邪馬壹国ではなかった!
2023.04.20
[邪馬台国] ― 4.29「昭和の日」特別記念 ―


卑弥呼が都とした記事の真贋を見抜く1stステップ



俗称「魏志倭人伝」では女王「卑弥呼」が都とした“邪馬壹國”(やまいちこく:原文ママ)が記されています。

にもかかわらず、一般的には邪馬台国(やまたいこく:邪馬臺国)と呼ばれています。

“邪馬壹國”(邪馬壱国)という表記は「魏志倭人伝」どおりなので一見、正しいかのように思われがちです。

ですが事実は逆で、そのように表記した記事や動画は信ぴょう性に欠けるものにならざるをえません。

本日、牡羊宮29度、牡牛宮直前の日蝕&新月で、9日後の4月29日「昭和の日」の特別記念として上記の真相に触れておきます。



≪“邪馬壹国”ではなく邪馬台国≫

「昭和の日」は、かつては「天皇誕生日」と呼ばれ昭和天皇の誕生日でした。

3世紀末に成立した通称「魏志倭人伝」(『三国志』)の著者、晋の著作郎「陳寿」は、倭の女王「卑弥呼」が都としたところを“邪馬壱国”(やまいちこく、原文:邪馬壹國)と記しています。

で、歴史家や古代史研究者は、もとよりそんなことはご存じです。

にもかかわらず、なぜ「邪馬台国」(やまたいこく)と呼んできているのでしょうか?

歴史書の記述は、“文献批判”などといった言葉を用いるまでもなく、他の記録などと照合してどこまで正しいのか真偽を確認する作業が必要なのは基礎中の基礎だからです。

その結果「邪馬台国」が正しいと結論づけられ、事実、『梁書』(629年成立)倭の条や『北史』(659年成立)の倭国伝などでは邪馬台国と正しく記されています。


【One Point】 ということから、“邪馬壹国”(邪馬壱国)と表記する記事や動画は基礎的な確認作業が不十分なので、根拠の乏しい個人的な憶測や思い込みによって表わされています。

では、なぜ「邪馬台国」なのか根拠を述べておきます。




≪馬臺を以って都を建てる≫

かつて『邪馬台国はなかった』(1971、朝日新聞社)という書籍が出版されました。

高名な歴史研究家の著作で、ご本人は後日「あれは出版社(編集者)が勝手につけたものだ」と述べておられました。

その意味は、売らんかなのために、あえてセンセーショナルに奇をてらった題名にされたもので暗に間違い(極論)だと認めているのです。

事実、調べれば分かるのですが、陳寿が「魏志倭人伝」を記述するために参考にした記録や史書には「馬臺を以って都を建てる」と記されています。

古来は“馬臺”であった都を陳寿が“邪馬壹国”と記したのは、東夷(東の未開人の意)の倭人に“中央官庁”や“朝廷”を意味する「臺」(うてな:台)の字を用いて表記するのを厭ったからでしょう。

東夷の国ゆえ貶める意味で頭に「邪」の文字を付けて、「邪馬臺」とするにとどまらず、さらに臺(台)の字を似ている壹(壱)の字に変えて“邪馬壹國”(邪馬壱国)としたものです。


【One Point】 “邪馬壹国”が正しいと信じ込んでいる人々に多いのですが、卑弥呼に続く二代目女王も、台与(臺與:とよ)ではなく“壱与”(壹與:いよ)すなわち伊予(愛媛県)の関連だと妄想し「邪馬壹国四国説」を信じ込んでいるようです。



【ご参考:壹與(いよ)ではなく臺與(とよ)】

古来の史料には正しく「臺與」(とよ)と記されています。

陳寿は、本文に書いたような理由から「臺」の字を用いるのを厭い、邪馬臺国と同様に臺與を“壹與”に変えて「魏志倭人伝」に記しています。

「邪馬壹国四国説」を信じ込んでいる人は検証が浅く、日本古来の“四国阿波王国”と2~3世紀の卑弥呼や台与の邪馬台国を混同し、錯乱しているようです。

なぜなら、阿波徳島の古代国づくりのほうが古く由緒があり、日本独自の誇れるものになっているからです。

第一、時代が異なります。

大陸の冊封下にあった九州倭国(首都:伊都国、女王の都:邪馬台国)と、のちの大和に通じる四国に由来する古代阿波徳島を中心とした国づくりは別物です。


■忌部神社(御所神社:徳島県美馬郡つるぎ町)



≪7世紀に誕生した統一大和≫

古代日本の原点となる国づくりは、卑弥呼や台与の3世紀の邪馬台国よりも、“四国阿波王国”と呼べる阿波徳島の歴史のほうが古く由緒があります。

経緯は複雑なのですが、7世紀の統一大和の拠点となった畿内国の由縁は、忌部氏でも知られる阿波や四国にあって、卑弥呼を女王として共立した九州北部の倭国とは別の系統です。

当時、大陸の冊封下にあった奴国(博多周辺)や倭国(女王の都:邪馬台国)が、もし四国であれば、国譲りして建国された畿内大和国(日本)は、そのまま大陸の属国という口実を中国に与えることになりかねません。

そうではなく、九州倭国と畿内大和国(日本)は、6世紀まで別々で、大陸の正史『旧唐書』(くとうじょ:945年成立)には倭国伝と日本伝が別々に記されていることからもそれが分かります。

統一後の7世紀の『日本書紀』(720年奏上)の記述をうのみにして、日本は古代から単独の“統一独立国家”だったとする「日本書紀史観」を信じ込んでおられる方は、当記事の内容を“騙り”だとお感じになられるでしょう。


【One Point】 『日本書紀』は初めて「天皇」号を用いた7世紀の大和朝廷を、日本国統治の正統とする意図で編纂されたものです。

辻褄の合わない記述を客観的に種々照らし合わせていくと史実が見えてきます。


【ご参考】

九州から寺院や塔が大和に移転されたのも、九州倭国を大和畿内国に“吸収合併”という名目で、大和移転による乗っ取り併合に等しく、端緒は九州倭国王「阿毎多利思北孤」(あめのたりしひこ)の画策です。



【ご参考:】「阿毎多利思北孤」の正体

『隋書』には次のように記されています。

【原文】俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌

【読み下し】倭王(俀)の姓は阿毎(あめ)、字は多利思北孤(たりしひこ:多利思比孤)、号は阿輩鷄彌(あほけみ、大王:おおきみ)という。

『隋書』開皇20年(600年)の遣隋使の記録です。

『日本書紀』では女帝推古天皇の時代に当たるため、男王と記される「阿毎多利思北孤」は“聖徳太子”のことだとするのが一般的な解釈ですが、太子は大王ではなく摂政なので、こじつけともいえる間違いです。

当時の倭国は、北部九州(と半島南端)で、畿内大和国は『旧唐書』では「日本」と記される別の国でした。

次の607年と608年は小野妹子で有名な遣隋使で「日出処の天子、書を日没処の天子に致す恙なきや…」という一文が有名で、これは九州倭国と統一大和の合併報告であり、大陸国の冊封下から離れた“独立宣言”でもあります。


『旧唐書』「日本伝」の冒頭には次のように記されています。

【原文】日本國者倭國之別種也以其國在日邊(以下略)

【読み下し】日本国は倭国の別種なり。その国は日辺にあるをもって(以下略)

意味は、九州倭国の東に日本国があり、同じ倭人の国だと記されています。

当初からの「統一独立国家大和」だったというのは『日本書紀』のプロパガンダで、史実は7世紀初頭に九州倭国と畿内大和国(日本)が合併して統一独立国家大和が誕生しています。




≪偽りの“大化の改新”≫

『日本書紀』の記述は、史実をベースにしつつも、意図的なプロパガンダ(政治宣伝)を兼ねた歴史書です。

当時は国内外ともに危機的な状況にあって、早急に諸国の豪族やその祖神を天皇と大和政権のもとにまとめ、受け入れつつ統合することで唐や新羅の侵攻に備える必要がありました。

そのため、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇(てんむ)の皇子:舎人親王(とねり しんのう)を日本書紀編纂の総裁に担いで、中臣鎌足の子:藤原不比等の天才的な知恵を交えて、統一独立国家「大和」の基盤形成と、第41代持統天皇から孫の文武天皇への「万世一系」の定着を主軸に歴史編纂がなされています。

美しい「日本書紀史観」を信じ込むことは悪いことではありませんが、史実は別というご認識は必要だというお話です。

史実は、九州倭国王「阿毎多利思北孤」こと蘇我氏が、当時は小国で“弟分”にあたる畿内大和国日本に九州倭国を吸収合併させるかたちで大陸の冊封下から離れ、仏教文化とともに統一大和の実質上の大王(天皇)として7世紀前半の政務を司っています。


【One Point】 畿内大和国から見れば、外様の“蘇我政権”を面白く思わなかったのは当然です。

“中大兄”(天智天皇)と“中臣鎌足”(藤原鎌足)は、大極殿で3代目蘇我大王入鹿を殺害し、政権奪取となる「乙巳の変」(645年)を起こしています。



■石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)


≪創られた“聖徳太子”信仰≫

蘇我氏三代が実質的な大王(天皇)で統一独立国家に数々の功績を残したことは、『日本書紀』には絶対に書くことができません。

藤原不比等にとって父鎌足の名誉を損ないかねないお話でもあることから、横暴があったのは事実でしょうが蘇我氏を徹底的に悪者に仕立て上げて乙巳の変の弑逆クーデターを正統化するしかありません。

その後の歴史は、およそご存じのとおりです。

重要なことは、カゲから『日本書紀』の編纂に携わった不比等は、蘇我氏による「仏教導入」を含めた「冠位12階」の制定など近代化の功績を、父鎌足が中大兄とともに弑逆した蘇我大王家の業績と記すわけにはいかず、架空の人物「聖徳太子」こと“厩戸豊聡耳皇子命”(うまやと の とよとみみ の みこ の みこと)の功績として『日本書紀』に記したことです。

事実、聖徳太子の本名とされる“厩戸皇子”の名は、古代の文献には見られず、なんと巷間、聖徳太子が定めたとされる「冠位12階」は、603年の『日本書紀』に記された制定よりも早く、九州倭国王阿毎多利思北孤が最初に隋に使いを送った600年の項にすでに記録が残されています。

ちなみに「万世一系」は、第40代天武天皇の発案(意志)で、その妃第41代持統天皇が定着実現(実体)に命をかけ、両天皇の皇子舎人親王と直臣藤原不比等による理論化(関係性)となる歴史書『日本書紀』によって今日まで存続しています。


【One Point】 なぜ万世一系が奇跡的に続いているのかというと、宇宙この世界の根幹法則「基本三数」にのっとっているからです。

相応の紆余曲折はあっても「天運」を伴ないつつ継続しているのはそれゆえです。



【ご参考:『隋書』に記された冠位12階】

第1回遣唐使は開皇20年(600年)に九州倭国王「阿毎多利思北孤」が派遣したものです。

そこには『日本書紀』の制定よりも早く、冠位12階が次のように記されています。

【原文】 内官有十二等 一曰大徳 次小徳 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定数

【読み下し】 内官に12等あり、(中略)、員に定数無し。

「徳仁義礼智信」の順番で、一方『日本書紀』は「徳仁礼信義智」の順です。

ですが、儒教の徳目を用いた冠位12階なのは同じで、九州倭国での内官制度を合併後の統一大和でもそのまま用いていたのです。









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