このカタチは前方後円墳?
2018.05.21
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ご存じ「グーグルマップ」の航空写真です。

ほぼ中央にある「前方後円墳」のカタチの大きさは、全長約700メートル、後円部の直径約300メートル。
場所は、サッポロビール日田工場から、筑後川上流の三隈川(みくま がわ)をはさんで北西に約1.2キロメートルほどの位置です。

もちろん、「前方後円墳」そのものではありません。

考えられるのは2点。
第1点は、「偶然」で、空き地の宅地造成をしていたら、こんな「前方後円墳」のようなカタチになったというケース。
第2点は、「前方後円墳」の計画跡地で、測地をしてカタチを決め実際に作ろうとしていたが、何らかの理由で作業が中断され、そこに後年、住宅地ができたというケース。

というのも、調べるのはこれからですが、この地は歴史的に由緒がある場所だからです。

歴史的由緒のいくつかを、以下ご紹介いたします。

このそばには、かつて「ダンワラ古墳」と命名された5世紀頃の“横穴墓”がありました。

そこから3世紀の卑弥呼の時代の金や銀で象嵌がほどこされ、ルビーやヒスイやトルコ石などの宝石が埋め込まれた「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」(きん ぎん さくがん しゅりょうもん てっきょう)が出土しています。



銅鏡ではなく「鉄鏡」というのがミソです。

卑弥呼の時代、「三国志」でも有名な魏の曹操は、直径約46センチの「金錯鉄鏡」(きんさくてっきょう)を持っていたという記録があります。

「鉄鏡」というのは、支那の皇帝など王族しかもてなかったものです。

一方、日本で唯一発見されたこの「鉄鏡」は、直径約21センチの大きさとはいえ、かなりの装飾がほどこされている豪華なもので、地元の歴史家たちは“卑弥呼の鏡”ではないかと考えているようです。

この地は、筑後川本流の上流にあるなど、かの地の「邪馬台国」と地理的条件が似ています。

これが、もし「卑弥呼の鏡」だとすれば、卑弥呼が死んで「邪馬台国」が滅び、台与の女王国になったとき、卑弥呼の一族がこの地に逃れてきた可能性が考えられます。

ダンワラ古墳のすぐそばには、「豊後風土記」にも記されているこの地域をおさめていた巫女、「比佐津媛」(ひさつひめ=久津媛)を祀る古墳代わりの会所山(よそやま)や、その頂上にある比佐津媛神社、また法恩寺山古墳群など、比較的ながら古墳の密集地でもあることです。

さらには、少し離れますが、日本最古の「豪族の居館跡」があるのもこの地です。

実際、なんと「旧石器時代」から「中世」まで、長期間にわたる複合遺跡の「小迫辻原遺跡」(おざこ つじばる いせき)があって、「豪族の居館跡」は、弥生時代末期(卑弥呼の時代)から古墳時代初めの「環濠集落」のなかで発見されています。

ちなみに、秀吉の時代もそうですが、江戸時代には、九州一円を治める西国筋郡代がおかれ、幕府の直轄地「天領」として栄えた歴史的な街です。

なぜ、福岡市からも大分市からも熊本市からも約60キロメートルほども離れた山中の盆地に「天領」(代官所)をおいたのかというと、古代からの由緒があるというだけではなく、周囲が山々で、大軍が攻めのぼれる場所が1か所しかなく、しかも隘路(あいろ)になっているために、「防衛」に最適だったことが第1点です。

第2点は、筑後川本流の上流地域にひらけた盆地なので、川をくだれば、そのまま吉野ヶ里遺跡などがある築後平野を経て、有明海にでることができる水運の良さがあります。

事実、杉の産地としても有名なこの地は、切り出した杉を筏(いかだ)にして運ぶ「筏流し」によって、昭和28年(1953年)の大洪水「西日本水害」が起こるまで運んでいました。

第3には、当時は尾根伝いに、この地からタコ足のように古道が四方八方にあって、そこから九州各地に行ける陸路としても要衝の地でもあったからです。

いまは、アユや鵜飼また温泉などで知られる「観光地」(水郷、小京都、酒)になっていますが、たしかに歴史的な場所なので、中世は幕府はもちろん豪商が拠点をかまえて栄え、古代は豪族が拠点をかまえていたというのはおかしくないわけです。







コメント一覧
著作権 - 2018年11月18日 01:29
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の復元画像は日田古代史研究会が所持しています。許可を取りましたか?。結構使われているのでご注意ください
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