消された倭の五王の正体
2023.05.03
[半島の倭国] ― 乙巳の変が意味するもの ―


日本書紀史観に陥ると見えなくなるよ「倭の五王」



「空白の4世紀」だそうです。

その前の3世紀は、通称「魏志倭人伝」(『三国志』魏書)に記される倭の女王「卑弥呼」の時代でした。

一方、5世紀は、大陸の宋(420-479 劉宋:南朝)の歴史を記した『宋書』(513年頃成立)に官位を求めて朝貢(ちょうこう)した「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)が記されています。

この「倭の五王」がどの歴代天皇に当たるのか、仁徳天皇だの雄略天皇だのと推論がなされているのはご存じのとおりでしょう。

ですが「日本書紀史観」から真相が見えてくることはありません。



≪統一独立国家と万世一系≫

以下の記述は『日本書紀』と大陸の正史『隋書』や新旧『唐書』をふまえて“史実”を明らかにしたものです。

『日本書紀』の記録が“事実”だと信じる「日本書紀史観」に基づいて、どの天皇が「倭の五王」なのかという詮索とは異なり、にわかには首肯できないかもしれません。

ですが、客観的な事実は、3世紀の倭の女王「卑弥呼」も、5世紀の「倭の五王」も、6世紀末~7世紀初頭の倭王「阿毎多利思北孤」(あめの たりしひこ)も、『日本書紀』に記されることは決してないために正体が明かされることはないのです。

なぜなら、『日本書紀』は統一独立国家「大和」と「万世一系」を主軸に編纂されているためです。

この編纂方針に反する史実はすべて闇に葬ったのが、『日本書紀』の日本書紀たる所以です。


【One Point】 畿内大和国「日本」以外に国家の存在が記されることは決してありません。

それゆえ「天皇」以外の倭王の存在も、また正体も記されることは絶対にありません。





【ご参考:『後漢書』抜粋:倭国王「帥升」】

【原文】
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國極南海也 光武賜以印綬 安帝永初元年 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

【読み下し】
建武中元2年(577年)、倭の奴国、貢ぎを奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称する。(奴国は)倭の極南海なり。光武帝は賜うに印綬を以ってす。
安帝の永初元年(107年)、倭国王の帥升等、生口180人を献じ、願いて見えんことを講う。



≪葬られた倭の歴代王≫

『日本書紀』を仔細に読めばわかりますよ。

「アレ? 何かヘンだな?」という箇所が案外と散見できるのです。

一方、大陸や半島の記録が正しいとはかぎりませんが、『日本書紀』と照らし合わせて辻褄合わせをしていくと、案外と史実が見えてきます。

1世紀の奴国王「帥升」(すいしょう)、3世紀の倭の女王「卑弥呼」(ひみこ)、5世紀の倭の五王「讃、珍、済、興、武」、6世紀末~7世紀初頭の倭王「阿毎多利思北孤」(あめ の たりしひこ)。

大陸の正史に倭王らが「朝貢」した記録はあっても、統一独立国家「大和」(日本)の正統性を記した『日本書紀』に、当然ですが九州倭国の倭王らが朝貢した記録が残されることは、いっさいありません。

なぜでしょうか?

7世紀以降の統一大和「日本」こそが、日本列島古来からの唯一の国家とする日本書紀史観によって、古(いにしえ)の九州倭国や丹後王国また国譲りにかかわる四国阿波王国由来の史実は、完全に消されているからです。


【One Point】 だって困りますもん。

『日本書紀』に「天皇」以外の大王の正当性を記せば「壬申の乱」(672)のような内乱が起きかねません。

また中大兄による「白村江の戦い」(663)に勝利した「唐」や「新羅」が内乱に乗じて攻めてくれば、日本が滅びかねないためです。



【ご参考:『魏書』抜粋:倭の女王「卑弥呼」】

【原文】
其國本亦以男子為王 往七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆

【読み下し】
その国、もとまた男子を以って王となす。とどまること7、80年、倭国乱れて、相攻伐すること年を経たり。
すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。




≪倭王「阿毎多利思北孤」≫

もう少し書いておきます。

『日本書紀』で倭王の存在が決して語られることがないのは、ご理解いただけたと存じます。

日本書紀史観に陥ると史実が見えなくなるのですが、一方、大陸の歴史には「倭王」の存在が残されています。

たとえば、「漢委奴国王」の金印で知られ『後漢書』に記される1世紀の奴国王「帥升であり、3世紀に「親魏倭王」の金印を仮綬されたと「魏志倭人伝」(『魏書』)に記される「卑弥呼であり、『宋書』に記される5世紀の倭の五王「讃、珍、済、興、武」であり、『隋書』に記される6世紀末~7世紀初頭の倭王「阿毎多利思北孤」です。

彼らは大陸国の皇帝に「朝貢」してきた九州倭国の王たちです。

ただし、最後の「阿毎多利思北孤」のみ様相が異なります。

『隋書』によると1回めの朝貢では「夜が明けると政務を弟に譲る」と仁義をきり、畿内大和国「日本」との合併後と思われる2回めの記録では「日出ずる処の天子」と自らを名乗り、ときの隋王煬帝(ようだい)に“対等だよ”と宣言しているのです。

当然、煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者あり。二度と奏上するな!」と激怒しています。

真相は『隋書』にも『日本書紀』にも残されることはありませんが、九州倭国は大陸の冊封下から離れて、畿内国「日本」に吸収合併される体(てい)で、統一国家大和として独立したからです。


【One Point】 倭王「阿毎多利思北孤」の作戦勝ちです。

隋の国力が衰えていたことを見抜いて、自らの九州倭国を小国の弟国「日本」に吸収合併させるかたちで、隋の冊封下から離れ、独立を果たした見事な外交戦略です。





【ご参考:『随書』抜粋:「阿毎多利思北孤」】

【原文】
開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 (中略) 使者言 倭王以天為兄 以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟

【読み下し】
開皇20年、倭王の姓は阿毎(あめ)、あざなは多利思北孤、号して大王というもの、使いを遣わして王宮の門にいたらしむ。(中略)
使者は言う、「倭王は天を以って兄となし、日を以って弟となす、天がいまだ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す、日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねんという」と。




≪クーデター「乙巳の変」≫

結局、統一独立国家「大和」(日本)は、7世紀初頭に九州倭国自らによる捨て身の合併によって誕生しています。

それまでの「九州倭国」の歴史を記したのが本来の“古事記”(ふることのふみ)です。

その証拠に『古事記』は、合併時の第33代「推古女帝」で終わっています。

もちろん、現在残っている『古事記』は、『日本書紀』に準じて後日、書き直された改訂版です。

それゆえ、『日本書紀』よりも新しい記述があるなど、“偽書説”が唱えられるのはそのためです。

では、九州倭国の歴史記録はどこに消えたのでしょうか。

『日本書紀』によれば、中大兄と中臣鎌足が起こした政権奪取のクーデター「乙巳の変」(645年:いっしのへん)の翌日7月11日、蘇我本宗家の滅亡とともに『天皇記』(帝記)と『国記』を残して蘇我氏が所有していたすべての記録は焼かれたと記されています。

ウソですよ。そんなに都合よく『日本書紀』の編纂に必要な『天皇記』と『国記』のみ炎の中から拾い上げられて残ることはありません。


【One Point】 蘇我入鹿(そがの いるか)の父蝦夷(えみし)も弑逆(しいぎゃく)され、九州倭国の歴史記録は“焼失”という隠滅が行なわれたようです。

蘇我本宗家は半島にも領土を広げた九州倭国王の出自で、畿内国「日本」との合併後は事実上の大王だったといえます。




≪古来より朝鮮半島は倭国≫

最後に、朝鮮半島は6世紀まで全土ではありませんが「倭国」でした。

『後漢書』に、奴国は「倭の極南海なり」(原文:倭國之極南界也)という記述があります。

また「魏志倭人伝」(『魏書』)には、倭の「北岸狗邪韓国に到る」(原文:到其北岸狗邪韓國)と記されています。

両書の意味は同じで九州北部と朝鮮半島に「倭国」はまたがっていて、その南端=南岸(極南界)が「奴国」(なこく:福岡市周辺)で、北岸が半島南端の「狗邪韓国」(くやかんこく:倭国の領土)だという記述です。

1世紀の「奴国」の時代も、3世紀の「邪馬台国」(倭)の時代も、また4世紀末~5世紀初頭の出来事を記した「好太王碑」(広開土王碑:現中国の吉林省)にも見られるように半島北部にまで九州倭国の勢力は及んでいました。

「倭の五王」は、半島をほぼ勢力下においたために、“朝鮮半島の王”として支配権を認めるよう「宋帝」に上申したのですが、結局、王権は認められず「安東大将軍」に封じられるに留まっています。


【One Point】 というわけで「倭の五王」が『日本書紀』に記されることはありません。

唯一の例外は、半島から関東まで勢力を広げた倭王「武」こと、大泊瀬幼武天皇(おおはつせ わかたけ の すめらみこと:雄略天皇)のみは『日本書紀』も「天皇」として記さざるをえなかったようです。



【ご参考:『新唐書』抜粋:筑紫城に居す】

【原文】
其王姓阿毎氏 自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城 彦瀲子神武立 更以天皇爲號 徙治大和州

【読み下し】
其の王の姓は阿毎(あめ)氏。
自ら言う、初めの主は天御中主と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまでおよそ三十二世、皆「尊」(みこと)を以って号となし、筑紫城に居す。
彦瀲の子、神武立ち、あらためて天皇を以って号となし、治を大和州にうつす。

※解説
この記述は、神武東征の出発地が、本来の「日向」こと“筑紫城”があった九州北部の筑紫(福岡県また筑紫平野界隈)だったことを表わしています。
しかし、それだと機内「大和国」の天皇の出自が、九州倭国だったことが知られてしまいます。
720年の『日本書紀』完成後、同8世紀の大和朝廷は、現在の宮崎県を「日向」に地名を変更しています。
そのため8世紀以降は、日向といえば南九州と思われてきました。









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