光秀/時代のからくり
2020.05.08
時は戦国時代。
まだ天下は統一されておらず、自分の「領土」(国)は自分で守るのが“正義”の時代のお話です。
現代と違って、「領土」の所有によって、田畑から日々のお飯(まんま)にありつけ、領主も国の運営ができる自給自足がメインの時代です。
だからといって、他国との“流通”や“商い”が行なわれていないわけではありませんが、それでも農作物がとれる田畑が生きる糧となっていた「領土第一」の時代でした。
今年2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀も同様で、二人三脚のナンバー2として天下獲りに貢献してきたにもかかわらず、“義兄弟”だった信長から「領土」を取り上げられる裏切りに遭って「本能寺の変」におよびました。
それは、光秀からみれば、お天道様の道理にもとる信長への当然の“誅殺”だったわけです。
それを天下が統一された秀吉以降の“ルール”からみると、光秀の“動機”がわからず“黒幕”がいたのではないかと考えてしまいます。
わかりやすく、当時の光秀の立場を、かつては“小企業”にすぎなかった「織田有限会社」にたとえてみましょう。
“うつけ”と呼ばれた信長新社長は、家族や親族から「会社乗っ取り」に遭い、先代からの重役(家臣)も信用できず、新たな部下を実力主義で登用しました。
熱田の港といった利権をもつ信長の会社を、今度は有力な大企業が乗っ取りにかかります。
そんなときでした。
妻の濃姫(帰蝶)と同国で縁者だった「明智十兵衛光秀」なる頼もしい人物が中途採用されます。
光秀は、妹(一説では義妹)の「おつまき」を信長の側室(愛妾)に輿入れさせ、信義の証とし、いわゆる“義兄弟”になると、信長の片腕としてたちまちに頭角をあらわします。
その実力によって、「織田株式会社」のナンバー2に抜擢され、「都」の丹波、山城と「近江」の坂本の“支社長”に織田株式会社ではじめて支店長を任せられるまでになります。
そして、「信長-光秀」の“義兄弟”コンビは、ついに念願の宿敵、武田家を滅ぼしました。
このときの名目の総大将は、まだ実績がなかった嫡男「信忠」でした。
「本能寺の変」の年、天正10年の3月、3か月前のことです。
武田家滅亡によって、近隣の会社の合併吸収にすべて成功し、「織田大企業」は、まずは“安泰”という状態が生まれたのです。
戦後処理を終えて帰ってきた光秀は、祝いの席で、「われらも苦労のしがいがありましたな」とかなんとかナンバー2らしく重役(家臣)がいならぶ前で誇らしげに語ります。
これに信長は激怒。
みなの面前で頭から血が出るほど光秀を打ち付け、激しくののしったのです。
なぜなら、凡庸で実績がなかった嫡男「信忠」を、“武田家滅亡の総大将”という功績によって、ようやく「次期社長」に任命する道筋ができたところだったからです。
この一件をさかいに、信長は光秀への態度を180度一変させます。
側室の「おつまき」は昨年、亡くなっており、“義兄弟”の縁も弱まっていた時期でした。
嫡男「信忠」が「織田大財閥」を継ぐことが決定し、元のナンバー2光秀は、凡庸な秀忠を抱える信長にとって、もはや邪魔でしかない存在になっていたのです。
そういうことがありまして、家康への饗応役の光秀を難癖をつけてやめさせると、まず中国地方への出張を命じます。
それは、格下の中国地方支店長「秀吉」の下に就けという命令でした。
さらに決定的に追い討ちをかけたのは、信長直々の下達ではなく、使いの者にナンバー2の“証”だった丹波など「中央支店」の領土を没収し、いまだ敵方の“遠方支店長”に任じられたことです。
ワンマンだった信長の無理難題を、粉骨砕身、ナンバー2として支え、小企業から大財閥へ、日本一の大企業に発展して、ようやく“安堵”できる状態になったとたんの“ありえない”仕打ちでした。
「息子の信忠を副社長にするのでお前はもはや不要」とばかりに、地位も領土(食い扶持、財産)も没収され、給料は、敵方の地方の子会社を乗っ取って家族や家臣を養えばよいとばかりに、手のひら返しの目に遭った老齢の光秀でした。
事情があったとはいえ、裏切ったのは光秀ではなく、信長のほうでした。
でなくても、当時は天下が統一される前ゆえ「領土」を守り生き抜くための下克上は当然とされた時代です。
光秀は、当然の選択をしました。
それが「本能寺の変」です。
ところが、その後、光秀を主君「信長」を殺した“極悪人”のように喧伝したのが秀吉で、信長に代わり“天下獲り”を成したことを正当化させ、天下人の立場を維持するためでした。
さらに、後世、秀吉の次に「天下」を掌中にした家康は、天下泰平の世を継続させる政策の思想的根幹として、“君に忠”、“親に孝”、“長幼の序”といった立場による秩序を重んじる「儒教」を推奨し、以後、下克上が行なわれないようにしたのです。
これ以降、光秀のイメージは、「儒教」の教えにそむいて主君「信長」を殺した“謀反人”として語られるようになります。
そして、現在に生きる私たちも、倫理的にそう思い込まされています。
このような「時代のからくり」を知ると、“思い込み”のフィルターがとれて、事実が見えてくるのではないでしょうか。
まだ天下は統一されておらず、自分の「領土」(国)は自分で守るのが“正義”の時代のお話です。
現代と違って、「領土」の所有によって、田畑から日々のお飯(まんま)にありつけ、領主も国の運営ができる自給自足がメインの時代です。
だからといって、他国との“流通”や“商い”が行なわれていないわけではありませんが、それでも農作物がとれる田畑が生きる糧となっていた「領土第一」の時代でした。
今年2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀も同様で、二人三脚のナンバー2として天下獲りに貢献してきたにもかかわらず、“義兄弟”だった信長から「領土」を取り上げられる裏切りに遭って「本能寺の変」におよびました。
それは、光秀からみれば、お天道様の道理にもとる信長への当然の“誅殺”だったわけです。
それを天下が統一された秀吉以降の“ルール”からみると、光秀の“動機”がわからず“黒幕”がいたのではないかと考えてしまいます。
わかりやすく、当時の光秀の立場を、かつては“小企業”にすぎなかった「織田有限会社」にたとえてみましょう。
“うつけ”と呼ばれた信長新社長は、家族や親族から「会社乗っ取り」に遭い、先代からの重役(家臣)も信用できず、新たな部下を実力主義で登用しました。
熱田の港といった利権をもつ信長の会社を、今度は有力な大企業が乗っ取りにかかります。
そんなときでした。
妻の濃姫(帰蝶)と同国で縁者だった「明智十兵衛光秀」なる頼もしい人物が中途採用されます。
光秀は、妹(一説では義妹)の「おつまき」を信長の側室(愛妾)に輿入れさせ、信義の証とし、いわゆる“義兄弟”になると、信長の片腕としてたちまちに頭角をあらわします。
その実力によって、「織田株式会社」のナンバー2に抜擢され、「都」の丹波、山城と「近江」の坂本の“支社長”に織田株式会社ではじめて支店長を任せられるまでになります。
そして、「信長-光秀」の“義兄弟”コンビは、ついに念願の宿敵、武田家を滅ぼしました。
このときの名目の総大将は、まだ実績がなかった嫡男「信忠」でした。
「本能寺の変」の年、天正10年の3月、3か月前のことです。
武田家滅亡によって、近隣の会社の合併吸収にすべて成功し、「織田大企業」は、まずは“安泰”という状態が生まれたのです。
戦後処理を終えて帰ってきた光秀は、祝いの席で、「われらも苦労のしがいがありましたな」とかなんとかナンバー2らしく重役(家臣)がいならぶ前で誇らしげに語ります。
これに信長は激怒。
みなの面前で頭から血が出るほど光秀を打ち付け、激しくののしったのです。
なぜなら、凡庸で実績がなかった嫡男「信忠」を、“武田家滅亡の総大将”という功績によって、ようやく「次期社長」に任命する道筋ができたところだったからです。
この一件をさかいに、信長は光秀への態度を180度一変させます。
側室の「おつまき」は昨年、亡くなっており、“義兄弟”の縁も弱まっていた時期でした。
嫡男「信忠」が「織田大財閥」を継ぐことが決定し、元のナンバー2光秀は、凡庸な秀忠を抱える信長にとって、もはや邪魔でしかない存在になっていたのです。
そういうことがありまして、家康への饗応役の光秀を難癖をつけてやめさせると、まず中国地方への出張を命じます。
それは、格下の中国地方支店長「秀吉」の下に就けという命令でした。
さらに決定的に追い討ちをかけたのは、信長直々の下達ではなく、使いの者にナンバー2の“証”だった丹波など「中央支店」の領土を没収し、いまだ敵方の“遠方支店長”に任じられたことです。
ワンマンだった信長の無理難題を、粉骨砕身、ナンバー2として支え、小企業から大財閥へ、日本一の大企業に発展して、ようやく“安堵”できる状態になったとたんの“ありえない”仕打ちでした。
「息子の信忠を副社長にするのでお前はもはや不要」とばかりに、地位も領土(食い扶持、財産)も没収され、給料は、敵方の地方の子会社を乗っ取って家族や家臣を養えばよいとばかりに、手のひら返しの目に遭った老齢の光秀でした。
事情があったとはいえ、裏切ったのは光秀ではなく、信長のほうでした。
でなくても、当時は天下が統一される前ゆえ「領土」を守り生き抜くための下克上は当然とされた時代です。
光秀は、当然の選択をしました。
それが「本能寺の変」です。
ところが、その後、光秀を主君「信長」を殺した“極悪人”のように喧伝したのが秀吉で、信長に代わり“天下獲り”を成したことを正当化させ、天下人の立場を維持するためでした。
さらに、後世、秀吉の次に「天下」を掌中にした家康は、天下泰平の世を継続させる政策の思想的根幹として、“君に忠”、“親に孝”、“長幼の序”といった立場による秩序を重んじる「儒教」を推奨し、以後、下克上が行なわれないようにしたのです。
これ以降、光秀のイメージは、「儒教」の教えにそむいて主君「信長」を殺した“謀反人”として語られるようになります。
そして、現在に生きる私たちも、倫理的にそう思い込まされています。
このような「時代のからくり」を知ると、“思い込み”のフィルターがとれて、事実が見えてくるのではないでしょうか。
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