“逆説”の邪馬台国-製鉄
2020.09.26
 
【北部九州の鉄器文化】

2世紀の「倭国の乱」(倭国大乱)は、鉄鏃(てつぞく=鉄の矢じり)をはじめとした“鉄器文化”なくして起こりませんでした。

倭国の乱によって「卑弥呼」が“女王”に共立されたことはご存じのとおりです。

最近では弥生時代の時代区分はかなりさかのぼって、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃(卑弥呼が亡くなったあたり)とされています。

一連の調査の結果では、鉄器が青銅器よりも先に出現したという報告もあります。

鉄器は「利器」や「武器」として利用され、青銅器は「祭器」や「礼器」として使用されていたようです。

では、当時の最先端だった鉄器の状況をみてみましょう。


1、最古の鉄器

弥生時代の最古の鉄器は、福岡県糸島市から発見されています。

糸島市は、「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」(いとこく)があった場所です。

伊都国は、世々「王」がいたと記録されています。

また、「一大卒」がおかれ、倭国に来た魏の「郡使」らが常に駐(とど)まる処ですし、諸国を「検察」せしめていた“最重要国家”として知られています。

糸島市二丈町の「曲り田遺跡」の住居の床面近くから発見された「小鉄片」がそれです。

大きさは3cm×1.5cm、厚さは4mmほどですが、すったもんだのあげく“鍛造された板状鉄斧”の頭部と推定されました。

これが、いつの鉄器かというと、当時の年代観で「紀元前4世紀」の出土だということです。

専門家による「鉄の研究」では、九州北部においては、すでに1世紀の時点で“石器”から“鉄器”への変遷が行なわれていたことが確認されています。

それゆえ、2世紀末に女王「卑弥呼」の共立にいたった「倭国の乱」の2世紀には、九州北部ではすでに鉄鏃(てつぞく=鉄の矢じり)などが製作され盛んに使われていたわけです。

逆にいえば、攻撃能力の高い鉄の武器を大量に所有することが可能になったゆえに、有利になった国が「倭国の乱」(倭国大乱)を起こしたといえます。


平和利用をみても、藤尾慎一郎氏は次のように述べています。

「半島に先んじて、紀元前2世紀以降、北部九州では鉄斧や鉄製鍬先など農工具の鉄器化が進んだことによって、鉄が新たな可耕地開発に威力を発揮したことには変わらない。

台地や丘陵上の開発が進んだと考えられる。

日本海側を除く、近畿までの西日本に鉄器が本格的に普及するのは、石器がほぼ完全に消滅する(弥生時代の)後期後様以降と考えられる」

「弥生鉄史観の見直し」より引用。

つまり、畿内において「魏志倭人伝」に記される「鉄鏃」(てつぞく)などが普及し大量に使われるのは、卑弥呼の死去が推定される3世紀後半~末以降だというのです。


2、壱岐の製鉄跡

「魏志倭人伝」に記される「一支国」(いきこく)こと壱岐の「原の辻遺跡」からの鉄器の出土は、総数336点におよびます。

鍛造鉄斧(18)、鉄剣(7)、鉄鉾(1)、鉄鏃(37)などなどです。

「原の辻遺跡」は、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落で、まさに「魏志倭人伝」の時代以前からあった遺跡になります。

同じく壱岐の「カラカミ遺跡」も、同様に弥生時代の環濠集落で、ここからは117点の鉄器の出土が報告されています。

鍛造鉄斧(1)をふくむ鉄斧(8)、刀子(5)、鉄鏃(7)などがそれです。


さらに、「カラカミ遺跡」からは、鉄生産用の「地上炉跡」が見つかったことが2013年に新聞発表されました。

弥生時代の“地上炉跡”は国内で初めての発見で、弥生時代には明確に確認されていない“精錬炉”の可能性があると指摘されています。

市教委によると、炉跡は弥生時代後期(紀元1~3世紀ごろ)のものだということで、少なくとも6基が見つかっています。

「倭国の乱」(倭国大乱)は2世紀ですし、2世紀末に共立された女王「卑弥呼」による“邪馬台国連合”(女王国連合)は3世紀の時代なので、ピッタリ重なります。

卑弥呼(倭国)の使いが、「一支国」(いきこく=壱岐)を経て魏に至り、魏の郡使らが、「一支国」(壱岐)を経て一大卒が置かれた「伊都国」(いとこく=糸島市)に到り、駐(とど)まった時代と重なるのです。

当然、壱岐の鉄生産に関するノウハウや鉄器は、伊都国をはじめとした「女王国連合」に伝わりますし、逆に九州北部の鉄生産のノウハウが壱岐に伝わったものかもしれません。

さらにいえば、仮に畿内が女王の都“邪馬台国”でもしあるとすれば、壱岐や北部九州の鉄生産のノウハウや鉄器が畿内に伝わっていていいはずですが、その気配は微塵もないのです。

つまり、纒向(畿内)には、3世紀に九州を除く相応の規模の国邑(こくゆう)があったのは認められますが、それは“邪馬台国”と同時代の、別の「集合国家」であることは確実なのです。

というか、“邪馬台国”の時代に合わない纒向の一部の出土品までも、ムリヤリ3世紀の「邪馬台国」の時代に合わせる“GOD HAND”の持ち主もいらっしゃるようで、どこぞの国まがいの“こじつけ”や“強弁”は、良識的な日本の研究者をあきれかえさせているのが実状です。


3、鉄を“知らない”考古学者

先日、YouTubeを見ていたら「邪馬台国 卑弥呼 辺境のサバイバル外交」と題した番組がアップされていました。

参考になる反面、明らかな間違いも散見できる“雑”な側面も多かったのです。

一例を上げます。

弥生時代から古墳時代の遺跡を発掘している考古学者のM氏は「卑弥呼のルックスが重要だった」とか「砂鉄や鉄鉱石から鉄を取り出す技術は、当時の日本列島にはほとんど存在しなかった」とし、「日本列島の中で砂鉄から鉄を取り出せるようになったのは6世紀以降」(古墳時代後半)と述べていました。

そりゃ「邪馬台国 畿内説」の立場からはそうでしょう。

だって、近畿からは、日本海に面した丹後(京都)を除いては、纒向はもちろん弥生時代の「鉄器」はほとんど出ていないからです。

すでに鉄器文化圏だった九州北部と比べれば、青銅器や石器が中心の文化だったからです。

そのため、番組は“倭国大乱”の原因を「鉄の供給」(もたらすため)としていました。

つまり、2~3世紀には鉄がなかった「畿内説」学者のもとで構成されていた偏向番組で、海外の状況描写はともかく、日本国内の歴史を描くには“時代遅れ”の現実錯誤の番組だったのです。


事実は、上述いたしましたように、壱岐はもちろん北部九州はすでに鉄器生産が行なわれ、実際に使われていたからです。

訪日外国人向けの「ジャパン九州ツーリスト株式会社」のWEBページでも、「日本で最も古い鉄器は、縄文時代(紀元前3~4世紀)と言われ、福岡県糸島市二丈町で出土した」と常識的に記されています。

つまり、九州北部で起きた2世紀の「倭国の乱」は、“鉄の供給を求めた”ことが原因ではなく、すでに鉄は生産されていたことから、“ふつう”に考えれば「鉄製武器の普及」によって優位に立った国が引き起こした可能性が高いことは容易に推測できます。

なぜなら、弥生時代の「鉄鏃」の出土は、全国に比べて北部九州(とくに福岡県と熊本県)は驚くほど多いことなどからもあきらかです。

ところが、M氏の場合、「邪馬台国 畿内説」の立場をとるゆえに、2世紀の倭国大乱の時代はもちろん、3世紀の卑弥呼の時代のはずの「纏向遺跡」に、魏志倭人伝に記される「鉄鏃」の出土がほとんどないために、“日本に鉄はなかった”と「理屈」をつけるしかなかったようです。

いつもの畿内説学者のやり口なので、「またやってるぅ~♪」って感じでした。

結果、「英雄たちの選択」と題する当番組「邪馬台国 卑弥呼 辺境のサバイバル外交」は、周辺国を扱いながらも畿内説へと誘導し、日本国民に誤まった認識をもたらす“洗脳番組”のようにみえました。


以上は、学術的にすでに認められている弥生時代の鉄器のお話です。

ですが、さらに調べていくと、すでに縄文時代(新区分では弥生時代初期)には、中国とは異なる“製鉄”が日本国内で行なわれていた痕跡があることが、知る人ぞ知る事実になっています。

もっとも、学者センセイの“自説”とは異なるために、学会がそれを発表することはありませんし、にぎり潰してしまうこともあるようです。












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