「縄文芸術」はすごい!
2018.07.10
現在、東京国立博物館で「縄文特別展―1万年の美の鼓動」が開かれています。

そこには、日本各地から、といっても関東甲信越以北の都道府県からが多いのですが、縄文時代の国宝6点が初めて一堂に展示されるなど、縄文時代の土器など200点以上が展示されています。

うち33点ほどは、同時期の古代オリエントなど海外の土器もあって、「美の競演」と題して参考展示されています。

縄文土器で有名なのは、国宝に指定されている縄文中期の「火焔型土器」や、宇宙人に似たかたちで知られる重要文化財の縄文晩期の「遮光器土偶」などがあります。

縄文中期というのは、およそ紀元前20世紀~30世紀にあたりますが、この時代の日本列島で“遊び心”にあふれた数々の土器が出土していることの意味は、縄文人の生活には、当時から余裕があったことのあらわれです。

多分、学者は“祭祀”などに結びつけて解釈するかもしれませんが、そうではなく縄文時代の「食生活の豊かさ」ゆえに花開いた“芸術”です。

なぜなら、占星学からいえば日本の民族性は“芸術”や“精神性”にかかわる「魚宮」で象わされるためです。
また、実際にも、そういった生活に余裕がないと、文化や芸術は花開かないためです。

ここでは、展示品の中から、ごく一部ですが、“縄文芸術”と呼べる生活作品をご紹介いたします。

●国宝 「縄文のビーナス」

長野県で出土。縄文中期「紀元前20~30世紀」のもの。なかなか描けないフォルム。


●国宝 「合掌土偶」

青森県で出土。縄文後期「紀元前15世紀頃」。縄文後期となると、なかなかにデティールがすごい。


●重要文化財「人形装飾付有孔鍔付土器 」

山梨県で出土。縄文中期「紀元前20~30世紀」。ユーモアあふれる人形をなぜつけた?


●重要文化財「猪形土製品」

青森県で出土。縄文後期「紀元前10~20世紀」。愛らしい。愛称は「いのっち」だとか。複数出土。


●重要文化財「縄文ポシェット」

青森の三内丸山遺跡で出土。縄文中期「紀元前20~30世紀」。これは有名。素材はヒノキ科の樹皮。


●重要文化財「土製耳飾」

東京都で出土。縄文晩期「紀元前4~10世紀」。9.8cm 75g のイヤリング。さすが東京オシャ。


●「深鉢形土器」

長野県で出土。縄文中期「紀元前10~20世紀」。こんな複雑な模様とカタチにする必要ある?


※ ちなみに「縄文特別展」の開催期間は、2018年7月3日~9月2日。
※ 休館日もあります。当日入館料は1,600円のはず。






淡路島 洲本市での1枚
2018.06.07
今回は、誤解や勘違いも多いので、説明はありません。

あまりよく知らないまま、何気に撮った1枚に、2つの場所が“偶然”にも一緒に写っていたという画像です。



いずれ「占星学からみた日本古代史」の続編をアップする予定にしていますが、紀元前10世紀にソロモン王の船団がヨーロッパやアフリカだけでなく、東アジアや日本に来ています。

当時、すでにアフリカ大陸を1周するなど、優れた航海術を持っていたフェニキア人は、ソロモン王の委託を受けて、古代イスラエル人やヒッタイトの製鉄技術を受け継いだ古代オリエントの人々を乗せて、「二段櫂船」(にだん かいせん:帆付き)で珍宝や鉱物資源を求め、数年単位での大航海を繰り返していました。

日本に来たのは、大陸の沿岸沿いに、北は壱岐・対馬や五島列島から、南は沖縄や奄美群島沿いに九州の沿岸地域や島に最初の拠点を築きます。

そこから瀬戸内海に入った一団は、瀬戸内の東端、国東半島(くにさき はんとう)に拠点を構えて、支那大陸よりも早い時期に古代の製鉄を行ない、縄文末期の人々に伝播することになります。

その後、ヒッタイト人の母をもつソロモン王の死とともに「北イスラエル」と「南ユダ」に分裂した古代イスラエルは、紀元前8世紀に北イスラエルの10支族がアッシリアに捕囚となり、南ユダも紀元前6世紀にはバビロニアに捕囚となって国を失います。

前者が俗にいう「失われた10支族」です。

ソロモン王の死や南北分裂また捕囚によって帰る場所を失った「船団」は、潤沢な「水」や「鉱物資源」また「山海の食物」に恵まれた古代日本を再び目指して出航し、なかには定住する一団もでてきます。

彼らは、その後、『古事記』や『日本書紀』に記された”日本神話”でいえば、大国主神(おおくにぬしのかみ)の国づくりを手助けした「少彦名命」(すくなひこなのみこと)や、また三輪山に祀られる「大物主神」(おおものぬしのかみ)に比定される活躍をすることになります。

詳しくは、いずれ宝瓶宮占星学サイトにアップしますが、アバウトではそういった流れです。




宝満山と宝満宮竈門神社
2018.04.25
日本には「霊山」とされる山が案外とあります。

「日本三霊山」や「日本三大霊山」などは、その代表とされる山々です。
ですが、「鳥海山」と「富士山」に続いて、わずか5年前の平成25年に3番めに国の史跡に指定された山があります。

鳥海山は、標高2,236メートル。
山形県と秋田県の県境に位置し、山すそがそのまま日本海に望み、逆三角形の富士山に似た山容をほこります。
ちなみに、過去に2~3年間ほど山形県内を回ったとき、酒田市など庄内地方からよく眺めた懐かしい山です。

富士山は、標高3,776メートル。
日本の最高峰として知らない人はなく、ご紹介の必要はありません。

一方、宝満山は、標高829メートル。
福岡県太宰府市と筑紫野市にまたがり、見る角度によっては「かまど」を伏せたような山容をしています。

地元民でないと、知らない人が多いと存じますが、山そのものが山岳信仰の遺跡となっている3例めとして「国の史跡」に指定された霊山です。

太宰府市は、大和政権が大陸につうじる出先機関として「大宰府政庁」を置いた場所で、宝満山のすぐふもとには、学問の神として知られる菅原道真を祀った「太宰府天満宮」があります。

この宝満山は「御笠山」また「竈門山」ともいわれ、北に流れるゆるやかな御笠川を下れば、そのまま「奴国」(なこく)があった福岡平野から博多湾に出ます。

一方、南に流れるゆるやかな宝満川を下れば、筑後平野で筑後川に合流し、そのまま有明海に出ることができる古代の水運が主流だった時代に、“要衝の地”だったのがこの宝満山界隈でした。
そういったこともあって、奈辺に「太宰府政庁」がおかれたわけです。

実は、もっと深いお話もあるのですが、ここでは書けません。

それはともかく、宝満山に「宝満宮 竈門神社」(ほうまんぐう かまど じんじゃ)があります。

今は、山腹にあった「中宮」がなくなり、山頂の「上宮」とふもとの「下宮」の2つですが、新緑の季節に美しく整備された「下宮」の竈門神社に、“ごあいさつ”がてら参拝してきました。

上宮は、またの機会に、いつか登って参拝する予定ですが、下宮では、神社のご祭神や由緒が書かれた案内板を見つけることができませんでした。

ネットでは、主祭神は「玉依姫命」(たまよりひめのみこと)とされ、相殿神は「神功皇后」と「応神天皇」とされていますが、こちらはのちに合祀された神です。

と、書けるのは、ここまでです。

今月4月4日にアップした「二見ヶ浦と桜井大神宮」がある、かつての“伊都国”(いとこく)の地もそうですが、今回の「宝満山と宝満宮竈門神社」の地も同じように、ときが来るまでは、暴いてはいけない“秘密”とされたものがある歴史的な場所になっていることを理解しました。

下の画像は、ご祭神や由来の案内板が見当たらなかった「竈門神社」の下宮(拝殿)です。
正式には、ほかの竈門神社と区別するために、「宝満宮 竈門神社」と称されています。






二見ヶ浦と桜井大神宮
2018.04.04
通称「魏志倭人伝」にもでてくる王都、一大卒がおかれた伊都国。
今の人気スポット、福岡県糸島市。

かつての怡土(伊都)郡と半島の志摩郡が、明治維新後の1896年4月1日に合併して糸島市となりました。

地理的には、博多湾の西岸側に位置し、福岡県の最も西端にある九州北岸部。

歴史的には、卑弥呼の女王国(いわゆる「倭国」)のなかで、邪馬台国は「女王の都」、伊都国は女王国の“首都”にあたり、当時の文化の中心地になります。

『日本書紀』でいえば、一緒に国づくりをしたイザナミと訣別し、黄泉の国から帰ってきたイザナギが祓ぎをしたのが、奈辺です。

そのときに生まれたのが、八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と住吉大神と安曇連らの神。
いずれも博多湾岸の西岸側、中央、東岸側に、それぞれにこれらの神々を祀る神社があります。

一書に“天照大神”といわれる大日霊女貴(おおひるめのむち)、月の神(月読尊)、素戔嗚尊が生まれたのは、このあとなので、これら海にかかわる「八十枉津日神」「住吉大神」「安曇連らの神」は、日本の実質上の原点を象わしていることになります。

八十枉津日神は、一説では「與止姫」(よどひめ)とも「瀬織津姫」(せおりつつひめ)ともいわれ、いわゆる“津波”にかかわる神。

下の画像は、玄界灘に接する糸島半島(旧志摩郡)の先端にある“夫婦岩”こと桜井「二見ヶ浦」。

その下は、そこから約1kmほどの距離で、やや内陸部(海岸から500mほど)にある桜井神社(旧「與止姫宮」)に併設される天照大御神と豊受大御神を祀る「桜井大神宮」。

実際に伊勢神宮の式年遷宮の際の木材で建てられていて、三種の神器のひとつ「八咫鏡」とともに伊都は伊勢と深い関係が歴史的にあるといえます。


 



注目される「縄文時代」3
2017.09.08
これまでの学校教育やマスコミ報道は、敗戦の影響を受けて、日本という国家そのものを認めず、逆に貶める方向で行なわれてきました。

歴史的には、戦前の「皇国史観」を否定する一方で、日本の文化はすべて大陸や半島から渡ってきたとするものです。
要は、大陸や半島のほうが先進的で優れているといった教育や報道で、これは戦後一世を風靡した共産主義者(マルキスト)の歴史観とも方向を同じくする反日教育でした。

そこでは、当然のことながら、“大陸から渡ってきた稲作(水耕栽培)文化による弥生時代の前の日本に文化はなく、縄文時代は未開の原始人のような生活だった”とする先入観を戦後の日本人に植え付けたのです。

しかし、学術的にも縄文遺跡の発掘から、一部の例外を除いて、世界でも特殊な縄文文明の存在が明らかになりつつあります。

ちなみに、大陸文化の影響を受けた“弥生時代”は、紀元前300年ごろにはじまったとされていました。

ところが、九州北部の弥生式土器に炭素同位体による年代測定によると、紀元前8世紀頃の遺物が付着していたとして、“国立民族歴史博物館”は、弥生時代のはじまりを前8世紀~前10世紀にまで繰り上げようとしています。
ですが、“同館”の研究発表には“意図”があって、信憑性に疑問の声があがっているのも事実です。

要は、大陸からの影響とされる弥生時代のはじまりを古くすればするほど、日本独自の縄文文化を隠蔽し、反日歴史学者の狙いどおりにもっていくことができるためです。

まず、稲作について申し上げますと、かつては半島を渡ってきたと教えられていました。
しかし、今では、大陸と半島と日本のイネのDNAなどから半島経由ではないことは、ふつうに研究している人にとっては常識です。

当然です。
半島では、つい最近の朝鮮時代まで、庶民の食卓に白米はあがってきませんでした。
ひるがえって日本では、陸稲の可能性がありますが、約6,000年前の岡山の朝寝鼻貝塚(あさねばかいづか)の地層からイネのプラントオパールが検出されるなど、半島よりもはるかに早く稲が栽培されていました。

また、大陸では、戦国時代の紀元前400年~前200年頃に鉄の鋳造技術がはじまったとされています。
しかし、日本では福岡で紀元前8世紀頃の製鉄跡が発見されたり、紀元前7世紀頃と推定される大分での製鉄跡などがあって、大陸から製鉄が伝わったとするにはつじつまがあいません。

それは木造建築においても同様です。
これまで大陸から渡ってきたとされていた木造の軸組工法が、1,000年以上さかのぼる石川県の真脇遺跡で発見されたことから、縄文時代における日本独自の技術であることが明らかになりました。

ちなみに真脇遺跡というのは、縄文前期から縄文晩期まで数千年以上にわたって定住生活が行なわれ、そこには明らかになった一部だけでも200頭以上のイルカの骨が発見されています。

さらに申し上げますと、世界最古の土器は約1万6,500年前の日本の大平山元I遺跡の縄文土器だったのですが、それを知った中国は、さほど時をおかずウソかマコトか湖南省で約1万8,000年前の土器が発掘されたと発表しました。
ですがこれ、日本チームが確認しようとしたら“盗まれてない”という返事だったとか…。

まあ、どちらでもいいのですが、要は少なくとも約1万6,500年前の縄文時代に、土器を使った文化が日本にあったということです。

そういった日本に、紀元前10世紀のソロモン王(古代イスラエルの第3代の王)の時代に、古代オリエントから珍物や鉱物を探しに、西は地中海方面をはじめ、東はインドや日本にも、ソロモンの依頼を受けたフェニキア人らの船団が来ています。

なぜ、日本なのかというと、火山地帯でもある日本列島には狭い国土に巨大断層地帯である「構造線」がいくつも地表にむき出しになっていて、容易に鉄鉱石や金銀などが採れたからです。

その代表が「糸魚川-静岡構造線」と、伊勢や四国をつらぬく「中央構造線」です。

この2つの構造線が交わる諏訪地方には、多くの縄文遺跡が残ることで有名ですが、旧約聖書に出てくる聖地「モリヤ山」と同名の“守屋山”があったり、モリヤ山で行なわれた信仰の証「イサク献祭」に似た“御頭祭”があったり、またイスラエルの神殿の四隅に使うご神木を想起させる“御柱祭”が行なわれるなど、いつの時代からか定かではないのですが無関係とはいえない状況が色濃く残っています。

フェニキア人の船に乗ったイスラエル人やヘテ人をはじめとした古代オリエントチームは、砂鉄や鉄鉱石のままでは持って帰れませんので、適所で製鉄を行ない、その技術は大陸から伝わる以前に、日本独自の「たたら製鉄」として行なわれていたと考えられます。

人類初の鉄器文明を築いたヒッタイトが滅びたのち、彼らの子孫であるヘテ人(びと)は、古代イスラエルの王にも仕え、その妻だった女性からソロモン王が生まれていることからも、それは明らかです。

さらにいえば、砂漠や荒地での生活を続けていた彼らにとって、キレイで豊富な水をはじめ、山の幸や海の幸が豊かな日本列島は、まさに東方の“約束の地”に思われたかもしれません。

日本での体験は、紀元前8世紀に北イスラエル王国が滅びたとき、東方の海中に理想の地があるといった伝承となって、彼らが日本をめざしたとしてもおかしくはありません。

要は、排他的で戦争を繰り返す大陸由来の民族と、四方の海から海流に乗ってきた人々を受け入れる海人族(あまぞく)との違いが、豊かな縄文文明を育む一つの要因になっています。


注目される「縄文時代」2
2017.09.06
「古代文明」の“世界標準”とされる観点からみたとき、かつての縄文時代(新石器時代)の日本に「縄文文明」が栄えることは論外でした。

なぜなら、狭い日本列島には“大河”がないからです。

文明というのは、たとえばですが「メソポタミア文明」のように、チグリス・ユーフラテス両河がもたらす肥沃な三日月地帯に、小麦など穀物の栽培が可能になって生じると一部では考えられていたからです。

それは定期的に収穫できる穀物の栽培が可能になることによって、人々の定住生活が保証され、食生活の心配がなくなり、平和な時期が続くことから、芸術や学問や文化といった文明が生まれていきます。

もし文明を、大河がもたらす穀物栽培によってのみ生じると理解すれば、日本、中国、韓国人などが信じているように、「世界四大文明」といった誤まった理解になっていきます。

そうではなく、“大河”がなくても文明の発祥が可能な地域がありました。
それが日本列島で、世界最古の文明ともいえる「縄文文明」です。

本当でしょうか。

答えは、日本という世界で唯一の地理環境をみればわかります。
もっと平たくいえば、“四季折々”の季節がなぜ生じるのかということに答えがあります。

日本列島は、4つものプレートが交わるその縁に位置します。
4つのプレートというのは、東に「ユーラシア・プレート」、西に「太平洋プレート」、南に「フィリピン海プレート」、北に「北アメリカ・プレート」のことで、地理的に4つのプレートがせめぎあい、噴火や縁にあるゆえの隆起によって細長い国土のなかに、そのわりには高い山々が背骨のようにそびえる地形ができあがりました。

そういった地形だけではありません。
南東からは、暖かい「黒潮」が流れ込み、北西からは、冷たい「親潮」が流れ込んで、これらが交わる中間に日本列島が位置していることもそのひとつです。

では、このような地理や海流の交差が、なにをもたらすのでしょうか。

大河に匹敵する水量です。

大陸からの冷たい風は、日本の山々にぶつかって上昇気流となり雲を生じさせると、大量の雨やときに大雪をもたらします。
一方、南からの湿った海風も同様で、大量の雨を日本にもたらすのです。

その水は、長い流域をもつこともあって「千年澄まない」といわれる黄河のような濁った水ではなく、山地や地下から湧き出すキレイな水であるのはもちろんのこと、四季折々に移り変わる森の木々からの豊かな栄養を河川にもたらします。

それらは、縄文時代から行なわれてきたカキの養殖はもちろん、プランクトンを生じ、それを求めて大小の魚介類が集うのはもちろん、黒潮と親潮の両方から豊富な種類の魚が日本の近海に訪れます。

その結果、人類が穀物栽培を行なう以前から、山海の食料が、豊かな水とともに日本列島には豊富でした。

それだけではありません。
東西南北から海流に乗って、多様な民族が日本列島に集まってきて、それぞれの習慣や風俗や技術(知恵)を集積できる位置にあったのです。

また、四方を荒海に囲まれながらも、ヨーロッパに文化をもたらした地中海のように、温暖なうち海の瀬戸内海があって比較的安全に魚介の採集も可能でした。

そういったことから古代縄文人は、食をめぐって争うこともなく、たしかに世界標準からは外れるのですが、他文明とは異なり平和に独自の「縄文文明」を築くことができたのです。



注目される「縄文時代」1
2017.08.28


「縄文時代」、一般的な印象としては、多分、「縄」の字や「縄文土器」のイメージがつきまとうため、古臭くあか抜けしない“文明以前”で、日々の生活にも困った時代といったところでしょうか。

なかには、「はじめ人間 ギャートルズ」で描かれたように、石斧を手にもち、毛皮の衣装を片方の肩にかけて、マンモスを追い回しているような時代を想像しておられるかもしれません。

ちなみに、マンモスが生存したのは、一般的には約400万年前から1万年ほどとされています。
ちょうど新石器時代がはじまるあたりまでです。

「新石器時代」と「縄文時代」は、規定する概念がことなるのですが、ヨーロッパなどで旧石器時代が終わるのが紀元前14,000年頃で、そのあたりから日本では縄文時代がはじまっています。
なので、縄文時代には、マンモスは寒冷地などのごく一部に個体をとどめていたかもしれませんが、ほぼ存在していません。

狩猟を中心とした原始生活のヨーロッパなどはともかく、海で魚介や森林の木の実などを採集して生活していた日本の縄文人とは生活スタイル自体が異なるのです。

というのも、世界最古といわれる中近東のメソポタミア文明が栄えたのは、チグリス川やユーフラテス川の雪解け水による氾濫などで、小麦など豊かな穀物が獲れるようになり、生活が安定しはじめたためです。

「文明」というのは、“衣食たりて礼節を知る”ではありませんが、食生活の安定による“定住”が必要です。
要は、けものを求めて山々や大地を駆け巡り、移動していく生活は「文明」とはいいません。
世界最古のメソポタミア文明でも食生活の安定による定住が可能になったのは、紀元前3,500年あたりからです。

これがヨーロッパの学者たちのいわば「文明観」でした。
なので、大河がない島国の日本には、「文明」などないと考えられていたのです。

ところが、世界でもレア・ケースといえるほど周囲を海に囲まれ、細長い列島の中心部には山々が連なるために、水量が豊富で四季の変化が大きい日本は、山の豊富な栄養素が近海に流れ込み、さらには寒流の親潮と暖流の黒潮が交わる海域に位置することから、海の幸、山の幸が豊富で、小麦などの穀物がとれなくても豊かな食生活を営むことができ相応の生活と定住が可能でした。

三内丸山遺跡などはその一例で、その採掘調査からは縄文時代にすでに1,000年以上もの定住生活をしていたことが明らかになっています。

もちろん当時は海のすぐそばにありましたし、栗の遺伝子調査からは人為による栽培が行なわれていたことも明白になっています。

これまでの世界における「文明」の概念が、三内丸山遺跡をはじめとした日本には当てはまらず、「縄文文明」という新たな文明のカタチが世界の学者から注目されはじめています。

縄文時代は、すでに15,000年前からはじまりましたが、いつの時点からかは今後の調査が必要ですが、仮に5,000年ほど前からだとしても「縄文文明」が世界最古の文明ということになってしまいます。

ちなみに、「数理法則とクオリアル・ワールド」また「宝瓶宮占星学」の人類進化や歴史パラダイムから申し上げますと、約6,500年ほど前からはじまった「金牛宮時代」の約2,160年間(計算値)には、豊かな日常生活が可能になっています。

つまり、近々でも4,500年ほど前までには日本に「縄文文明」が花開いたというリーディングが可能です。

それはともかくとして、文頭に書いた「縄文時代」のイメージを見直すべき、宝瓶宮時代がはじまっています。


※「宝瓶宮時代」…占星学上の時代区分。近代科学がはじまったあたりの1630年(日本は江戸時代初期)から宝瓶宮時代の影響圏にはいり、昭和天皇が崩御された1989年から正式に「宝瓶宮時代」がはじまります。大自然とともにあった「縄文時代」は、宇宙自然波動による「宝瓶宮時代」とも共通点をもちます。




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