「高良大社」へのご参詣
2021.06.18
 
【史実に即した「高良大社」(高良玉垂命神社)】


築後平野の中央部「久留米市」(御井:みい)にある「高良大社」(こうら たいしゃ)にご参詣をしてきました。


高良山(312メートル)の上腹(海抜220メートル)に鎮座し、境内から築後平野を一望できる。


◆「海神」は住吉大神(筒男三神)をふくむ

古くは「高良玉垂命神社」(こうら たまだれ の みこと じんじゃ)と呼ばれ、主祭神「高良玉垂命」は、“だれ”なのか、今では諸説があり、ワケあってハッキリしないとされています。

いずれであっても「大社」と呼ばれることから、近隣では、築後平野(福岡県)一帯はもちろん、西は武雄市(佐賀県)から、東は日田市(大分県)に「玉垂神社」また「玉垂宮」などが広がっています。

ところが、「高良玉垂命」については、『日本書紀』に記載がないのです。

ただし、“玉垂”といえば、「山幸彦と海幸彦」のお話の中で、「潮満玉」(しおみちの たま)と「潮涸玉」(しおひの たま)を山幸彦にさずけた、「海神」を思い起こします。

『日本書紀』神代(下)では、山幸彦は「彦火火出見尊」(ひこほほでみ の みこと)のことで、海幸彦は「火闌降命」(ほのすそりのみこと)と記されています。

問題は「海神」で、一般には、“わたつみ”と読まれ、古代海人族の「阿曇連」(あずみのむらじ)らがお祀りする「少童三神」(わたつみ さんしん=綿津見三神)と考えられています。

ですが、ひろく「海神」という場合、もう一方の古代海人族である“筒男三神”(つつのお さんしん=住吉三神)こと「住吉大神」(すみのえ おおかみ)をふくめなければなりません。

そうしないと、“正しい歴史”が見えてこないのです。

さて、以上を前提に、ここからは、“正体不明”とされる「高良玉垂命」が“だれ”で、どのような事情が「高良大社」に隠されているのか、信じてはもらえにくいお話を申し述べます。


◆「邪馬台国グループ」(女王国)の“滅亡”

高良大社がある「筑後平野」は、2~3世紀の「邪馬台国グループ」の某余の国でした。

遠まわしに書くと余計に分かりにくくなりますので、ハッキリと断定的に書きます。

奈辺は、かつて物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ ほのあかり くしまた にぎはやひ の みこと)が治めていた物部系の地域でした。

『日本書紀』では、“女性神”と勘違いするように記された「天照大神」(あまてらす おおかみ)ですが、明治になって、“皇祖神”とされ、本来は“男性神”であって伊勢(神宮)に祀られる「天照坐皇大御神」(あまてらします すめおおみかみ)その人です。

高良山(こうらさん=高牟礼山)では、奈辺の筑後平野にあった諸国が「邪馬台国グループ」に属していたことから、一大卒が置かれ“世々王あり”と記された「伊都国」の王「高皇産霊尊」(たかみむすひ の みこと=高木神)が、もともとは鎮座ましましていました。

そこに、「高良玉垂命」がきて一夜の宿を借りると、結界を張ってしまい鎮座してしまったという伝説が残っています。

要は、“玉垂命”との戦いに敗れて奪われたのです。

というのも、3世紀の「邪馬台国グループ」は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)でいう「狗奴国」(くなこく)の官「狗古智卑狗」(くこちひこ)、また狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)に敗れてしまったからです。

女王「卑弥呼」はすでに死に、「伊都国王」も殺されて降伏し、“男王”の支配下におかれます。

当然のなりゆきです。

「鬼道」(きどう)こと“死者(霊=ひ)の言葉”を語る女王「卑弥呼」(ひ みこ)は、「倭国大乱」を終結させるために“御輿”にかつがれた存在でしかなく、実権は「伊都国王」のもと“合議制”によって運営されていたのが、当時の「女王国」だからです。

それゆえ、“平和時”にはよいのですが、狗奴国から攻撃を受けた“戦時”には、強い統率力をもった「リーダーシップ」を欠き、「狗奴国」に抗しきれずに狗奴国王(男王)の支配下に入ってしまいました。


◆“北部九州連合”「九州倭国」の黎明

これを、『日本書紀』から記しますと、次のようになります。

殺された“伊都国王”は、今年4月の記事「仲哀天皇は伊都国王」に書いたように、第14代「仲哀天皇」です。

その妻「神功皇后」は、誤解をおそれずに書けば、「神宮皇后紀」自体が“実在”を疑わせるためフィクションの「話半分」の部分があることから、“卑弥呼”を投影した部分と、大半は、“男王”(狗奴国王)が立ったのち13歳で二代目女王となった“台与”(とよ)の成人後をメインに投影されています。

さらに、「歴代天皇紀」(人代)との二重構造で記されている『日本書紀』の「神代」(下)でいえば、山幸彦こと「彦火火出見尊」の妻で、初代「神武天皇」の“祖母”でもあり“叔母”でもある「豊玉姫」として投影されているのが、“台与”こと「神宮皇后」の史実の姿です。

さらに信じられにくいことを書きます。

この「邪馬台国グループ」を支配下におき、「九州倭国」こと“北部九州連合”の礎を築いたのが、“狗奴国王”として記され、『日本書紀』の著名な登場人物「武内宿禰」(たけのうち すくね)なのです。

その父「武雄心命」は、“肥前”(佐賀県)今でいう「武雄市」を出自とします。

『日本書紀』が、なぜ「武内宿禰」(『古事記』では建内宿禰)と記したのかというと、次のような事情からです。

『古事記』の「国産み」の段に、「熊曾国」(くまそ の くに)こと「建日別」(たけひわけ)が記されています。

「熊曾国」というのは、「肥国」(ひのくに)のことで、有明海でつながった「肥前」(佐賀)と「肥後」(熊本)の地域です。

そこで生まれ、のちに北部九州を治めたことから、「建」(武=九州の意)の「内」の「宿禰」(尊い祖神)と記されたのが「武内宿禰」の名前の由来です。

肥前と肥後のはざまにある筑後川流域は、「筑紫国」(白日別)と記され、現在の福岡県南部にあたり、この筑後川流域(筑後平野)に、かつての「邪馬台国グループ」がありました。

女王が都とした「邪馬台国」の南側地域です。

その北側は、御笠川(みかさ がわ)をはじめとした福岡平野また隣の糸島平野のグループで、「魏志倭人伝」に記される伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不弥国(ふみこく)です。

“軍事記録”「魏志倭人伝」(元データ)に即して矛盾なく解釈するとそれが史実になります。

つまり、伊都国王がいた糸島平野、また隣の福岡平野、さらには、「邪馬台国」をはさんで筑後平野一帯に広がる「女王国」(倭人国)を実質的に治めていたのが、『日本書紀』神代(下)の冒頭に「皇祖」と記される「高皇産霊尊」の子孫です。

ここで「霊」は、「ひ」と呼ばれていることにご注目ください。

“卑弥呼”の「ひ」は、「鬼道をもちい」と記されることから、支那で「鬼」は、“幽霊”また“死者”などを意味するために、“ひみこ”は「霊」(ひ)メッセンジャー、すなわち「いたこ」などのように“口寄せ”を行なう「霊媒師」がその正体です。

この高皇産霊尊と“卑弥呼”がいたのが、記紀でいう「高天原」です。

高皇産霊尊の「高良山」を、“一夜の宿”として借りて“結界”を張り、そのまま支配してしまった「高良玉垂命」こそが、邪馬台国グループ(女王国)を支配下においた狗奴国王こと「武内宿禰」なのです。

「高良玉垂命と武内宿禰」は同一人物なので、『日本書紀』は武内宿禰として記し、高良玉垂命は残されることなく、“正体不明”かのように扱われることになります。


◆高良大社、宇佐神宮、武雄神社の共通性

もう少し書いておきます。

上述からわかるように、かつての女王国(倭人国)こと「倭国」の“大王”(おおきみ)となったのが「武内宿禰」です。

しかし、『日本書紀』は、武内宿禰が蘇我氏の祖ということもあり、歴代天皇(大王)としては扱いませんでした。

「高天原」にとって敵方だったので仕方ありませんが、かといって史実を消すわけにもいかず、忠臣の「大臣」(おおおみ=首相)として記したわけです。

そういうことがありまして、通常、「神社」の屋根には千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)がありますが、「高良大社」(高良玉垂命神社)には、それがなく、御幣(紙垂:しで)も白ではなく真っ赤でした。

高良大社は、正殿に「高良玉垂命」、左殿に「八幡大神」、右殿に「住吉大神」が祀られ、本殿の御客座に「豊比咩大神」(とよひめ おおかみ)が合祀されています。

「武内宿禰」はというと、本殿の裏に祀られますが、江戸時代までは「高良玉垂命=武内宿禰」と考えられていました。

それが、明治の“天皇御親政”になって、“臣下”の「武内宿禰」を正殿に祀るわけにもいかず、“高良玉垂命”の正体は不明とされてしまいます。

実際(史実)は、左殿の「八幡大神」(応神天皇)も、右殿の「住吉大神」も、また御客座の「豊比咩大神」も、これら三大神は、すべて「武内宿禰」を主人とする“直近”の関係者です。

八幡大神こと「応神天皇」(誉田別命)は、「神功皇后」の皇子ながら、知る人ぞ知る“住吉大神”こと「武内宿禰」との“縁”は浅からず、また豊比咩大神は、「神代」(下)に豊玉姫として投影される“台与”こと「神功皇后」だからです。

つまり、「豊比咩大神」(台与:神功皇后)と「八幡大神」(応神天皇:誉田別命)は、高良玉垂命(武内宿禰)を“介”して「母子」の続柄なのです。

“豊(とよ)の国”こと大分県の八幡総本宮「宇佐神宮」では、当初からの主祭神を「比売大神」(ひめ おおかみ)とします。

今は両サイドに「応神天皇」と「神功皇后」が祀られ、「一之御殿」を応神天皇としつつも、中央の「二之御殿」に比売大神が、「三之御殿」に神功皇后が祀られています。

巷間では、「比売大神」は“宗像三女神”とされますが、高良大社の「豊比咩大神」(とよ ひめ おおかみ)のことです。

なぜなら、“豊”(とよ)の地で祀られる“比売大神”(ひめ おおかみ)が、他の土地では、識別できるように“豊比咩大神”(とよ ひめ おおかみ)と呼ばれるのは当然だからです。

もっとも、「宗像三女神」も「豊比咩姫大神」も海人族つながりなのは同じです。

「比売大神」を祀っていた宇佐に、「応神天皇」と「神功皇后」が祀られるようになったのは、6世紀になってからです。

以降、宇佐神宮(宇佐八幡宮)として立派になりました。

邪馬台国グループ(女王国)に属していなかった宇佐は、「高良玉垂命」(武内宿禰)を祀ることはありませんが、それ以外のご祭神は「高良大社」と同じなのです。

ちなみに、武内宿禰の出身地である佐賀県武雄市の「武雄神社」(武雄五社大明神)は、「武内宿禰」を主祭神とし、父親の「武雄心命」、『日本書紀』で応神の“父親”とされる「仲哀天皇」、その妻「神功皇后」、そして「応神天皇」を五祭神としています。

結局、宇佐神宮は、日本書紀史観による“オモテ向き”の公式ご祭神でもあり、武雄神社をふくめてもいいのですが「高良大社」は、“史実”に即した主祭神と妻子という、身近な関係者を祀る由緒ある神社になっています。














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