“逆説”の邪馬台国-4
2020.09.12
【「里程」と「日程」問題】
「邪馬台国」の所在論争は、「魏志倭人伝」の問題です。
作者 陳寿が“行程記録”を正しく記せなかったためです。
もしくは、よく理解できないまま「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を著したためです。
どういうことか。
もし、陳寿が「邪馬台国」への行程を正しく理解し、正確に記していれば、今日のような“邪馬台国所在論争”は起きることはありませんでした。
陳寿は、「倭国」を訪れたことがありません。
そのため、すでにあった魚豢(ぎょかん)の『魏略』(ぎりゃく)を参考にしました。
また、いにしえの「奴国」や3世紀の「倭国」から魏に行った使者の記録も参考にしたでしょう。
さらには、当然、魏王の命を受け、倭国を訪れた帯方郡の郡使の記録を元に、「魏志倭人伝」を著したのです。
もっとも、陳寿が行程を正確に記せなかったことを、次のように“反論”されるかたもいるでしょう。
「いやいやそうではない。陳寿が参考にした“行程記録”そのものが不正確だったのだ」と。
そうでしょうか。
たしかに、パーフェクトではないのは事実ですが、「魏志倭人伝」を読むかぎり、“当たらずとも遠からず”の記述を陳寿は、部分的に記しています。
なので、“行程記録”そのものが間違っていたわけではありません。
間違えたのは、明らかに陳寿のほうです。
では、実際はどうなのか、みてみましょう。
1、郡使は「伊都国」に駐まる
「魏志倭人伝」には、次の一文があります。
● 「魏志倭人伝」より抜粋(1)
「伊都国に到る。(中略) 郡使往来するとき、常に駐(とど)まるところなり。」
すでに指摘されていることですが、伊都国(いとこく)に“至る”ではなく、「到る」という字がもちいられていることは“到着”を意味するために、郡使は「伊都国」までしかきていません。
伊都国には「一大卒」が置かれ、“女王国連合”約30諸国を“検察”していたことが「魏志倭人伝」に記されています。
「常に伊都国に治す」と記されていることから、郡使は、わざわざ危険を冒してまで諸国に行かなくても、伊都国で用が足りたのです。
当然、「常に駐(とど)まるところなり」と、駐車場の“駐”が使われていることも、郡使は伊都国に滞在していたことがわかります。
では、このことは何を意味するのでしょうか。
簡単です。
郡使が出発した「帯方郡」から、半島南端(倭の北岸)を経て、「伊都国」に到るまでの行程(里程)は、倭国を訪れた郡使ら自らが体験した比較的に正確な記録です。
なので、大きく間違うことはありません。
さらには「伊都国」と地続きの「奴国」(なこく)や隣の「不弥国」(ふみこく)までは平野部にあり近いことから、記された“里程”や“方角”に大きな間違いはないといえます。
つまり、「不弥国」までの行程は丸めた数字ながらほぼほぼ合っていますので、場所の比定は比較的、簡単にできるのです、
2、軍事偵察
次に、陳寿の間違いについて述べます。
現在の平和な時代の視点から、「魏志倭人伝」を解釈すると間違います。
たとえば、「南は東の間違いだ」とする強弁は、愚の骨頂です。
なぜなら、魏(帯方郡)の郡使は、“物見遊山”や“観光旅行”で「倭国」を訪れたわけではありません。
呉や蜀などと戦争中だった魏は、“軍事偵察”をかねて倭国を訪れました。
南方の「呉」、西方の「蜀」の二方面で熾烈な戦いを繰り広げていた「魏」は、東方の半島はもちろん、海を隔てているとはいえ、「倭」を味方につけておくことは、三方面の戦いを避けるためにも戦略的に最重要課題でした。
そのため魏王は、“東夷”の国でありながら、女王卑弥呼に「親魏倭王」の金印を仮授したのです。
平和ボケすると、このあたりの事情が見えなくなります。
魏の郡使は、万が一のことを考えて、「地理」や「方角」や「里程」の軍事専門家を随伴していたのは、常識中の常識です。
それゆえ、「魏志倭人伝」には、行程はもちろん、倭国の山海や風習また産物などが詳しく記されています。
すべて、倭国と戦さになったときのためなのです。
つまり、随伴した軍事専門家が「方角」や「里程」を大きく間違えて報告することはありえません。
もし、間違えるレベルであれば、古来より戦乱が続く大陸では、“笑いもの”にされるか、“戦さ”にならないばかりか、最悪は敗北し、国を滅ぼすことになってしまいます。
そのような事由から、郡使が駐(とど)まった「伊都国」また近隣の「不弥国」までの“里程”や“方角”は相応に正しく、信用できるのです。
問題は、伊都国から離れた、「投馬国」(つまこく)や「邪馬台国」さらにその南にあった旁余の諸国です。
3、陳寿は複数の記録をつなげた
問題は、実際には郡使が訪れなかった「不弥国」に続く次の行程です。
● 「魏志倭人伝」より抜粋(2)
「南して投馬国に至る、水行20日なり。(中略) 南して邪馬台国に至る、女王の都する所なり、水行10日、陸行1月」
最も重要な部分です。
解釈に課題が生じるポイントとなる部分がここなのです。
もし、この記述を「不弥国」に続くものだとすれば、「邪馬台国」はとんでもない位置になります。
ここがミスだとわかるのは、「不弥国」の南に水行20日などできる海や河川はありません。
陳寿の記述の“誤り”がここにあります。
それゆえ解釈が大きく分かれ、「邪馬台国所在論争」の最大要因になっています。
では、ヒントを書きましょう。
陳寿は、複数の記録を参考にして「魏志倭人伝」を著しました。
郡使は「伊都国」までしか来ていません。
にもかかわらず、「伊都国」と地続きの「奴国」や「不弥国」はともかく、別の記録から「投馬国」(つまこく)と「邪馬台国」への行程を、不弥国に続けて記してしまったことが、陳寿のミスです。
なぜなら、不弥国までの行程は「里程」です。
ところが、投馬国と邪馬台国への行程は「日程」です。
このような“ダブル・スタンダード”の表記は、郡使に随伴した軍事専門家は行ないません。
もし、行なったのであれば、まず帯方郡を出発してからの「里程」と「方角」を記しておいて、そのうえで再度、帯方郡からの「日程」を記し、万全を期したといえなくもありません。
にもかかわらず、陳寿は、不弥国までの「里程」に続けて、ことわり書きもなく、南に投馬国までの「日程」を水行20日のと記し、邪馬台国までの「日程」を水行10日、陸行1月と記したのです。
ドラマ的に書きたがる陳寿の最大のミスです。
「里程」と「日程」は、並列表記、もしくは別の「行程記録」を陳寿がかってにつなげたものだとわかれば、ことは簡単です。
4、「投馬国」と「邪馬台国」の比定
結局、帯方郡から水行のみ20日でいける海に面した国が「投馬国」です。
一方、水行10日で沿岸に着き、そこから当時の交通で陸行1月がかかる内陸部の国が「邪馬台国」です。
ここまで明かせば、「魏志倭人伝」などから邪馬台国の所在を試みておられるかたは、かなり絞り込むことができるでしょう。
もちろん、皆さまがご自由に比定されてかまいません。
私見は述べず、ここではヒントのみ書いておきます。
A) 邪馬台国は河川の上流域
当時の交通は船が主役です。
道路は国防を考えてのこともあって充分に整備されてはおらず、海や河川がメインの交通網でした。
「邪馬台国」が陸行1月の内陸部に位置するというのは、遡行しやすい河川の上流域に位置していたことを意味します。
河口や下流域は津波や洪水などの水害はもちろん、上流の国から攻められやすいためです。
古く由緒ある国ほど、早い者勝ちで広い平野部をそなえた河川の上流域に国(都)をつくりました。
中国も例外ではありません。
長安(西安)は、黄河の上流にある支流「渭河」の上流の広大な盆地に築かれた都です。
洛陽は、山を隔てた黄河の上流に隣接し、支流の「洛河」のほとりに築かれた都です。
日本の場合、のちの平城京や平安京も河川の上流域の盆地に築かれた都でした。
B)南に旁余の21か国と狗奴国
「魏志倭人伝」によれば、邪馬台国の南に「女王国グループ」に属する21か国の旁余の諸国があったと記されています。
邪馬台国を比定するさいは、南に21か国が存在できる地がなければなりません。
当時の国邑(こくゆう)ゆえに、現在の県を超えるほどの広さはありませんが、21か国が河川などを通して相応に隣接する規模であることが条件です。
さらに、その南には女王国連合と敵対する「狗奴国」があったと「魏志倭人伝」には記されています。
女王国の境界がつきる旁余の諸国の21か国の南に、さらに相応の国力をもった「狗奴国」(くなこく)が存在したのです。
つまり、狗奴国は「女王国連合」に相応に匹敵する平野部を抱えていた国でした。
上述いたしましたように、陳寿は解釈を間違えましたが、理由もなく間違えることはありません。
「奴国」や「不弥国」の南方に「邪馬台国」があったために、「帯方軍」からの「南」と気づかずに、「不弥国」に続けて著してしまいました。
結局、「邪馬台国」の南に女王国に属する「旁余の21か国」があり、さらにその南に、相応の規模を有した「狗奴国」が存在できる、河川上流域にある内陸部が女王卑弥呼の「邪馬台国」です。
ほかにも、比定に役立つ記述はありますが、長くなりましたので、今回はここまでです。
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