古代史の秘密を解くカギ4
2017.07.22
『日本書紀』編纂の目的と意図、『古事記』との相違についで、古代史の秘密を解くカギの3番めは、俗称「魏志倭人伝」といった一連の「日本伝」(倭国伝)です。

日本の歴史学会や歴史マニアのあいだでは、敗戦後、大陸や半島のことを“悪く”(正しく)書けない風潮が蔓延しました。

同時に、戦後に共産主義運動が台頭すると、日教組をはじめとしたマルクス史観の学者たちが、教育界を席巻したこともあり、中国や北朝鮮を素晴らしい国や地上の楽園かのように、反政府(反権力)のマスコミも報道したこともあり、日本の文化はすべて大陸や半島から渡ってきたかのように解釈されました。

最近でこそ、少し是正されましたが、それでも大手マスコミにはかつての“弊”が色濃く残っています。

何を言いたいのかというと、卑弥呼の時代もそうですが、第26代「継体天皇」の時代まで、九州「倭国」は朝鮮半島に領土をもっていました。
その前の「倭の五王」で知られる4世紀あたりをピークに、半島の大半を勢力下においたほどです。

しかし、そのようなことは、書けるはずもありません。
一般の歴史家も書くことはできませんでしたし、マルクス史観の歴史学者などは、ハナから“つくり話”として歯牙にもかけなかったほどです。

なぜかといえば、半島を倭国(日本)が占領したことは、戦前の“日韓併合”の歴史を想起させるため、アンタッチャブルな“タブー”になっていたからです。

それが少し毛先が変わったのは、つい最近の“嫌韓”や“嫌中”の認識が広まったあたりからで、それまで70年近く、正しい歴史を書けない風潮が続いていました。

たとえば、卑弥呼や邪馬台国が記される「魏志倭人伝」には、通常の読解力で読めば、ハッキリと九州「倭国」の北の国端が「狗邪韓国」(くやかんこく)だったことが書かれています。

ですが、そのことを事実として認めることはもちろん、議論することさえできなかったのです。

以上は一例ですが、『後漢書』や『三国志』、『宋書』や『梁書』、『隋書』や『旧唐書』また『新唐書』を読めば、その中の「倭条」や「倭人条」また「倭伝」や「倭国伝」また「日本伝」には、記述内容のすべてが正しいわけではありませんが、『日本書紀』と異なる箇所や補足できる記述が散見できます。

それらを客観的に検討することで、新たな視点や正しい歴史がみえてくるのです。

たとえば、有名な「倭の五王」は、半島を治める「安東(大)将軍」や「倭国王」に任じられたことが書かれています。
それが『日本書紀』のなかでどの天皇かということよりも、“倭国王”が半島の大半を治めていたことのほうが歴史の真相の解明には重要です。

ですが、それを無視して、「倭の五王」が誰か天皇探しをしますが、父子関係や兄弟関係が当てはまらず、いまだに推測が続いています。

当たり前です。

この時代は、半島の大半を九州「倭国」が支配していましたので、それを認めないまま、大和の「天皇」(大王:おおきみ)にあてはめること自体にムリがあります。

『日本書紀』に記されているとおり、第26代「継体天皇」が倭の領地(任那)を百済に割譲するまで、かつての倭の五王の時代にくらべればだいぶ小さくなりましたが、依然として半島南部には九州「倭国」の一部があったのです。

ほかにも書く内容はありますが、このような「日本伝」をカギに、『日本書紀』との整合性や真贋を検討していくことで、彼我の歴史の事実が見えてきます。


※戦後になって「前方後円墳」が朝鮮半島から発見されました。やはり韓国から日本に渡ったものだと大騒ぎになりましたが、調査の結果、日本のほうが古く、半島のほうが新しいことがわかりました。
すると彼らは、“山”の部分を崩して「前方後円墳」のカタチを変えてしまったのです。
一事が万事こんな調子なので、彼らの歴史観や主張が正しいと信じたり、そう思い込むと、事実を誤認するばかりではなく、痛い目にあいます。
それでも彼らの考えは「ダマされるほうが悪い」であって、日本人とはメンタリティーが異なります。



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