伊勢を遥拝した天武天皇
2019.11.30
今日につづく“万世一系”の天皇の系譜について重要な役割を果たしたのが第40代「天武天皇」(てんむ てんのう)とその正妃である第41代「持統天皇」(じとう てんのう)です。

里中満知子の「天上の虹」は、読んだことはありませんが持統天皇について書かれたもので、副題には「持統天皇物語」と書かれています。

事実、「数理法則」から「天皇史」をみても、『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じ、“万世一系”の皇統を明示した天武天皇は、「1数=意志」の立場です。

それを夫「天武天皇」の遺志を継ぎ、2度と皇位争いが起きないように「男系嫡系」を天皇として実現させ、孫の珂瑠皇子(かるの みこ)を居並ぶ天皇候補を排して第42代「文武天皇」として即位させた持統天皇は、「万世一系の定着」からみたとき「2数=実体」にあたります。

ちなみに、「3数=関係」は第42代「文武天皇」(父:草壁皇子)です。

それはともかく、ほかにも持統天皇は「万葉集」(第1巻)を編纂したり、伊勢神宮を今日のように立派に建造するなど、歴史上、重要な業績を残した女帝なのですが、正鵠を射た文献が少ないのも事実です。

最近、『持統天皇』(副題:壬申の乱の「真の勝者」)と題する新書判を書店で見つけました。

これだけだったら手にとらなかったと思いますが、オビに「この国のかたちを決めた女帝」と書かれていたために購入してしまいました。

本文は、ときに著者の情緒的な主観が入るのが気になったのですが、相応に資料を調べておられるようで、そこが参考になると考えました。

実際、資料にもとづく客観的な記述の部分は参考になりました。

ただ、最大の問題は次の解釈です。

壬申の乱にさいして、大海人皇子(天武天皇)は、隠棲していた吉野から、わずかな供を連れて挙兵のために東国(桑名また不破:関ヶ原方面)にいたる途中、「朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)のほとりで天照大神を遥拝された」と『日本書紀』(現代語訳)にあります。

著者は、これを否定し、拝んだのは伊勢や天照大神ではなく、朝日(太陽)だと記すのです。

『日本書紀』の原典となった書籍「安斗知徳日記」をあげて、東国に向かう途中、雷がなり雨も激しく黒雲におおわれたことから、辰の時の朝8時ころ大海人皇子は天候が回復して太陽が現われ、朝日を拝んだのだと解釈しています。

この解釈によほど自信があるのか、何度(3~4度)も記しているのです。

当時の伊勢は、立派なお社があるわけではなく、小さな祠(ほこら)でした。
それを、壬申の乱に勝利した天武天皇と持統天皇が、戦勝祈願成就のお礼に今のように立派に建造し、“天照大神”を祀ったというのが事実です。

補記しておきますと、そのころの“天照大神”は1柱にすぎず「皇祖」ではありませんでした。

なぜなら、『日本書紀』には、「皇祖の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は」と、皇祖は男性神であることが明確に記されているからです。

天照が素戔嗚尊をおしのけて天皇家の「皇祖」とされたのは、維新後、明治天皇からで、実際、明治天皇は持統天皇以来、約1,500年ぶりにのちの天皇としては初めて伊勢をご親拝しています。

大海人皇子(天武天皇)が遥拝し戦勝祈願をしたのは、伊勢(天照大神)に間違いはないのですが、女性神ではなく「男性神」としての“天照大御神”です。

それを著者は、そうではなく大海人皇子が拝んだんのは太陽(朝日)だと主張するのですが、これは明らかに間違いです。

なぜなら、客観的にみればわかりますが、大海人皇子が遥拝した「朝明郡の迹太川」からみて「伊勢」は、ほぼ真南にあたるためです。

辰の時(午前8時ころ)なので、太陽はまだ南にはありません。

それでも著者は、何度も太陽を拝んだのだと記していますが、その場合、伊勢方面ではなく東の知多半島方面もしくは、現在、草薙の剣が祀られている熱田神宮の方向になります。

それだと戦に勝った大海人皇子こと「天武天皇」と「持統天皇」が、熱田神宮ではなく「伊勢神宮」を今日のように立派に建造して当時の天皇として唯一、ご親拝した理由がみえてきません。




●天武天皇(大海人皇子)御遥拝の地と伊勢の位置関係







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