“逆説”の邪馬台国-馬臺編
2020.10.13
【“邪馬台国”の名称問題】


「邪馬台国」の呼び名についての重大な問題提起です。

当時の日本人が倭の女王「卑弥呼」の都をほんとうに「ヤ・マ・タ・イ」もしくは「ヤ・マ・ト」と呼んでいたのでしょうか。

もちろん、いずれも違います。

「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に、“邪馬台国”と記されているために、後世の人々が、それを「やまたいこく」や「やまとこく」と読んでしまったのです。

現代中国の発音と、魏の時代の「上古音」は、多少なりとも異なる発音の部分があることからもそういえます。

ですが、そこにはもっと根本的な問題があるのです。

それは陳寿が、なぜ「邪・馬・壹・国」(ヤ・マ・イ・コク)という文字を使って、ヒミコの“都”を表現したのかです。


1、陳寿は意図的に“邪馬壱国”と記した

“邪馬台国”まで行ったことがない「魏」の郡使らが、常に駐(とど)まった「伊都国」(いとこく)にて聞いた倭の女王「卑弥呼」の都を、彼らなりに漢字で表記したものです。

発音自体が異なりますので、聞いた音に近い“当て字”なのはいうまでもありません。

陳寿も“邪馬台国”に行ったことはありません。

そのため、過去の『魏略』や郡使などの“訪倭記録”をもとに「魏志倭人伝」を著わしています。

ちなみに、「魏志倭人伝」のなかに「邪馬壹国」(壱)という表記は、たったの1度しか出てきません。


すでにご存じのかたも多いのですが、陳寿は【邪馬壹国】(やまいこく)と書き表わしたように、現在、通称の邪馬台国の「臺」(台)ではなく、「壹」(壱)の字をもちいました。

であれば、「邪馬台国」に関する公式な史書は、「魏志倭人伝」が最も古いので、陳寿が表記したとおりに、“邪馬壱国”(やまいこく)と呼んでいてもよさそうなのですが、そうはなっていません。

ご存じのように、「邪馬台国」と記すのが常識です。

なぜでしょうか。

陳寿は、『魏略』などの記録に残る「臺」(台)の字を、かってに「壹」(壱)の字に変えて、「邪馬壱国」(やまいこく)と記したことが明らかだからです。

それは、当時の支那の学者らも認めた事実で、それゆえほかの支那の古代の史書は、ちゃんと「邪馬台国」(やまたいこく、やまとこく)と記されています。

陳寿の“邪馬壹国”(やまいこく)は間違いだと退けられているのです。


2、『翰苑』に残された“邪馬台国”

陳寿が参考にした『魏略』などをはじめ、魏の郡使らが残した“訪倭記録”などを調べれば、すぐにわかるのですが、なんせ3世紀のお話なので、その原本は残っていません。

ところが、唯一、『魏略』の「逸文」が、なんと福岡の「太宰府天満宮」に残っているのです。

「逸文」というのは、ほかの書物の中に“引用文”として残されたもので、唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。

太宰府天満宮には、『翰苑』の第30巻と叙文のみが残っています。

なぜ、九州倭国の“首都”でもあった「大宰府」に、いにしえの“邪馬台国”が記された『魏略』の逸文が残っているのでしょうか。

それは「邪馬台国」の比定においても興味深い事実なのです。

ですが、ここでは触れません。

今回のテーマは、なぜ“邪馬壹国”(やまいこく)と記されたのかです。


『翰苑』から『魏略』逸文(一部)を抜粋

「憑山負海 鎮馬臺 以建都」

《意味》
山に憑き、海に負い、馬臺に鎮め、もって都を建てる。


解釈いたしますと、次のようになります。

倭国は、「山」が海岸近くまで迫っており、「海」によって営み、「馬臺」において国を鎮め、「都」としている。


大陸(内陸)の魏からみれば、「海に負う」という表現は、自分たちとは異なるために珍しいことだったようです。

いずれにしても、ここには、ちゃんと「台」(臺)と記されています。

「臺」(うてな)という字は、天子直属の“政庁”などを表わすこともありますが、一般的には、“土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台”など、高台を意味します。

彼らが、卑弥呼の“都”をこのように「臺」(台)をもちいて表現したのは、次のような理由が考えられます。


1、楼観などの「物見台」があった。

これだけだと、どこにでもあり、特徴にはなりません。別の理由です。


2、倭の女王「卑弥呼」が都としたゆえに「臺」(台:うてな)をもちいた。

これはそのとおりでしょう。
さらには、彼らお得意の“ダブル・ミーニング”が込められており、次のように解釈できます。


3、卑弥呼が都とした「邪馬台国」は、平野部ではなく台地などの「高台」(山際)にあった。


倭国に来た魏の人々が、「臺」(台)の字をもちいて表現した事実は、“邪馬台国”の所在地比定にも大きなヒントを与えてくれます。


3、なぜ「邪」の文字が付加されたのか

すると、こんな声が聞こえてきそうです。

「まてまて、“馬臺”には、“邪”の文字が抜けているではないか」

そうなのです。

陳寿は、記録に残っていた「馬臺」のままだと、「東夷」(とうい:東の野蛮人の意)の国には、“美しすぎる”と考えたようです。

まず、「馬」というのは、倭の地には牛馬がいないと「魏志倭人伝」に記されていますので、動物の「馬」がいたということではなさそうです。

また、「馬」を悪字とするのはむずかしく、現在も中国人の姓の一つで、「馬」は、百家姓の第52位になっているほどです。


一方、「臺」は、天子の政庁など高い場所を意味していますので、これまた悪字どころか、ふつう良い意味です。

なので、名文を書くものの、歴史をドラマチックに脚色して(ウソを)記すことでも知られる陳寿は、「臺」(台)には、“タイ”、“ダイ”、“トィ”、“イ”などの発音があることから、「臺」(台)によく似た「壹」(壱:イ)の字をあてました。

ですが、「馬壹国」(マイ国)だけでは、“悪字”にはまだ不十分です。

そこで、卑弥呼の「鬼道」から、「邪」(シェ)の字を頭にもってきて「邪馬壹国」(やまいこく:シェマイ国)としたようです。

人を貶める字をもちいたり、表現をして、悦に入るのは半島や大陸の悪い癖です。

失礼!

それよりも、「邪」(シェ)の意味ですね。

卑弥呼の「鬼道」は、宝瓶宮占星学サイトや当「“逆説”の邪馬台国-6」でも述べたとおりです。

死者の霊を乗りうつらせて言葉を語る「口寄せ」のことを、支那人は“鬼”の字がもつ意味から「鬼道」と表現しました。

なぜなら、中国や古代支那では、「鬼」は“幽霊”(ゴースト)や“死者”を意味するからです。

そえゆえ、死者の霊を呼び寄せて「口寄せ」(霊言、良くいえば託宣)を行ない衆を惑わす卑弥呼の“術”を、彼らは「鬼道」と表現したのです。


ちなみに、「口寄せ」は、“お日様”のもとでは行ないません。

なので「ひみこ」を、“日巫女”としたり、「天照大神」と完全同一視するのは、大きな間違いです。

また、“日食”が起きて殺されたというのも真っ赤なウソです。

正解は、「霊巫女」(ひみこ)だからです。

だいたいは、ローソクなどを灯した暗い密室などで「口寄せ」は行ないます。

そのほうが、実際に行なうのは「絶対」に避けなければなりませんが、卑弥呼のような霊媒者にとって、“霊”が乗り移りやすくなるためです。

ま、現代人ほど「科学思考」はいたしませんので、霊も共鳴しやすく、乗り移りやすかったことでしょう。

占星学からみても、当時は「双魚宮時代」の初期ですし、日本人の民族性は「魚宮」なので、「政」(まつりごと、祀りごと)に“祭祀”や“巫女”や“霊”(物の怪)は、ごくジョーシキでした。

「魏志倭人伝」にも、卑弥呼を見た人は少なく、館(部屋)にこもっていたようすが記されています。

そのとおりなのです。


4、ほんとうに「邪馬台国はなかった」(笑)

お話を戻します。

漢字一文字の意味を大事にするのが支那人です。

もっとも、明治の文明開化以降に漢字を組み合わせて、西洋の科学技術や文明を表現した“日本語”を、彼らは取り入れるようになりました。

新たな解釈が付加された漢字の“逆輸入”です。

お話はそれますが、現代中国の国名にもなっている「人民」や「共和国」は、皮肉なことに日本人が西洋言葉を訳して表現した「和製漢語」なのは有名です。

それは近年のことで、古代支那人は漢字一文字一文字の意味を重要視してもちいました。

『日中・中日辞典』によれば、「邪」には、「(迷信で死者の霊魂がもたらす)災い,たたり」と記されています。

ということから、陳寿は、女王「卑弥呼」の死者の霊魂を呼び込む「鬼道」から、卑弥呼が都とした「馬臺」を二重に貶める意味で、「臺」(台)を「壹」(壱)に変え、頭に「邪」をつけて、「邪馬壹国」(シェマトィ国)と表記したのです。

つまり、本来、“邪馬台国”(やまたいこく、やまとこく)も“邪馬壹国”(やまいこく)もありませんでした。

あったのは、『魏略』に記される「馬臺」(馬台、マトィ)国だったというのが真相です。


結局、「魏志倭人伝」に記された、たった1か所の「邪馬壹国」(邪馬台国=シェマトィ国)を、のちの人々が、“やまたい”や“やまと”と読んでしまったのは事実ですが、実際の歴史上の真実は、「馬臺」(マタイ、マトィ)という卑弥呼が“都”とした国でした。

なので、福岡の旧「山門」も、畿内の本来は7世紀以降の「大和」という呼び名も、3世紀の“邪馬台国”(マタイ、マトィ)に比定すること自体が、実は大きな間違いであることがわかります。













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