武家政権と日本の天運
2022.04.11
 
武家政権と日本の天運
― 古代と現代をつなぐ武士の“魂” ―



◆「今日ある日本の独立維持は草薙神剣の“霊威”だった?



先の「頼朝と義経の文化のレベル」に、次のように書きました。


「頼朝がひらいた武家政権によって日本は救われていくことになります」


今回は、このご説明です。

今から1,300年ほど前の飛鳥時代(592-710)。

第40代天武天皇(?-686)による統一独立国家「日本」は、天武天皇が当時意図したように1,000年のちも天皇の御世による独立日本を維持し、現在も続いています。

日本の国体が1,000年以上も続いていて今も変わらないことは、歴史研究家の間で「人類歴史の奇跡」と呼ばれています。

では、源頼朝(みなもとの よりとも:1147-1199)がひらいた武家政権の誕生によって、日本はどのように独立を維持し救われていったのでしょうか。

ご存じのかたも多いと思いますが、概観してみましょう。



≪統一独立国家のはじまり≫

『日本書紀』史観では、神代(かみよ)のむかしから日本は“独立国家”とされています。

ですが、史実は異なります。

天武天皇(てんむ てんのう)の勅命による7世紀の編纂が『日本書紀』だからです。

天武の皇子、舎人親王(とねりしんのう:676-735)を編纂の総裁として、実質は藤原不比等(ふじわらの ふひと:659-720)の関与のもと、第44代元正天皇(680-748)の御世に上奏(720年)されました。

その『日本書紀』において、日本が神代の当初からの独立国家かのように記されているのです。

なぜそうなのかというと、先帝天智天皇(626-672)による「白村江の戦い」の大敗北や、その皇子大友皇子(648-672)との古代最大の内戦「壬申の乱」に勝利されて、ご即位されたのが天武天皇だからです。

天皇は、日本の危機を感じ、皇統の維持や正統性を記すことはもちろん、「日本の独立と統一国家」の建設を強く意図されて『日本書紀』の編纂を命じられたからです。

なので、以降、大和朝廷のもと日本は、統一独立国家として律令(法律)の整備がなされています。


それ以前の歴史を振り返りますと、6世紀まで九州倭国は大陸の冊封下にあり、日本も半島と関係がありました。

その冊封下から最初に離れたのは、九州倭国王と思われる「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王で、事実上の「独立宣言」を607年に隋王にしてからです。

有名な「日出処の天子、書を、日没する処の天子にいたす、つつがなきや…」という国書がそれです。

そののち天武天皇の御世に、統一独立国家「日本」が誕生していきます。

その象徴が『日本書紀』に記される、黄泉の国から帰ってきた伊弉諾尊(いざなぎの みこと)のみそぎでした。

伊弉諾尊は、天下を治めるべき子として、大日孁貴(おおひるめの むち:一書では天照大御神)、月神(一書では月弓尊また月読尊:つきよみの みこと)、素戔鳴尊(すさのうの みこと)の三貴子(みはしらの うずのみこ)を誕生させます。

このようなエピソードによって、当初からの独立国家として記され意識さているのです。



≪元寇=元高麗連合の来襲≫

さて、平安時代(794-1185)は、天皇をないがしろにした藤原氏の専横が続きました。

争いを避ける公家衆が事実上、政権運営をしていた時代です。

元武家だった平安末期の平家も類似です。

当時、令外官(りようげの かん)とされた武家であるよりも、公家を志向したのが平家だからです。

もし、そのような平安時代のまま「元寇」(げんこう)を迎えていたらと思うとゾッとします。

血や武力を忌み嫌うのが当時の公家衆ゆえに、戦わずして降伏したでしょう。

もしくは戦っても負けて、日本は「元」(今のモンゴル)に併呑され、その属国「高麗」(半島)の支配下に組み込まれていたでしょう。

そうなっていた場合、今の日本国はありません。

当然、私たち日本人は地上から姿を消して、私たちが生まれることはなかったのです。

「元寇」と呼ばれてはいるものの、実質は日本国に攻め込むように「元」に進言したのは「元」の支配下にあった「高麗」(半島)だとされますし、その先頭に立った戦闘要員も半島人だったからです。


しかし、日本は「天運」によって奇跡的に守られます。

「元寇」が起きたとき、すでに日本全体が武家政権になっていました。

鎌倉幕府第8代執権北条時宗(1251-1284)のもと、九州各地の御家人によって、文永の役(1274)と弘安の役(1281)の2回とも防御に成功します。

日本の独立は保たれたのです。

源頼朝による鎌倉幕府の開幕(1185)から、わずか89年後のことでした。



≪武家政権による禁教令≫

次の戦国時代(15世紀末-16世紀末)も同様です。

安土桃山時代(1573-1603)や江戸時代初期をふくめ、西欧の世界支配から逃れています。

キリスト教(旧教)の布教を先鞭とするなどして、世界を植民地支配していたポルトガル、スペインなどの武力侵攻から守れたのも、武家政権の世になっていたゆえです。

堺をはじめとした鉄砲や刀鍛冶など武器生産技術の高さと、戦さに慣れた戦国武士によってでした。

当時の日本の軍事力=武士の戦闘力は、世界最高レベルだったようです。

世界を制覇していたポルトガル、スペインも、地の果て極東に文化精神レベルも高く、軍事大国のジャポンがあったことに驚き、軍事侵攻による侵略をあきらめざるをえなかったほどです。

そこで、キリスト教による大名や庶民への布教による占領を試みます。

しかし、それも戦略を見抜いた武家政権によって失敗します。

天下人秀吉が筑前(現在の福岡市:博多)で発した宣教師や司祭を対象にした「バテレン追放令」(1587)や、さらには江戸幕府による「キリスト教禁止令」(禁教令:1612)などによって失敗に終わります。

もちろん、追放令や禁教令を発したところで、海外からの軍事侵略に対しては、強大な戦闘力(軍事力)を要した武家政権がなければ意味をなさなかったのです。



≪「草薙神剣」の“霊威”≫

すでにご存じのことばかりで申し訳ありません。

もう一つ、大英帝国ことイギリス、フランス、アメリカなど西洋諸国の植民地支配が全盛期を迎えていた幕末も同様でした。

すでにへたりはじめていた江戸幕府ですが、九州や本州西端など「薩長土肥」に代表される西南雄藩が残っていました。

日本全土が武家による諸藩であることを知った西洋諸国は、やはり武力侵攻はあきらめ、日本に内戦を起こさせることで疲弊と乗っ取りを画策します。

ですが、それを見抜いた徳川幕府最後の将軍徳川慶喜(1837-1913)は、内乱になるのを避けて、挙国一致が可能な大政奉還を行ないます。

これによって、明治新政府の誕生とともに、約700年続いた武家政権は終わりました。

もし、源頼朝による鎌倉幕府(武家政権)ができていなければ、天武天皇が意図した統一独立国家「日本」の存立が保たれていなかったことがお分かりでしょうか。

この武家政権を誕生させたのが、「草薙神剣」(くさなぎのみつるぎ)を奉斎する熱田神宮の大宮司家の娘を母にもつ、ご存じ源頼朝です。

もしかしたら、本州(山口)と九州(福岡)の間にある関門海峡の「壇ノ浦」の周辺にある地域が国防に活躍したことをみると、「壇ノ浦の戦い」で海に沈んだ「草薙神剣」の“霊威”が日本を守ったのかもしれません。









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