会所山、景行天皇と久津媛
2019.12.02
物心ついたときから見慣れた小高い山(画像ご参照)。


<実家近くの高台から撮影 2019.12.01>

「会所山」と書いて「よそやま」と読みます。

海抜164.3mながらふもとからの実際の高さは60mほどです。

幅約200mほどの川をはさんで実家の目の前に「会所山」がありますので、子どもの頃から毎朝毎夕、気にもとめず目にしてきた山です。

30代の頃に撮影で山頂に登ったことがありますが、会所山(よそやま)が歴史的に由緒のある山だと知ったのは、案外と最近のことで多分10数年ほど前のことです。


『豊後国風土記』には、次のように記されていました。

《原文》
「大足彦天皇 征伐球磨贈於 凱旋之時 (中略) 有神名曰津媛 化而為人参迎 (中略) 久津媛之郡 今謂日田郡者訛也」

《概訳》
大足彦天皇(景行天皇)が球磨贈(くまそ:熊襲)を征伐して凱旋したとき、(中略) 久津媛(ひさつひめ)という神が人の姿で迎えられた。(中略) 久津媛之郡(ひさつひめのこほり)が、今にいう日田郡(ひたのこほり)に訛った」

久津媛(比佐津媛とも)が景行天皇を迎えたのは、景行18年8月(西暦87年)とされています。

この「会所山」のふもとには、応神天皇、比売神、神功皇后の「八幡三神」と、景行天皇また比佐津媛(久津媛)を合祀する「会所宮」(よそみや:会所山神社)があります。

山頂には小さな祠ながら「久津媛神社」があって、弥生時代の甕棺(かめかん)などが出土していることや、山肌が石でおおわれていた痕跡があることなどから、古墳代わりに埋葬されたようです。

地元の歴史家のなかには、「久津媛こそ卑弥呼だ」という人も多く、その傍証とされるのが、会所山のすぐ東の日高(ダンワラ古墳)から出土したとされる重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)です。

ただし、当地は筑後川の上流なので、卑弥呼の時代に「一大率」がおかれた伊都国とは川筋が異なります。

そのため、個人的には、直線距離でも80km近く伊都国から離れていることもあって、当時、交流は困難なので卑弥呼ではありえません。

さはさりながら、この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、卑弥呼がつかいを送り、鏡をもらったとされる3世紀「魏」の時代の製作であることが確認されています。

それどころか、10年前の2009年に魏の「曹操」の墓が発見され、研究の結果、そこに埋葬されていた「曹操の鏡」と「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が酷似していることが、今年2019年夏に明らかになりました。

鉄鏡は、銅鏡とは格が異なります。

魏の時代、「皇帝」しか金をあしらった鉄鏡は持てず、そのような金の「鉄鏡」が伝世だと考えられるとはいえ、なぜ筑後川のはるか上流の「西国筋郡代」(江戸幕府の4つの郡代の1つ)がおかれた地から発見されたのか。

当地は、古代最古の(ヤマト系)豪族の舘跡が発見されるなど、相応の歴史があるとはいえ、何しろ予算がつかないのか、それとも大陸系の遺物が出ない“纒向(主流)派”の力が働いているのか、なかなか研究の対象にならず、いろんなことが定かになっていません。



● 画像は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)









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