桶狭間の戦いを読む
2022.12.10
[新ホラリー占星学] ― 信長の勝利は僥倖か戦略か ―


今川軍の敗因は大軍ゆえの短慮と油断にあった



本当のところはどうだったのでしょうか?

ほぼ天下(畿内)を掌中にした戦国覇者「織田信長」(1534-1582)。

その名を全国に轟かせる華麗なデビューとなったのが「桶狭間の戦い」(1560)だったのはご存じのとおりでしょう。

室町幕府(足利幕府)に連なる足利一門「今川義元」(1519-1560)の2万5千の大軍を、格下でうつけ(愚か者)とされた信長がわずか2千の手勢で破ったのです。

映画やテレビでは、いろいろとドラマチックに描かれますが、歴史的な事実としてはどうなのかリーディングしてみました。




≪ドラマのイメージと実際≫

映画にせよテレビにせよ、ドラマは面白く創作されたエンターテインメントです。

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もそうですが、代表的には『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)や『竜馬がゆく』でお馴染みの坂本龍馬(1836-1867)のように、後者は海王星の発見(1846)直後ということもあって、創られた虚像です。

土佐の郷士(下級武士)で脱藩者の竜馬が、250年以上続いた徳川幕府を終わらせ、近代日本の幕開けとなった明治維新(1868)の立役者になるという胸のすくような活躍にファンも多いのです。

ですが、ドラマの竜馬と実際の龍馬は異なります。

薩長同盟の立役者というのも、船中八策による大政奉還(1867)というのも、龍馬ゆえではないことが史実として明らかにされており、事実、今後の歴史の教科書では、簡単な紹介に留まるようです。


【One Point】 信長の場合、史料価値が高いとされる側近の記録『信長公記』が残っています。

客観性が認められているのですが、どのように動いたということは事実でも、それがどのような思考や背景にもとづくものだったのかまで明らかにされることはありません。



【「桶狭間の戦い」までの経緯】

足利時代に越前/遠江/尾張の守護大名だった斯波氏は、戦国時代になると越前(福井県)を朝倉氏に奪われ、遠江(静岡県)を今川氏に奪われます。

やがて、尾張(愛知県)も織田氏の台頭によってお飾りになると、義元は織田信秀(1511-1552)から「うつけ」(愚か者)と評判の信長が領主になることで、尾張を攻め取ろうと知多半島のふもとの大高城を目指します。

大高城を囲む織田方の丸根砦と鷲津砦を配下の松平元康(若き徳川家康:1541-1616)らに落とさせたのを機に、待機していた沓掛城を出て大高城に進む途中の桶狭間で打ち取られます。

結果、今川は松平元康の独立によって三河までも失うことになります。




≪単なる僥倖か緻密な戦略か≫

かつて「桶狭間の戦い」の勝因は、奇襲だと考えられていました。



“桶狭間という谷間にいた今川軍に迂回して奇襲をかけ、駆け下りて攻撃したゆえに少人数でも勝てたのだ”という解釈です。

源義経の「ひよどり越え」のようにとらえられていたようですが、まったく違いました。

谷間ではなく桶狭間山という60メートルほどの丘陵で、奇襲ではなく突然の“強風”と“石水まじり”の豪雨を奇貨として進軍し、視界不良で気づかれなかったようです。

問題は、信長がどこまで作戦を立てて計画していたのかです。

また、「海道一の弓取り」と言われた義元が、なぜ戦場でやすやすと打ち取られてしまったのでしょうか。

ドラマでは、納得がいき面白くなるようにストーリーがつくられますが、信長が破れかぶれで挑んだすえの僥倖(ぎょうこう)による勝利ではなかったのか?

それとも、冷静かつ慎重に状況を読んだうえでの作戦だったのでしょうか。


【One Point】 答えは「ホロスコープ」に象わされていました。

新ホラリー占星学は「基本三数」にもとづいて解釈することから、いつも驚かされます。

総合的なリーディングが可能なので、多方面から立体的に状況をとらえることができます。




≪桶狭間の戦いのホロスコープ≫



ときは、永禄3年5月19日(1560年6月12日:ユリウス暦)の未明からお昼過ぎ。

夜明け時、名古屋の北西の清州城で「丸根砦と鷲津砦が囲まれた」との一報に接した信長は、わずか5名で城門を出て、南東の熱田まで十数キロを一気に駆け抜けます。

熱田からさらに6キロほど南東の善照寺砦に進み、兵の参集と前線からの諜報を待ち、お昼頃に今川軍から丸見えの中島砦に家臣の反対を押し切って移ります。

「兵の少ないことが今川軍にバレる」ということから反対されたのですが、これこそが“油断を誘う”ための作戦だったのかしれません。

その後、豪雨に乗じて桶狭間山(丘陵)で休憩中の今川義元を襲いました。

1時間ほどの戦いののち全国に信長の名を轟かす「大金星」を挙げます。

上掲のホロスコープは、豪雨を好機とした午後1時15分の星の配置です。


【One Point】 当時は、格式や家柄が身分や羽振りを決める時代です。

室町幕府(足利幕府)の権威失墜後とはいえ、足利一門の流れを組む今川家です。

片や織田家は今川氏が排した斯波氏の家来にすぎない家柄でした。



≪火星と木星が仇となった今川軍≫

上掲のホラリー・ホロスコープでは、今川軍は牡羊宮の共鳴星「火星」とDES=下降点に合=0度の下降星「木星」によって象わされています(赤色で表示)。

“戦闘的”ではあるのですが、猪武者のように“短慮”で、前向きではあっても“楽観的”な油断の気持ちが今川軍にあったことがリーディングできます。

海道一の弓取りとされ、格式もある名将今川義元が総大将で2万5千もの大軍です。

片やうつけと名高い信長軍はわずか2千に過ぎません。

当時の尾張は、戦国の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が登場前の近隣の地方で、信長といえばうつけという芳しくない評判があった時代です。

楽勝を信じ、物見遊山で参軍していた今川軍の足軽もいたことでしょう。

義元が尾張攻めの本陣とする予定の大高城を囲む織田軍の丸根砦と鷲津砦を、先陣の松平元康らが落とし、一報に接した義元本隊が沓掛城から兵を進めて桶狭間山でお昼休憩をしていた矢先の暴風雨と信長軍の襲来でした。


【One Point】 木星を大吉星と解釈するのは間違いです。

吉凶解釈自体が誤りなので、普遍化して判断すると占断ミスを招くことが起こります。

特にホラリー・ホロスコープにおいては、木星が事件や事故を招いたり、被害を大きくしたりすることがあるため要注意です。



≪双子宮の第8ハウス(室)の織田軍≫

一方、織田軍は、天秤宮の共鳴星「金星」と、ASC(Ascendant:アセンダント=上昇点)に上三分(アッパー・トライン=120度)の「土星」によって象わされています(青色で表示)。

また、信長の意識の深層もまた「土星」によって象徴されていて、慎重で用心深く、現実をみていたことが分かります。

楽勝気分の今川軍とは正反対です。

重要なのは、これらの星が双子宮で第8ハウス(室)に位置していることです。

この意味は、単なる僥倖で勝ったのではないことを象わします。

頭を巡らせ、周到に計算し、策を練ったうえで、巷間言われているように情報を重視するとともに、総大将今川義元の首級をあげることのみに集中して作戦を決行したことがリーディングできます。

ほかにもあるのですが、もし、今川軍が木星によるイージー気分ではなく、蟹宮の火星に三分(トライン=120度)の天王星や冥王星でなければ“大逆転”や“青天の霹靂”といった信長の大金星は起こらず、また違った結果になっていたでしょう。


【One Point】 信長は蟹宮の生まれ(太陽)です。

蟹宮は上掲のホロスコープでは「現場」を象徴し、トランシットの「火星」もまた信長の出生時の「太陽」に合=0度の時間帯でした。

そこに天王星と冥王星が大三角=120度×3をとっていることから大逆転が象わされています。


【補足】
うつけと蔑まれていた子供の頃、信長は、参軍した一部の将兵らとともに近隣の野山を遊びまわっていました。

そのことから地の利に長け、視界を遮るほどの豪雨にもかかわらず最短で義元本陣を目指せたと思われます。









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