ついでに「邪馬台国」を問う
2020.05.26
先の「消された九州『邪馬台国』」と「補足:阿毎多利思比孤」のついでに、邪馬台国そのものに触れておきます。


◆ 邪馬台国の“遺跡”

古代支那の歴史書『三国志』(魏志)や、『隋書』、また『旧唐書』を読んでいくと、くだんの「邪馬台国」は、北部九州にあったことがハッキリとわかります。

畿内大和を“邪馬台国”にしたい学者は、よほど読解力がないか、意図的に日本を中国の冊封国家にしたい“曲学阿世”(きょくがくあせい)の徒としか思えません。

かつて、金印が発見された「奴国」をふくむ地域が卑弥呼を和の象徴として共立した「女王国」だったと容易に読めるからです。

なので、卑弥呼が都した「邪馬台国」は、奴国があった北部九州でしかなく、いわゆる“北部九州連合”「倭国」が3世紀に築かれていたのです。

ちなみに、「邪馬台国」の“遺跡”が、吉野ヶ里などのようにみつかることを期待してもムリで、防御にも優れた土地にあったために、その後の歴史においても相応ながら要所として発展し、遺跡のうえに数々の建築物が建てられたり、市街地などとして今日では発展しているためです。


◆ 日本列島の当時の国

「邪馬台国」の比定で注意すべきは、邪馬台国が栄えた3世紀当時、“玄関”である九州からは遠かったために支那の記録には残らなかっただけで、同様に繁栄した国家は、日本列島の各地にありました。

それを、支那の文献に残っているからといって、「邪馬台国」だけしか当時の日本に繁栄した国家がなかったと考えると、とんでもない間違いをします。

そのような視野狭窄におちいると、古代に栄えた遺物や遺跡また記録などが発見されると、「すわ! 邪馬台国か」となんでも錯誤してしまうことが起こります。

そうではないのです。

3世紀前後の当時、邪馬台国以外に栄えた国は、だれでも知っている一例をあげれば、出雲、丹後、阿波、諏訪など、かなりの数の国がありました。

そのなかでも、出雲や阿波は特別で、出雲は独自文化なので「邪馬台国」だと主張する人は少ないのですが、阿波をはじめ四国の場合、「邪馬台国は四国にあった」とかたくなに信じ込む人が多いのです。

それは、阿波には古代ユダヤ支族にもかかわる遺物などがあり、天皇家にもかかわる忌部氏がいるなど、“特別”な国なのですが、それゆえ逆に、「支那の冊封下」にあった「邪馬台国」などでは決してありえません。



◆ “邪馬壱国”(やまいこく)

いまだに「邪馬台国」を“邪馬壱国”(やまいこく)とよぶ人がいます。

結論をいえば、“邪馬壱国”は間違いで「邪馬台国」(やまたいこく)が正しいのですが、俗称“魏志倭人伝”こと『魏志』(倭人条)には、たしかに“邪馬壱国”(やまいこく)と記されています。

それをもって、「邪馬台国はなかった」というのは、歴史の事実を知らない短絡思考です。

日本や支那の学者たちが、『魏志』(倭人条)には“邪馬壱国”(やまいこく)と記されていることを知りながら、なぜ今日に至るまで「邪馬台国」(やまたいこく)と呼び、語り継いできたのかを考えなければなりません。

カンタンです。

当時の学者は誰でも知っていましたが、『魏志』(倭人条)の“邪馬壱国”(やまいこく)こそが例外で、ほかの文献は“魏志倭人伝”のタネ本となった記録もすべてふくめて、「邪馬台国」(やまたいこく)と正しく記されていたからです。

では、それをなぜ“魏志倭人伝”のみ、“邪馬壱国”(やまいこく)と記したのでしょうか。

それは、曲学阿世とまでは申しませんが、“TOP”におもねて史実を曲げて記すことでも知られている著者「陳寿」(233‐297)が、「臺(台)」(たい)という字は、皇帝の“玉座”やその直属の“政務庁”をさすことがあることから、東夷の国(日本)に使うことをはばかり、意図的によく似た「壹(壱)」(い)に変えて記したからだといえます。

もっとも、「臺(台)」であっても、“しもべ”を象わしますので気の回しすぎだったです。

それを知っている当時の学者たちは、ちゃんと「邪馬台国」(やまたいこく)と表記してきました。

そういうことがありまして、二代目女王「台与」(とよ)も、“壱与”(いよ)ではないために、四国と邪馬台国は関係がありません。



◆ 水行20日、水行10日陸行1月

半島の付け根付近にあった「帯方郡」から、邪馬台国」にいたる行程をどのように読むかで所在地が異なります。

平和ボケしてしまうと、「南は東の間違い」だとか、「1月は1日の間違い」だとか、かってな解釈をはじめます。

しかし、昨今の旅行記とは異なり、当時の記録は「軍事偵察」なので、少なくとも重要な方角を東を南に間違えたり、行軍に必要な日数を意図せずに間違えるということはありません。

俗称“魏志倭人伝”に記される行程を、「帯方郡」や一大卒がおかれた「伊都国」から直列に読むか放射状に読むかということですが、直列とともに総括的に併記されています。

帯方郡から女王国(北部九州)の「伊都国」までの前半は行程を直列で記し、諸国を検察する伊都国から国内を紹介する奴国と不弥国までは同様ですが、その後に記される投馬国と邪馬台国は、日数による併記になっています。

つまり、不弥国までは「里程」で記したあと、南に海はないにもかかわらず、急に水行に変わり「日数」で「投馬国まで水行20日、邪馬台国まで水行10日陸行1月」と記されるのは、再度「帯方郡」から何日ほどかかるかを述べなおしたものです。

なので、「水行」のみで行ける投馬国は海に接した海岸沿いにあり、「陸行」が必要な邪馬台国は、河川の上流域でありながらもかなりの内陸部にあります。

この「陸行1月」を、現代人の感覚でとらえると間違います。

当時は、整った道路や照明灯はなく、河川を流れに逆らって遡上したり、草木が生い茂る山道や獣道をとおったり、さらには安全や食料を確保したり、日が暮れないうちに野営の準備をしながら進むことが多いために、港に到着後、直線で60~70kmの距離であったとしても、曲がりくねった道や川沿いを高低さを経ながら進めば、1か月近い日数を要します。

北部九州で、河川の上流域に位置し、防御にも優れ、近隣にひらけた土地がある場所で、“魏志倭人伝”に記されるように北にも南にも接することができ、さらに申し上げますと、徐福などにも由来して支那語が残る可能性が高い地域といえば、「邪馬台国」に比定できる場所は、ほぼ1つしかありません。

比較的に有名な場所の近辺なので、皆さまにもお考えいただきたいのですが、奈辺がありし日の「邪馬台国」です。







コメント一覧
コメント投稿

名前

URL

メッセージ

- CafeNote -