消された九州「邪馬台国」
2020.05.21
文献などに直接の証拠は記されていません。

ですが、支那の歴史書『三国志』に記される“いにしえの倭国”こと「邪馬台国」が、日本の正史『日本書紀』に記されていないのは事実です。

なぜでしょうか?

宝瓶宮占星学サイトでは、『日本書紀』の“編集方針”の解明から、次のように結論しました。

1、当初からの統一独立国家「日本」とするため。
2、有史以来の万世一系の皇統を記すため。

結果、

3、統一大和政権以外の“国”は記さない。


『日本書紀』は、天武天皇(てんむ てんのう)によって編纂が命じられ、天武崩御後の720年に完成し上奏されます。

その経緯は、天武天皇即位のわずか10年前に、天智天皇(てんじ てんのう)こと中大兄(なかのおおえ)が、朝鮮半島で唐羅連合と戦った「白村江の戦い」(663年)で敗北し、いつ玄界灘を越えて唐が攻め込んでくるかもしれなかった時代があったからです。

敗戦の翌年、急遽、太宰府に「水城」(みずき)を築き、瀬戸内海沿岸に「山城」(やまじろ)を築きます。

しかし、さいわいにして、唐と新羅は仲間割れをし、戦さをはじめたために、唐は逆に日本に使節を送って新羅と組まないようにけん制したこともあって、ことなきをえました。


さらにさかのぼる、512年のことです。

継体天皇は、朝鮮半島南部にあった領土「任那4県」を、仲間内だった「百済」に割譲します。

その百済も、約120年後の630年に滅ぼされて、日本は半島への足場を完全に失いました。

その百済復興をかけて、中大兄が「白村江の戦い」を起こしたわけです。

敗戦後の日本の国内はバラバラで、信望のなかった天智天皇(中大兄)に代わり、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと天武天皇による挙国一致の国づくりがはじまります。

その“バックボーン”として、1000年後も皇位争いを起こさないように編纂を命じたのが『日本書紀』です。


その「編集方針」は、有史以来、当初からの統一独立国家「日本」(大和)であり、神武天皇以来、万世一系の皇統による臣民国家であることを明文化して意識統一をはかることでした。

そういった事情があるため、当時からすでに400年以上も前のことながら、魏の冊封下にあった北部九州連合こと「倭国」や「卑弥呼」はもちろん、女王が都する「邪馬台国」のことを記録に残すことはしなかったのです。

もし、記してしまえば、正当性をもった当初からの「統一大和」にならないし、天皇のもと「卑弥呼」のあつかいにも困ってしまいます。

そのため、倭国の名称を消し去り、支那に対しては、“倭”(わ)の音を流用した「大和」と改名したわけです。


一方、北部九州連合「倭国」は、3世紀の卑弥呼以降、一部が東征したものの九州で存続し、俗にいう“九州王朝”こと後期「倭国」として存続していました。

しかし、600年、当時の阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)倭国大王(おおきみ)は、隋に使いをおくって支那の冊封下から離れる旨を告げ、事実上の「独立宣言」をします。

このときの髙祖文帝の言葉が「はなはだ義理なし」でした。

九州倭国大王は、自国を小国だった本州畿内国(大和)に吸収合併させるかたちで、「大和王朝」を7世紀初頭に築きます。

これが名実ともの「統一大和」のはじまりです。

この時点で、冊封下にあった北部九州連合「倭国」も、むろん卑弥呼や「邪馬台国」も、のちの“九州王朝”こと後期「倭国」も、吸収されて消えたのです。


ついでに書くと、『日本書紀』の上奏にあたって消されたものがあります。

7世紀の統一大和の立役者「蘇我本宗家」も、中大兄らによってでっち上げられたクーデター「乙巳の変」(いっしのへん:645年)によって、九州倭国の数々の「歴史書」とともに消されてしまいました。

“聖徳太子”がつくったとされる「冠位十二階」は、倭国の阿毎多利思比孤大王が定めたものであることが、『隋書』を読めばみえてきます。

その意味は、九州倭国大王また蘇我本宗家の功績は、すべて“聖徳太子”という名のもとに置き換えられて記録されていることを物語っています。









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