「仲哀天皇」は伊都国王
2021.04.15
 
『日本書紀』を解き明かすには、「編纂方針」と「表記基準」を知ることが必要です。

くわしいお話はともかく、初代“神武天皇”にはじまる古来からの“万世一系”による“統一独立国家”「大和」を「編集方針」としたのが『日本書紀』です。

そこには、“編集方針”ゆえにつくられた“ウソ”も記載されます。

ですが、できるだけ史実に基づいて記そうとされていて、“ウソ”を記す場合は、“荒唐無稽”なありえないエピソードなどで常識的に考えれば“作り話”だとわかるように工夫しています。

いずれにしても、最初からの統一独立国家“大和”として描いたために、畿内国(大和)以外の古来からの国々の存在は消され、各国の王たちもいくつかは、“万世一系”の皇統に組み込まれてしまいました。

近江または越を出身とする「継体天皇」もそのお一人です。

ですが、消された国の代表格はなんといっても九州「倭国」で、その王統も“万世一系”の皇統の大半を占めています。

なぜなら、初代“神武天皇”は、ご存じのように九州を出自とするからです。

さらには、7世紀初頭に、九州「倭国」の主導で、“小国”(弟国)の本州「畿内国」と合併することで、日本国こと「統一大和」がはじまったからです。

九州倭国王“阿毎多利思比孤”(あめの たりしひこ)大王は、なぜ自国をなくしてまで本州「畿内国」に吸収合併させ「日本国」を誕生させたのでしょうか。

答えは、シナの冊封下(属国)から脱却して独立するためです。

それまで、博多湾岸の「奴国」(なこく)をはじめ、邪馬台国で知られる北部九州「女王国」や、その後の九州「倭国」は、6世紀までシナの冊封下にありました。

そのシナの国力低下と、日本国(九州「倭国」)の繁栄によって、“国体”「水瓶宮」の日本らしく「対等」の独立国家建設をはかったためです。


シナの正史『隋書』には、次のように記されています。

●『隋書』「倭国伝」より抜粋

開皇20年(600年)、倭王の姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩雞弥(あほけみ:大王)というもの、使いを遣わして闕(けつ:王宮の門)にいたらしむ。
(中略)
使者言う、「倭王は、天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。(中略)日出ずれば、すなわち理務(政務:まつりごと)を停め、我が弟に委ねん」と。


この一文は、歴史学者でさえ、自国日本を貶めるために、“わけのわからない未開の文明国だったので、後年、近代的な律令国家を築く必要があった”などと、バカげた解釈をしています。

そうではないことは、続けて読めばわかります。

なぜなら、『隋書』には、九州倭国王がすでに「冠位十二階」を定めていたことが記されているからです。

“未開の文明国”どころではなく、九州倭国王「阿毎多利思比孤」は、今なら冊封下から離れても仕返しはされないと、隋の国力が衰退していたことを見抜いた「国際情勢」の把握と、「外交感覚」を発揮して九州「倭国」の独立をはかったのです。

事実、倭畿合併後の607年、阿毎多利思比孤は、隋の2代目「煬帝」(ようだい)に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」と、対等の立場で事実上の“独立宣言書”を送り、その直後に隋は滅亡しています。


お気づきでしょうか。

「日出ずれば…弟に委ねん」というのは、九州「倭国」と本州「畿内国」が合併して「日本国」が誕生すれば、「倭国」の政務(まつりごと)は「畿内国」(弟国)に委ねて独立するという意味です。

なぜ、「畿内国」を“弟(国)”と呼んだのかといえば、九州から出発した“初代「神武天皇」”の実在のモデルとなった人物(王)たちが、かつて本州近畿や畿内国に「東征」をしていたからです。

阿毎多利思比孤は、合併の直前に、律儀にも隋の高祖「文帝」に使者を送り、“仁義”をきったあと、ご丁寧にも“独立”後にまた使者を送って、「日出ずる処の天子」として「つつがなきや」とあいさつをしているのです。

このときの2代目「煬帝」の返答は、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者あり」でした。

ですが、翌年には使い(文林郎 裴清)を送ってきて、以後、隋は滅び、交流は絶えます。


九州「倭国」の主導によって「統一大和」(大倭)が誕生したのは、『日本書紀』でいえば、「推古女帝」の御世でした。

『日本書紀』は推古を天皇と記しましたが、実質的には九州倭国王だった「蘇我馬子」(蘇我本宗家)が実権をにぎっています。

それは、「推古天皇」の和風諡号「豊御食炊屋姫天皇」(とよ みけ かしきやひめの すめらみこと)からも読みとれます。

“九州(豊)から飯を食わしてもらった天皇”、もしくは“九州(豊)の飯炊き天皇”というほどの隠れた意味であることからも、天皇の諡号(しごう)らしくなく、むしろ推古女帝は、300年ほど前に共立されて“倭国大乱”を治めた「卑弥呼」のケースと同じように、倭畿両国の“和の象徴”として準備されていたものです。

なぜなら、蘇我馬子(そがの うまこ)、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と続いた蘇我氏三代の大王を、『日本書紀』は歴代「天皇」として記すことができないからです。

ご存じのように、のちに天智天皇となった「中大兄」(なかのおおえ)、ならびに天皇を傀儡(かいらい)にして時の権力者となった藤原氏の祖「中臣鎌子」によって、蘇我入鹿は暗殺(乙巳の変:645年)され、蘇我本宗家は滅びています。

彼らは、九州「倭国」に政権を握られ、“クーデター”によって政権奪取を図ったのです。

結局、後年、藤原鎌足(中臣鎌子)の子 藤原不比等(ふじわらの ふひと)が編纂に関与した『日本書紀』は、“死人に口なし”とばかりに、蘇我氏を“悪者”かのように記しました。

要は、父親(藤原鎌足)の正当化をはかったのです。

さらには、馬子の偉大な業績も抹消し、“厩戸皇子”(うまやどのみこ)のものとして書き換えてしまいます。


このような事実を知る当時の識者(仏教関係者)は、滅ぼされた蘇我氏の業績と遺徳をたたえ、怨霊を鎮めるために、「聖徳太子」と呼ぶようになりました。

それを“厩戸皇子”のことだと勘違いした人々によって、今日に至っています。

『日本書紀』(原文)には、どこにも「聖徳太子」とは記されていません。


以上は一例ですが、『日本書紀』は、当初からの統一独立国家「大和」一国史として記したために、九州「倭国」のことをはじめ、本当の歴史は残したくても記せずに、やむをえず消してしまった出来事がいくつかあります。


そんなこんながわかると、次のことが明らかになります。

当初からの統一独立国家「大和」とするために、実際の出来事を参考に、まず“初代「神武天皇」”による「東征」を描きました。

参考とした出来事のひとつは、弥生時代の初期に遠賀川河口域に発祥した日本の「稲作」を伝えた「饒速日命」(≒大已貴神=大国主大神)の日本全国への“東進”と“古代国づくり”です。

彼らは、『日本書紀』に“国譲り”をした神(古く高貴な人物)として記されています。

ですが、「神武東征」のモデルとなった代表格は、3世紀に“大和帰還”という名の「東征」を行なった、『日本書紀』でいう第15代「応神天皇」であり、事実上の「武内宿禰」(たけの うちの すくね)です。

「神宮皇后紀」の39年と40年に、「魏志倭人伝」(『魏書』)が引用されていることから、同時代の「仲哀天皇」、そして妃の「神功皇后」、皇子の「応神天皇」、また「武内宿禰」は、3世紀の人物として記されていることがわかります。

3世紀の九州「倭国」といえば、ご存じ倭の女王「卑弥呼」や“男王”また2代目「台与」の時代です。

では、「仲哀天皇」や「神功皇后」、また“蚊田”(福岡県糟屋郡宇美)でお生まれになったと記される「応神天皇」、さらには現在の佐賀県(武雄)を出自とする「武雄心命」(たけおごころの みこと)を父にもつ「武内宿禰」は、倭の女王「卑弥呼」や「邪馬台国」が記される「魏志倭人伝」には、どのような人物として記されているのでしょうか?


重要なサジェスチョン(示唆)を、ひょんなことからいただきました。

それもあって、「魏志倭人伝」に記される「伊都国」こと現在の糸島市(福岡県)にある「宇美八幡宮」(長野八幡宮)を、この4月に訪れました。

「魏志倭人伝」に「津に臨みて…」(港がある)と記される九州北岸部の「伊都国」は、「世々王あり」と記され、諸国を検察する「一大卒」が置かれ畏れはばかられていた、いわゆる当時の女王国の“政権都市”です。

現在でいう“首都”にあたり、倭の女王「卑弥呼」が都とした「邪馬台国」は、“御所”(京都)のようなものです。

糸島の「宇美八幡宮」には、「上宮」と「本宮」があるのですが、「上宮」について案内板には次のように記されていました。


●上宮
「祭神は仲哀天皇、当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、武内宿禰に命じ、香椎に在る所の先帝のお棺を、当山に収めて築陵したとある」


『日本書紀』に「9年春2月、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で亡くなられた」(神功皇后紀)と記される福岡市東区の「香椎廟」(香椎神宮)ですが、お棺は後日、「伊都国」に移され、糸島市の「宇美八幡宮」(長野八幡宮)の「上宮」に祀られているというのです。


また、『日本書紀』には次のように記されています。


●『日本書紀』「神宮皇后紀」より抜粋

「(神功)2年、(仲哀)天皇を河内国の長野陵に葬った」


当初、香椎廟(香椎神宮)に葬られていた(『日本書紀』ではこっそりと豊浦宮に仮葬されたとも)仲哀天皇の遺骸ですが、その後、神功天皇の2年に“河内国”の「長野陵」に葬ったというのです。

どういうことなのかと思っていたら、案内板からナゾが解けました。

仲哀天皇のお棺は、香椎から糸島市の「宇美八幡宮」がある長嶽山(ながたけやま)に築陵された「上宮」に移されますが、この地が『日本書紀』に記される「長野陵」だったのです。

なぜなら、宇美八幡宮は「長野八幡宮」といわれていたこともそうですが、糸島半島に流れ込む「長野川」から参道がはじまっているからです。


長野川中流域の船だまりに接する十数段の広い階段から「宇美八幡宮」の参道ははじまっています。(階段より撮影、うしろは長野川で「船だまり」です)


博多湾の東端に位置する香椎と、西端部の糸島半島、その西の付け根部に流れ込む長野川は、さほど遠くはありません。


ということから、結論を書きますと、「仲哀天皇」は「魏志倭人伝」に記される卑弥呼また台与の時代の「伊都国王」だった可能性が高まります。

「卑弥呼」が死んで“男王”が立つも治まらず、卑弥呼の一族の少女13歳の「台与」が二代目女王を継ぎます。

この“男王”は、仲哀天皇こと「伊都国王」を殺害した「狗奴国」(くなこく)の官「狗古智卑狗」(くこちひこ)か、もしくは狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)で、『日本書紀』でいえば、神功皇后の時代に実権をにぎっていた「武内宿禰」です。

断定はいたしません。

ですが、「魏志倭人伝」によれば、「狗奴国」は倭の女王に属さず、むしろ戦争を仕掛け、劣勢になった邪馬台国連合(伊都国側)は、「魏」に救援を頼む使者をおくっていたことが記されています。

しかし、それに応えて魏の使者が伊都国に来たときには、「卑弥呼、以(すでに)死す、冢をつくる」と記されていることから、「狗奴国」の勝利はほぼ確定していたのでしょう。


ご参考ながら、「武内宿禰」という呼称は、人名(固有名詞)ではありません。

「武」は、武力を象わすこともそうですが、“九州”また“筑紫”や“肥国”(佐賀の一部と熊本:狗奴国)などを意味します。

『古事記』では「建内宿禰命」(たけの うちの すくねの みこと)と記されます。

国産みのとき、肥国(佐賀の一部と熊本=狗奴国)は「建日向日豊久士比泥別」(たけ ひむか ひとよ くじひねわけ)と記され、熊襲国は「建日別」(たけひわけ)と記されています。

「建内宿禰命」の“建”(武)はこの地を出身とする人物を意味します。

彼は、3世紀には“筑紫”(ちくし)にも進出しています。

「宿禰」は、“主なる祖霊”を意味しますので、結局「武内宿禰」という呼称は、北部“九州王”をさすことになります。

彼こそが、「仲哀天皇」(伊都国王)を殺害し、“男王”として立った人物です。


「東征」した“神武天皇”の実在のモデルの一人となったこともあって、かなり荒っぽい(勇猛な)人物だったらしく、半島の『三国史記』には、次のように記されています。

249年もしくは253年の出来事です。

倭の使節をもてなす席上で、王族でもあり名将でもあった「干老」は、酒に酔ったのか、「そのうちに倭王は塩汲み奴隷にし、妃は飯炊き女になるだろう」と語った言葉が、倭王(男王)に伝わります。

怒った倭王は、半島に出兵します。

これが『日本書紀』でいう、神功皇后の“三韓征伐”のお話になったのでしょう。

倭軍の来韓に、「干老」はすべて自分の責任として幼い息子を連れて倭陣に出向き、謝罪をします。

ですが許されず、「干老」は火炙りの刑に処されたエピソードが『三国史記』に記されています。


そんな“男王”こと「武内宿禰」は、3世紀中頃に二代目女王となった13歳の「台与」(ほぼ「神功皇后」)を操るくらい朝飯前でしょう。

そして、九州「倭国」の事実上の支配権を確立した3世紀後半から末にかけて、彼(男王)は「神功皇后」と「応神天皇」を旗頭に、北部九州連合を率いて『日本書紀』に“大和帰還”と記される近畿一円への「東征」を行なったようです。


※注:
「宇美八幡宮」の案内板「本宮」には、「第16代仁徳天皇の治天10年(938年)、平群木兎の宿禰の子 博公を神官として、この霊蹟に神社を建立し気比大神 天日鉾尊を祀らせたのが本宮の起源である。」と記されています。
これは、西暦ではなく、神武天皇のご即位を元年とする「皇紀」のことで、西暦278年にあたります。
また、「長嶽山古墳群」の案内板では、13基ある円墳のうち、「上宮」がある1号墳のみが「帆立貝式古墳」としていますが、ありえません。
「上宮」は石祠になっていますので、これは後年つくられたものです。
仲哀天皇のお棺を葬った「長野陵」そのものは、古墳時代に崩されたか『日本書紀』が普及する以前に、別の人物の墳墓につくり替えられたようです。
それを再度、当地に残る伝承と『日本書紀』から1号墳上を「上宮」として、仲哀天皇をお祀りになったものだと思われます。
















コメント一覧
コメント投稿

名前

URL

メッセージ

- CafeNote -