マスコミからパソコミへ
2022.02.23
 
[宝瓶宮時代へ歴史の息吹] マスコミから「パソコミ」へ
― すぐそこにある真実 ―


◆「古くなった第4権力のマスコミまた通称プロ&専門家」



お気づきですか?

すでに、新しい時代がはじまろうとしています。

そういったことには鈍感を自称する私でさえ感じるのですから。

きっと、大多数のかたが相応ながらも察知されていると存じます。



≪マスコミは旧メディア≫

どうやら、見えない世界では、すさまじい勢いで時代が動いているようです。

日常の現実社会や国際社会のみをみていると、いつもと変わらぬマスコミの報道なので気づくことはありません。

逆にマスコミを信じすぎたり、どっぷりと浸(つ)かっていると気づけなくなるでしょう。

なぜなら、マスコミは近現代の物理科学を基盤にしているからです。

時代を超越した見えない世界を話題にすることはまずないためです。

それ以前にマスコミ人は“進歩的”といえば聞こえはいいのですが、過去の遺物となりつつある左翼(マルキシズム)的な反権力など左巻きのお考えをもたれたかたが多いようです。

戦後から昨今まで、それがふつうで進歩的とされてきました。

しかし、東側(共産主義)陣営に強大な影響をもたらしてきた盟主国「ソ連」が、30年ほど前に崩壊してから変わったのです。

もはや前衛などではなく、前近代的な主義思想だったことが明らかになりました。

それゆえ、どこかで挫折感を感じながらも、いまだに変わらぬスタンスをとり続けている人がいるようです。

どのような主義信条をもとうとそれは個人の自由です。

ただし、テレビ新聞雑誌などは、結局のところ商業主義のなかにいます。

経済資本です。

なので左翼思想とは相容れないはずの“資本主義”に左右されて働くなり、報道する矛盾をはらんでいるようです。



≪ネットは市民社会≫

そういった状況などから、あえて断定的に書きます。

もはや「マスコミ」は古いのです。

経営や編集のトップ層には、双魚宮時代の「支配/被支配」また「反権力」といった記憶をもつかたが一部にいるでしょう。

そのため、一記者の良識的な原稿がデスクに上がったとしても、握りつぶされることが起こります。

活字になることはないのです。


もう一つ、別の視点から述べておきます。

現代のインフラとなった「ネット社会」からみても同様です。

ネットでは、一人ひとりが生活に密着した記者であり、また編集者であり、レベルを年々あげてきている状況にあります。

この状況は、マスコミならぬ「パソコミ」を意味します。

マスコミュニケーションという情報のトップダウンの業態そのものが、一時代の役割を終えつつあるのかもしれません。

かつて、庶民や一般大衆が情報を手にすることができなかった時代がありました。

そのようなときに画一的に上からもたらされてきたのがマスコミです。

昨今では俗称「インターネット」と呼ばれるWWW(ワールド・ワイド・ウエブ)が個人にまで普及していますので、必要度は低下している現状にあります。



≪退歩的文化人?≫

実際、既存マスコミの広告収入よりも、ネットにかける企業の広告費のほうが大きくなっています。

また、昨年2021年は、インターネットの利用時間がテレビの視聴時間を初めて上回ったという「情報通信白書」(総務省)がでました。

情報の真贋を見抜く一般国民のセンスは、ネットによって格段にレベルアップしているのです。

さらにいえば、ネットでは、いろんな立場の個人からの情報やチェックがほぼ瞬時入り、変更しやすいこともあって、マスコミもふくめていいのですが、ウソが通用しにくくなっています。

恣意的に操作された記事や底の浅い情報は、ネットにかぎらずマスコミ記事さえも、たちどころに暴かれてしまうことが起こる昨今です。

そうでなくても時代の進展とともに、以前の“進歩的”なスタンスは、人々の目からは、もはや「退歩的」にうつっています。

そういう時流に気づかない経営者はいないと存じます。

なので、いずれ大変革がありえるでしょう。

たとえば、ネットとの融合や一般大衆との密接な情報交流システムの構築など、マスコミの在り方そのものが変わって、生き残りが模索されるようになります。



≪第4権力自体が矛盾?≫

「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)に向かっていく時代の潮流をみれば、そのことがわかります。

双魚宮時代(そうぎょきゅう じだい)の晩期に、社会体制の逆転をうながす「市民革命」が起きました。

古い専制君主や宗教支配から、市民が個々人の自由と平等を手にするために、相次いで起きた一連の歴史的改革がそうです。

イギリスのピューリタン革命や名誉革命をはじめ、「自由、平等、博愛(友愛)」のスローガンで有名なフランス革命などがよく知られています。

「博愛」(友愛)というのは、本来、宝瓶宮時代に向かう流れでした。

ですが、時期尚早ゆえに、当時の人々も理解できず、捨象され、個人の「自由」と「権利」(平等、対等)のみに走っていった、その後の歴史があります。

その自由や権利が、マスコミをはじめとした左巻きグループの「反権力」の大義名分や名目になったのです。

結果、マスコミ自身が「第四権力」と呼ばれ、本末転倒が起きたのは、歴史のアイロニー(皮肉)でしょう。

いえ、当然の帰結です。

なぜなら、やみくもに権力否定に走れば、自分が権力者になるしかないのが宇宙の道理だからです。

なので、そのような主義の人たちが集まった組織や団体また国家は、内部に権力闘争が絶えません。

だれが言ったのか「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉がマスコミ自身にも当てはまってきたのです。



≪個人が歴史の大河≫

さて、お話がそれたかもしれません。

新しくはじまった宝瓶宮時代は、これまでの双魚宮時代とは異なります。

その最大の特徴は、国民や市民のお一人ひとりが、主人公になっていく社会だということです。

これまでは、いわゆるプロや専門家など、一部の秀でたトップクラスによって社会が動いてきました。

ですが今後は、宝瓶宮時代が進んでいくほど、逆転が起きていくのです。

子供や若いかたをはじめ老若男女を問わず、市井(しせい)のお一人ひとりが、個性や独自の才能に応じて、社会をリードしていく時代になっていきます。

かつてのプロや専門家を凌駕していくことさえ起きる時代に近づいていくのです。

「宝瓶宮時代のビックバン」が人知れず起きた1989年頃以降、その傾向が顕著になってきたと思われませんか。

もはや、見える見えないを問わず、時代は大きく変わりつつあります。

宝瓶宮時代の方向性や特徴、またその位置づけなどから、今日の社会の動きをみれば明々白々です。

友愛精神や共鳴関係論など、宝瓶宮時代からみれば、見えない世界をふくめ時代の底流が、大きなうねりとなりつつあることが理解できます。









コメント一覧
コメント投稿

名前

URL

メッセージ

- CafeNote -