を記し、天照大神から孫の瓊瓊杵尊へ“三種の神器”による「天孫降臨」にはじまる初代「神武天皇」の東征神話から、第41代「持統天皇」による孫の第42代「文武天皇」へと譲位することによって完結する「万世一系」のお話なのです。

では、『古事記』が、第31代「用明天皇」、第32代「祟峻天皇」、第33代「推古天皇」と、最後の3代の天皇に関する記載がほとんどないまま、蘇我馬子が“大臣”となった傀儡「推古天皇」で終わるのは、なぜでしょうか。

こちらは、九州「倭国」の阿毎多利思比孤(あまの たりしひこ)大王が、隋の冊封体制から離れるために、九州「倭国」の政務を畿内大和の「日本国」に移行し、九州「倭国」の歴史がここで終わったからです。

蘇我氏が台頭していく6世紀末~7世紀初頭の出来事ですが、両国の統合によって、ここから7~8世紀の統一大和への歴史がはじまっていきます。

要するに『古事記』は、蘇我氏がもっていた出雲をはじめ九州「倭国」の帝紀や歴史を記したものです。

それを蘇我氏を滅ぼした中大兄こと後の天智天皇また、その皇子を滅ぼした倭国系の大海人皇子こと天武天皇、すなわち統一大和の「天皇」が、「万世一系」をメイン・ストーリーに大和国の歴史として脚色したものが『日本書紀』になっています。


※複雑な古代史を、シンプルに書いてご説明すると上述のようなことです。
機会をみて、詳細なご説明を加えた“ナゾ解き古代史”をアップするかもしれません。





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