怨霊「聖徳太子」の真相
2019.05.23
「聖徳太子」は、実在か、それとも架空か?
結論的にいえば、「聖徳太子」そのものは意図ある“創作”です。
『日本書紀』は、その偉大な功績を「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)かのように描き、実在の“功労者”を秘匿したというのが、複雑ですがことの真相です。
ご説明してまいります。
「聖徳太子」をどのように定義するかにもよりますが、一般に言われている聖徳太子は、『日本書紀』に記された厩戸皇子のイメージの拡大像なのですが、それが“間違い”で真の“聖徳太子”とされるべき人物は、別にいるということです。
『日本書紀』によって、「厩戸皇子」は“聖人”かのように脚色されました。
推古紀には「生まれてすぐに喋った、聖なる知恵があった」(原文:生而能言、有聖智)などとありますが、生まれてすぐに言葉を話すなど、脳科学的にありえないことです。
これらは、厩戸皇子のお話が「ウソ」であるとわかるように、『日本書紀』が“意図的”に掲載したエピソードで、『日本書紀』にはよくみられます。
別の意図としては、すでに後世の作(改ざん)として知られている「十七条憲法」を、“素晴らしい人がつくったもの”として信じ込ませるものともいえなくもありません。
聖徳太子が“架空”である絶対的な根拠は、『日本書紀』のなかに「聖徳太子」という名称が1度も出てこないことです。
もっとも、市販されている現代語訳『日本書紀』のなかには、原文は「厩戸豊聡耳皇子命」としか書いていないにもかかわらず、かってに「聖徳太子」と訳している書籍があります。
それはともかく、厩戸皇子が生存したとされるのは、574年~622年です。
一方、『日本書紀』の上奏は720年で、没後、100年ほどが経っています。
100年も経っていれば、歴代天皇が「諡号」(しごう、おくりな)で記されているように、『日本書紀』も同じように「聖徳太子として知られている」など、諡号で紹介された一文があってもおかしくないのです。
ちなみに、「諡号」というのは、「貴人や高徳の人に死後おくる名前」のことです。
それがないというのは、『日本書紀』ののちに「聖徳太子」ができたということです。
「万世一系」や「蘇我氏」に関すること以外は、なるべく史実にそって記そうとしている『日本書紀』ゆえに、聖徳太子がいたのなら、「聖徳太子」と明記しているはずです。
ですが、さすがに『日本書紀』も、架空ゆえに厩戸皇子と記すのが精一杯でした。
ちなみに、推古女帝の時代に、隋に国書をおくった男王「アメノタリシヒコ大王」を聖徳太子とする説がありますが、たいていは勘違いで、厩戸皇子でもありません。
なぜなら、アメノタリシヒコ大王は「筑紫」(北部九州)にいたからです。
『隋書』には、アメノタリシヒコ大王の国を「阿蘇山あり」と書いています。
『新唐書』にいたっては、ハッキリと「筑紫城に居す」とまで記しているのです。
なので、「アメノタリシヒコ大王」というのは、大和王権と合併する“直前直後”の「九州倭国王」にほかなりません。
では、『日本書紀』は、なぜ厩戸皇子なる人物を偉人に仕立てあげる必要があったのでしょうか。
それは、『日本書紀』の目的と編集方針をみれば明らかです。
『日本書紀』は、紀元前の初代「神武天皇」の東征以来、“大和一国王朝”として描いてきました。
それゆえ、3世紀の「卑弥呼」も「邪馬台国」も大和ではないので記されていません。
当然、卑弥呼由来の「九州倭国」や「九州倭国王」の存在も、またその功績も記すことはしません。
『隋書』に記されているアメノタリシヒコ大王の「冠位十二階」も、大和王朝が定めたものにする必要があったのです。(結果論)
それゆえ、厩戸皇子の名を借用し、または創作し、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定した聖人として描いたのです。
つまり、あえて書きますと、「聖徳太子」と称えられるべきは、1世紀の奴国、また3世紀の女王国以来の「九州倭国」を、シナ大陸の冊封体制から離脱させ、“日出る”とともに“弟”の「畿内国」(大和)に“政務を委ね”、「統一独立国家日本」を誕生させた天孫「アメノタリシヒコ大王」こと九州倭国王なのです。
ちなみに、「アメノタリシヒコ」という呼称は、“天より垂(降)りし日子”という意味で、天孫降臨した一族の子孫をあらわします。
紀元前(『日本書紀』の記述)に九州から「神武」が東征し、饒速日命(にぎはやひのみこと)から禅譲された「畿内国」(大和)からみれば“兄”にあたるわけです。
そのように、7世紀初頭に「九州倭国」と「畿内大和王権」を併合させて、“日出る国”(日本)が誕生しますが、その直後は「主導権争い」がくすぶっていました。
それが、のちの天智天皇こと「中大兄」と、のちの藤原鎌足こと「中臣鎌子」が、主導権を取り戻すべく実質上の大王家だった「蘇我本宗家」を滅ぼした「乙巳の変」(645年)です。
しかし、因果は巡ります。
政権奪取に成功した天智天皇の子 大友皇子(追諡:弘文天皇)は、政権基盤を確立すべく、のちの天武天皇こと「大海人皇子」と「壬申の乱」(672年)を戦いますが、負けて、結局は、天武天皇による古来の皇統が復活します。
その詳しいお話をここで書く余地はありません。
いずれにしても、藤原鎌足の子で『日本書紀』編纂にもかかわった藤原不比等(ふじわらのふひと)は、父と中大兄が弑逆した「蘇我本宗家」の偉大な功績を記すことはできず、「推古女帝」と摂政「厩戸皇子」による功績に書き換えたわけです。
ですが、後世のなかには、蘇我一族の功績だと知っている人もいますので、当時の風潮のなか、厩戸皇子ならぬ「聖徳太子」と命名して、その遺徳をたたえ、さらには鎮魂を行なったのです。
これが真実の「聖徳太子」です。
聖徳太子ゆかりの法隆寺で行なわれる「聖霊会」(しょうりょうえ)では、そのクライマックスに突如、“怨霊”としての「蘇莫者」(そばくしゃ)が登場し、これを厩戸皇子が笛を吹いて慰めるという演目が、いつからか行なわれています。
これは、ゆえなく滅ぼされた蘇我氏の御魂を鎮めるためのものです。
蘇莫者というのは、“蘇(よみがえ)る莫(な)き者”すなわち“蘇我氏”をあらわしています。
結論的にいえば、「聖徳太子」そのものは意図ある“創作”です。
『日本書紀』は、その偉大な功績を「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)かのように描き、実在の“功労者”を秘匿したというのが、複雑ですがことの真相です。
ご説明してまいります。
「聖徳太子」をどのように定義するかにもよりますが、一般に言われている聖徳太子は、『日本書紀』に記された厩戸皇子のイメージの拡大像なのですが、それが“間違い”で真の“聖徳太子”とされるべき人物は、別にいるということです。
『日本書紀』によって、「厩戸皇子」は“聖人”かのように脚色されました。
推古紀には「生まれてすぐに喋った、聖なる知恵があった」(原文:生而能言、有聖智)などとありますが、生まれてすぐに言葉を話すなど、脳科学的にありえないことです。
これらは、厩戸皇子のお話が「ウソ」であるとわかるように、『日本書紀』が“意図的”に掲載したエピソードで、『日本書紀』にはよくみられます。
別の意図としては、すでに後世の作(改ざん)として知られている「十七条憲法」を、“素晴らしい人がつくったもの”として信じ込ませるものともいえなくもありません。
聖徳太子が“架空”である絶対的な根拠は、『日本書紀』のなかに「聖徳太子」という名称が1度も出てこないことです。
もっとも、市販されている現代語訳『日本書紀』のなかには、原文は「厩戸豊聡耳皇子命」としか書いていないにもかかわらず、かってに「聖徳太子」と訳している書籍があります。
それはともかく、厩戸皇子が生存したとされるのは、574年~622年です。
一方、『日本書紀』の上奏は720年で、没後、100年ほどが経っています。
100年も経っていれば、歴代天皇が「諡号」(しごう、おくりな)で記されているように、『日本書紀』も同じように「聖徳太子として知られている」など、諡号で紹介された一文があってもおかしくないのです。
ちなみに、「諡号」というのは、「貴人や高徳の人に死後おくる名前」のことです。
それがないというのは、『日本書紀』ののちに「聖徳太子」ができたということです。
「万世一系」や「蘇我氏」に関すること以外は、なるべく史実にそって記そうとしている『日本書紀』ゆえに、聖徳太子がいたのなら、「聖徳太子」と明記しているはずです。
ですが、さすがに『日本書紀』も、架空ゆえに厩戸皇子と記すのが精一杯でした。
ちなみに、推古女帝の時代に、隋に国書をおくった男王「アメノタリシヒコ大王」を聖徳太子とする説がありますが、たいていは勘違いで、厩戸皇子でもありません。
なぜなら、アメノタリシヒコ大王は「筑紫」(北部九州)にいたからです。
『隋書』には、アメノタリシヒコ大王の国を「阿蘇山あり」と書いています。
『新唐書』にいたっては、ハッキリと「筑紫城に居す」とまで記しているのです。
なので、「アメノタリシヒコ大王」というのは、大和王権と合併する“直前直後”の「九州倭国王」にほかなりません。
では、『日本書紀』は、なぜ厩戸皇子なる人物を偉人に仕立てあげる必要があったのでしょうか。
それは、『日本書紀』の目的と編集方針をみれば明らかです。
『日本書紀』は、紀元前の初代「神武天皇」の東征以来、“大和一国王朝”として描いてきました。
それゆえ、3世紀の「卑弥呼」も「邪馬台国」も大和ではないので記されていません。
当然、卑弥呼由来の「九州倭国」や「九州倭国王」の存在も、またその功績も記すことはしません。
『隋書』に記されているアメノタリシヒコ大王の「冠位十二階」も、大和王朝が定めたものにする必要があったのです。(結果論)
それゆえ、厩戸皇子の名を借用し、または創作し、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定した聖人として描いたのです。
つまり、あえて書きますと、「聖徳太子」と称えられるべきは、1世紀の奴国、また3世紀の女王国以来の「九州倭国」を、シナ大陸の冊封体制から離脱させ、“日出る”とともに“弟”の「畿内国」(大和)に“政務を委ね”、「統一独立国家日本」を誕生させた天孫「アメノタリシヒコ大王」こと九州倭国王なのです。
ちなみに、「アメノタリシヒコ」という呼称は、“天より垂(降)りし日子”という意味で、天孫降臨した一族の子孫をあらわします。
紀元前(『日本書紀』の記述)に九州から「神武」が東征し、饒速日命(にぎはやひのみこと)から禅譲された「畿内国」(大和)からみれば“兄”にあたるわけです。
そのように、7世紀初頭に「九州倭国」と「畿内大和王権」を併合させて、“日出る国”(日本)が誕生しますが、その直後は「主導権争い」がくすぶっていました。
それが、のちの天智天皇こと「中大兄」と、のちの藤原鎌足こと「中臣鎌子」が、主導権を取り戻すべく実質上の大王家だった「蘇我本宗家」を滅ぼした「乙巳の変」(645年)です。
しかし、因果は巡ります。
政権奪取に成功した天智天皇の子 大友皇子(追諡:弘文天皇)は、政権基盤を確立すべく、のちの天武天皇こと「大海人皇子」と「壬申の乱」(672年)を戦いますが、負けて、結局は、天武天皇による古来の皇統が復活します。
その詳しいお話をここで書く余地はありません。
いずれにしても、藤原鎌足の子で『日本書紀』編纂にもかかわった藤原不比等(ふじわらのふひと)は、父と中大兄が弑逆した「蘇我本宗家」の偉大な功績を記すことはできず、「推古女帝」と摂政「厩戸皇子」による功績に書き換えたわけです。
ですが、後世のなかには、蘇我一族の功績だと知っている人もいますので、当時の風潮のなか、厩戸皇子ならぬ「聖徳太子」と命名して、その遺徳をたたえ、さらには鎮魂を行なったのです。
これが真実の「聖徳太子」です。
聖徳太子ゆかりの法隆寺で行なわれる「聖霊会」(しょうりょうえ)では、そのクライマックスに突如、“怨霊”としての「蘇莫者」(そばくしゃ)が登場し、これを厩戸皇子が笛を吹いて慰めるという演目が、いつからか行なわれています。
これは、ゆえなく滅ぼされた蘇我氏の御魂を鎮めるためのものです。
蘇莫者というのは、“蘇(よみがえ)る莫(な)き者”すなわち“蘇我氏”をあらわしています。
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