平成は宝瓶宮時代元年
2022.02.11
 
「建国記念の日」特別編 平成は宝瓶宮時代元年
― 国体「天皇制」と水瓶宮 ―


◆「天皇は権力者ではなく和と絆と臣民一体の象徴」



古来日本の建国と、“国体”は、「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)に共鳴する「水瓶宮」に由来します。

それは「建国記念の日」が2月11日で「水瓶宮」だからというだけではなく、それは「太陽」が水瓶宮にあるという意味にすぎず、「和」と「絆」といった「臣民一体」だからです。

日本の“民族性”は「魚宮」で、大自然を崇拝する「日本的霊性」ゆえでもありますが、“国体”は「水瓶宮」で、それは「天皇制」にもとづいています。

宝瓶宮時代が正式にはじまった1989年は、元号が「平成」に変わり、そのことがいっそう顕著になりました。



≪天皇は権力者か?≫

最初にお断りしておきます。

「天皇制」という言葉が左巻きだとか、左翼用語というご意見があるのは承知のうえで、便利なので使わせていただいています。

ただし、彼らの勘違いは、天皇は日本の国主だと海外からは認識されているのですが、彼らが思うような権力者ではありません。

国家や国民の安寧と平穏を祈る、むしろ祭祀長のお立場です。

彼らは、すべてをブルジョアジー(資本家、支配者)とプロレタリアート(労働者、被支配者)に図式化して、二元対立でとらえて階級闘争をうながす主義思想をもつようです。

明治以降、先の戦前戦中までは軍部など国家権力に利用されてきた天皇でした。

ですが、敗戦後(終戦後)は、現行憲法で象徴天皇と定められ、とくに宝瓶宮時代がはじまった平成の御世以降は、ご存じのように権力者というのはまったく該当しません。



≪統一独立国家「日本」≫

もともと天皇が権力者であった時期は、日本の歴史の中で多くありません。

天皇以前は「大王」号であり、「天皇」号に変わったのは第40代「天武天皇」からだとされています。

先の天智天皇(大王)が「白村江の戦い」で唐羅連合(唐と新羅)に大敗北し、天智が崩御後、その御子(大友皇子)との国家を二分した古代最大の内戦「壬申の乱」という2大国難に直面して、内戦に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)こと天武天皇は、早急な日本国の統一と立て直しの必要がありました。

そのような国難に際しては、強いリーダーシップが求められるのは洋の東西を問いません。

事実、天武天皇は、天皇の正統性をひもとく『古事記』や『日本書紀』の編纂を勅命され、統一独立国家「日本」を7世紀に築き上げます。

それまでの日本こと、古(いにしえ)の「倭国」(わこく)は、大陸や半島との交流や関係を深めつつ、相互に影響しながら国づくりをしてきたところがあります。

しかし、7世紀初頭以来、統一日本へと独立してきた歴史があるのです。



≪御輿に担がれた歴代天皇≫

そこで生まれたのが「天皇」号で、皇親政治を行なった天武天皇だとされます。

なので当初は、国家の礎を築くため相応のリーダーシップや権力は仕方ありません。

その後、天武系の皇統から天智系の皇統に代わるにしたがって、権力をなくし、完全なお飾りになっていきます。

体(てい)のいい「御輿」に天皇を担ぎ上げて、世の権力をほしいままにしていたのが、約300年近く続いた平安時代の藤原氏でした。

その後の時代も、しばらくは塀が壊れ、雨漏りがするような屋敷に天皇お住まいだったのです。

もっとも、鎌倉幕府が滅亡した翌1334年、後醍醐天皇は、権力を手にしようと動き「建武の親政(中興)」を図りました。

ですが、わずか3年足らずで潰(つい)えています。

結局、天皇の“復権”は「明治維新」による武家から天皇への「大政奉還」が行なわれるまで、その後、500年以上待つことになります。

それとて、まだ若かった当時の明治天皇に権力が移譲されることはなく、明治新政府に御輿に担がれた状態でした。



≪卑弥呼と7世紀の大和≫

いずれであっても、日本史における天皇の存在は偉大でした。

当時の権力者から御輿に担がれていても、相応の内乱や戦国時代また軍部による先の戦争はあったとしても、天皇ゆえに革命は起こらず、日本(国体)は護持され、今日まで続いているからです。

それは、天皇のもとにある「和」や「絆」など古い言葉でいえば「臣民一体」の想いがあるからです。

たとえば、それは2~3世紀の「倭国大乱」のさいに、霊媒による鬼道をもちいる「卑弥呼」(ひみこ)を女王に共立して平和をもたらした歴史的事実を嚆矢(こうし)とします。

卑弥呼は女王に祀り上げられただけで政治権力はなく、祭祀を行なう立場であり、事実上は通称「魏志倭人伝」に「世々王あり」と記された伊都国(いとこく)の王が“議長役”で取り仕切っていたようです。

ということもあり、当時の倭の女王が都とした「邪馬台国」から7世紀の「大和」に受け継がれ、『日本書紀』に記される「17条憲法」の冒頭に「和をもって貴しとなす」とあるように、日本の根幹思想に定められていきます。

異論があってもかまいません。アバウトでは、そのような歴史の流れがあります。

結局、“プレ天皇”の役割を果たした「卑弥呼」といい、権力は行使したものの「天武天皇」といい、また日露戦争の開戦にさいして「四方の海 みな同胞(はらから)と 思う世に など波風の 立ち騒ぐらん」と詠まれた近年の「明治天皇」といい、国家や臣民の安寧と平和を祈る祭祀の役割を果たしていたのです。



≪国民の「和」の象徴≫

上述の内容は、「水瓶宮」またその共鳴星「天王星」の象意をご存じのかたならお気づきでしょう。

天皇による日本の国体が「水瓶宮」で象わされて、おかしくないことを意味します。

戦後もそうですが、「君臨すれども統治せず」というお立場の天皇は、権力者たりえません。

国民の「和」の象徴なのです。

倭国大乱のさいに共立され、「平和」をもたらした倭の女王「卑弥呼」の立場がそうでした。

“プレ天皇”また“天皇のプロトタイプ(原型)”です。

そのスタンスを引き継いだのが、大和の「天武天皇」で、千年のちまでも皇位をめぐる争いが起きないように、自らを戒めつつ「吉野の盟約」を天智天皇の御子らとともに結んでいます。

近年の「明治天皇」も上述のとおり同胞の平和を願っています。

さらに申し上げますと、宝瓶宮時代(水瓶宮時代)のはじまりとともに「平成」へと元号が変わり、名実ともに、水瓶宮にみられる「友愛精神」(和、絆、民度)とともに、「和の象徴」としての天皇のスタンスは、“宇宙波動エネルギー的”にも確立されたのです。









高祖神社ご参拝
2021.12.22
 
「高祖」と書いて“たかす”と読みます。

かつての伊都国こと、現在の福岡県糸島市にある「高祖神社」(高祖宮)にご参拝してきました。

裏山には「高祖山」(たかすやま 標高416m)が控え、その登山口にある古来由緒ある神社です。




田舎と思える山あいの小さな神社にかかわらず、天皇陛下もここからは馬を降りてご参拝しなければならない「下乗」の立て札が立っています。

実際、明治天皇ご夫妻やご家族のご親影(写真)が本殿内に飾られているなど、明治以降も歴代天皇が訪れているようです。




本殿脇の手水舎(ちょうずや)の屋根には、魔よけの「桃」が両脇に飾られているなど、『古事記』また『日本書紀』の神話に由来しています。

黄泉の国から帰るとき、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が投げたと記される桃だと想われます。




「高祖神社」のご由緒は、下の画像のとおりです。
お手数ですが、ご興味がありましたら、ご一読ください。

多少は読みやすくレタッチ(修正)を施してみました。




本殿にいたるには、木立に囲まれた古い石の階段を登っていく必要がありますが、登り口にフリーの「駐車場」があり、また神社横の「下乗」の立て札や登山者も利用できる小さな休憩小屋まで、直接、車で行くことも可能です。




ナビでも見ないと、若干、分かりにくい場所かもしれません。








「高良大社」へのご参詣
2021.06.18
 
【史実に即した「高良大社」(高良玉垂命神社)】


築後平野の中央部「久留米市」(御井:みい)にある「高良大社」(こうら たいしゃ)にご参詣をしてきました。


高良山(312メートル)の上腹(海抜220メートル)に鎮座し、境内から築後平野を一望できる。


◆「海神」は住吉大神(筒男三神)をふくむ

古くは「高良玉垂命神社」(こうら たまだれ の みこと じんじゃ)と呼ばれ、主祭神「高良玉垂命」は、“だれ”なのか、今では諸説があり、ワケあってハッキリしないとされています。

いずれであっても「大社」と呼ばれることから、近隣では、築後平野(福岡県)一帯はもちろん、西は武雄市(佐賀県)から、東は日田市(大分県)に「玉垂神社」また「玉垂宮」などが広がっています。

ところが、「高良玉垂命」については、『日本書紀』に記載がないのです。

ただし、“玉垂”といえば、「山幸彦と海幸彦」のお話の中で、「潮満玉」(しおみちの たま)と「潮涸玉」(しおひの たま)を山幸彦にさずけた、「海神」を思い起こします。

『日本書紀』神代(下)では、山幸彦は「彦火火出見尊」(ひこほほでみ の みこと)のことで、海幸彦は「火闌降命」(ほのすそりのみこと)と記されています。

問題は「海神」で、一般には、“わたつみ”と読まれ、古代海人族の「阿曇連」(あずみのむらじ)らがお祀りする「少童三神」(わたつみ さんしん=綿津見三神)と考えられています。

ですが、ひろく「海神」という場合、もう一方の古代海人族である“筒男三神”(つつのお さんしん=住吉三神)こと「住吉大神」(すみのえ おおかみ)をふくめなければなりません。

そうしないと、“正しい歴史”が見えてこないのです。

さて、以上を前提に、ここからは、“正体不明”とされる「高良玉垂命」が“だれ”で、どのような事情が「高良大社」に隠されているのか、信じてはもらえにくいお話を申し述べます。


◆「邪馬台国グループ」(女王国)の“滅亡”

高良大社がある「筑後平野」は、2~3世紀の「邪馬台国グループ」の某余の国でした。

遠まわしに書くと余計に分かりにくくなりますので、ハッキリと断定的に書きます。

奈辺は、かつて物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ ほのあかり くしまた にぎはやひ の みこと)が治めていた物部系の地域でした。

『日本書紀』では、“女性神”と勘違いするように記された「天照大神」(あまてらす おおかみ)ですが、明治になって、“皇祖神”とされ、本来は“男性神”であって伊勢(神宮)に祀られる「天照坐皇大御神」(あまてらします すめおおみかみ)その人です。

高良山(こうらさん=高牟礼山)では、奈辺の筑後平野にあった諸国が「邪馬台国グループ」に属していたことから、一大卒が置かれ“世々王あり”と記された「伊都国」の王「高皇産霊尊」(たかみむすひ の みこと=高木神)が、もともとは鎮座ましましていました。

そこに、「高良玉垂命」がきて一夜の宿を借りると、結界を張ってしまい鎮座してしまったという伝説が残っています。

要は、“玉垂命”との戦いに敗れて奪われたのです。

というのも、3世紀の「邪馬台国グループ」は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)でいう「狗奴国」(くなこく)の官「狗古智卑狗」(くこちひこ)、また狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)に敗れてしまったからです。

女王「卑弥呼」はすでに死に、「伊都国王」も殺されて降伏し、“男王”の支配下におかれます。

当然のなりゆきです。

「鬼道」(きどう)こと“死者(霊=ひ)の言葉”を語る女王「卑弥呼」(ひ みこ)は、「倭国大乱」を終結させるために“御輿”にかつがれた存在でしかなく、実権は「伊都国王」のもと“合議制”によって運営されていたのが、当時の「女王国」だからです。

それゆえ、“平和時”にはよいのですが、狗奴国から攻撃を受けた“戦時”には、強い統率力をもった「リーダーシップ」を欠き、「狗奴国」に抗しきれずに狗奴国王(男王)の支配下に入ってしまいました。


◆“北部九州連合”「九州倭国」の黎明

これを、『日本書紀』から記しますと、次のようになります。

殺された“伊都国王”は、今年4月の記事「仲哀天皇は伊都国王」に書いたように、第14代「仲哀天皇」です。

その妻「神功皇后」は、誤解をおそれずに書けば、「神宮皇后紀」自体が“実在”を疑わせるためフィクションの「話半分」の部分があることから、“卑弥呼”を投影した部分と、大半は、“男王”(狗奴国王)が立ったのち13歳で二代目女王となった“台与”(とよ)の成人後をメインに投影されています。

さらに、「歴代天皇紀」(人代)との二重構造で記されている『日本書紀』の「神代」(下)でいえば、山幸彦こと「彦火火出見尊」の妻で、初代「神武天皇」の“祖母”でもあり“叔母”でもある「豊玉姫」として投影されているのが、“台与”こと「神宮皇后」の史実の姿です。

さらに信じられにくいことを書きます。

この「邪馬台国グループ」を支配下におき、「九州倭国」こと“北部九州連合”の礎を築いたのが、“狗奴国王”として記され、『日本書紀』の著名な登場人物「武内宿禰」(たけのうち すくね)なのです。

その父「武雄心命」は、“肥前”(佐賀県)今でいう「武雄市」を出自とします。

『日本書紀』が、なぜ「武内宿禰」(『古事記』では建内宿禰)と記したのかというと、次のような事情からです。

『古事記』の「国産み」の段に、「熊曾国」(くまそ の くに)こと「建日別」(たけひわけ)が記されています。

「熊曾国」というのは、「肥国」(ひのくに)のことで、有明海でつながった「肥前」(佐賀)と「肥後」(熊本)の地域です。

そこで生まれ、のちに北部九州を治めたことから、「建」(武=九州の意)の「内」の「宿禰」(尊い祖神)と記されたのが「武内宿禰」の名前の由来です。

肥前と肥後のはざまにある筑後川流域は、「筑紫国」(白日別)と記され、現在の福岡県南部にあたり、この筑後川流域(筑後平野)に、かつての「邪馬台国グループ」がありました。

女王が都とした「邪馬台国」の南側地域です。

その北側は、御笠川(みかさ がわ)をはじめとした福岡平野また隣の糸島平野のグループで、「魏志倭人伝」に記される伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不弥国(ふみこく)です。

“軍事記録”「魏志倭人伝」(元データ)に即して矛盾なく解釈するとそれが史実になります。

つまり、伊都国王がいた糸島平野、また隣の福岡平野、さらには、「邪馬台国」をはさんで筑後平野一帯に広がる「女王国」(倭人国)を実質的に治めていたのが、『日本書紀』神代(下)の冒頭に「皇祖」と記される「高皇産霊尊」の子孫です。

ここで「霊」は、「ひ」と呼ばれていることにご注目ください。

“卑弥呼”の「ひ」は、「鬼道をもちい」と記されることから、支那で「鬼」は、“幽霊”また“死者”などを意味するために、“ひみこ”は「霊」(ひ)メッセンジャー、すなわち「いたこ」などのように“口寄せ”を行なう「霊媒師」がその正体です。

この高皇産霊尊と“卑弥呼”がいたのが、記紀でいう「高天原」です。

高皇産霊尊の「高良山」を、“一夜の宿”として借りて“結界”を張り、そのまま支配してしまった「高良玉垂命」こそが、邪馬台国グループ(女王国)を支配下においた狗奴国王こと「武内宿禰」なのです。

「高良玉垂命と武内宿禰」は同一人物なので、『日本書紀』は武内宿禰として記し、高良玉垂命は残されることなく、“正体不明”かのように扱われることになります。


◆高良大社、宇佐神宮、武雄神社の共通性

もう少し書いておきます。

上述からわかるように、かつての女王国(倭人国)こと「倭国」の“大王”(おおきみ)となったのが「武内宿禰」です。

しかし、『日本書紀』は、武内宿禰が蘇我氏の祖ということもあり、歴代天皇(大王)としては扱いませんでした。

「高天原」にとって敵方だったので仕方ありませんが、かといって史実を消すわけにもいかず、忠臣の「大臣」(おおおみ=首相)として記したわけです。

そういうことがありまして、通常、「神社」の屋根には千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)がありますが、「高良大社」(高良玉垂命神社)には、それがなく、御幣(紙垂:しで)も白ではなく真っ赤でした。

高良大社は、正殿に「高良玉垂命」、左殿に「八幡大神」、右殿に「住吉大神」が祀られ、本殿の御客座に「豊比咩大神」(とよひめ おおかみ)が合祀されています。

「武内宿禰」はというと、本殿の裏に祀られますが、江戸時代までは「高良玉垂命=武内宿禰」と考えられていました。

それが、明治の“天皇御親政”になって、“臣下”の「武内宿禰」を正殿に祀るわけにもいかず、“高良玉垂命”の正体は不明とされてしまいます。

実際(史実)は、左殿の「八幡大神」(応神天皇)も、右殿の「住吉大神」も、また御客座の「豊比咩大神」も、これら三大神は、すべて「武内宿禰」を主人とする“直近”の関係者です。

八幡大神こと「応神天皇」(誉田別命)は、「神功皇后」の皇子ながら、知る人ぞ知る“住吉大神”こと「武内宿禰」との“縁”は浅からず、また豊比咩大神は、「神代」(下)に豊玉姫として投影される“台与”こと「神功皇后」だからです。

つまり、「豊比咩大神」(台与:神功皇后)と「八幡大神」(応神天皇:誉田別命)は、高良玉垂命(武内宿禰)を“介”して「母子」の続柄なのです。

“豊(とよ)の国”こと大分県の八幡総本宮「宇佐神宮」では、当初からの主祭神を「比売大神」(ひめ おおかみ)とします。

今は両サイドに「応神天皇」と「神功皇后」が祀られ、「一之御殿」を応神天皇としつつも、中央の「二之御殿」に比売大神が、「三之御殿」に神功皇后が祀られています。

巷間では、「比売大神」は“宗像三女神”とされますが、高良大社の「豊比咩大神」(とよ ひめ おおかみ)のことです。

なぜなら、“豊”(とよ)の地で祀られる“比売大神”(ひめ おおかみ)が、他の土地では、識別できるように“豊比咩大神”(とよ ひめ おおかみ)と呼ばれるのは当然だからです。

もっとも、「宗像三女神」も「豊比咩姫大神」も海人族つながりなのは同じです。

「比売大神」を祀っていた宇佐に、「応神天皇」と「神功皇后」が祀られるようになったのは、6世紀になってからです。

以降、宇佐神宮(宇佐八幡宮)として立派になりました。

邪馬台国グループ(女王国)に属していなかった宇佐は、「高良玉垂命」(武内宿禰)を祀ることはありませんが、それ以外のご祭神は「高良大社」と同じなのです。

ちなみに、武内宿禰の出身地である佐賀県武雄市の「武雄神社」(武雄五社大明神)は、「武内宿禰」を主祭神とし、父親の「武雄心命」、『日本書紀』で応神の“父親”とされる「仲哀天皇」、その妻「神功皇后」、そして「応神天皇」を五祭神としています。

結局、宇佐神宮は、日本書紀史観による“オモテ向き”の公式ご祭神でもあり、武雄神社をふくめてもいいのですが「高良大社」は、“史実”に即した主祭神と妻子という、身近な関係者を祀る由緒ある神社になっています。














?な「竹内文書」の由来
2021.05.31
  
いまさらですが、「竹内文書」の由来についてです。

真贋がとわれる古史古伝の“代表格”ともいえるのが「竹内文書」です。

今回は、1900年(明治33年)に天津教の前身「御嶽教天都教会」を開設した「竹内巨麿」の「竹内文書」をとりあげます。

10年後の1910年に、神武天皇以前から伝わる“真の歴史書”として「竹内文書」を公表し、この文献や神宝類を「経典」として「皇祖皇太神宮」を復興して「天津教」を立ち上げ、開祖となっています。

それゆえ「竹内文書」(たけのうち もんじょ)のことを「天津教文書」とよぶことがあります。

ウィキペディアの冒頭には、次のように記されています。


「竹内文書(たけうち もんじょ、たけのうち もんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)は、古代の文書を装ったとされる偽書。
神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称。
天津教の聖典とされる。
原本が存在する立場からは、後述の裁判に提出されたのちに焼失したと主張される。」


現在は、孫に当たる竹内康裕氏が茨城にある「皇祖皇太神宮」の第68代管長に就任しています。

だれにでも信教の自由がありますので、ここでは「皇祖皇太神宮」(天津教)には触れません。

純粋に、「竹内文書」の由来についての一筆です。

内容については、一言、“荒唐無稽”というしかありません。

しかし、実のところ個人的には「タネ本」があって、それを日本式に二度三度と書き直していくうちに“脚色”が加えられ、ありえない「荒唐無稽」な内容がふんだんに付加されたものだと考えています。

その点では、歴史的には間違いなく、“偽書”と位置づけるしかありません。


それはともかく、「竹内文書」の由来については、次のように記されています。


● 『これが禁断の書「竹内文書」だ!』より抜粋

◆成立年代
5世紀末。

◆由来
大陸文化の渡来に伴い日本文化の伝統・文化が失われるのではないかと危惧した武烈天皇が、武内宿禰(たけの うちの すくね)の孫である平群真鳥(へぐりの まとり)を神代以来の伝統を守る聖地・越中に派遣。
真鳥を皇祖皇太神宮の大宮司に就任させ、神代文字という象形神名文字でかかれた神代の記録を漢字仮名混じり文字に改め、写筆させた。
この真鳥が写筆した文献と、皇祖皇太神宮に伝わる、神代文字が記された神宝類を総称して竹内文書(たけうち もんじょ)という。

◆内容
宇宙の創成から神武天皇以降の歴史時代までを、主に天皇(すめらみこと)の統治年代別に記した壮大な「記録」。
年代ごとの出来事を記した天の巻、世界中に秘蔵されているとみられる神宝・文書類の隠し場所を記録した地の巻、ノアの洪水など天変地異の真相を明らかにした人の巻からなるとされているが、一般に公開されたのは天の巻だけ。


という、もっともらしい由来です。

『日本書紀』に出てくる人物(武烈天皇、武内宿禰、平群真鳥)をもちいて記されていることから“本物”と思うかたがいらっしゃるかもしれません。

ですが、この由来自体が、“ウソ”なのです。

その理由を挙げておきます。


1、武烈天皇の実在性

「武烈天皇」(小泊瀬稚鷦鷯尊:おはつせの わかさざきの みこと)は、『日本書紀』のなかに第25代天皇として名を連ねていますが、そこには、まもとなエピソードが記されていません。

たとえば、最初の3分の2ほどは、太子時代のエピソードで、ほぼ色恋の歌でしめられています。

残りの3分の1ほどの即位後の記述は、さらにひどいものです。

一例をあげますと、「妊婦の腹を割いてその胎児を見られた」とか、「人の頭の髪を抜いて樹の頂に登らせ、樹の本を切り倒して、登った者を落とし殺して面白がった」とか、「人を池の樋の中に入らせて、外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ」などです。

異常で、人間にあるまじき暴虐ぶりしか記されていないのです。

これらは、古代支那の史書にでてくる暴君たちのエピソードをモデルにしたもので「創作」とされています。

なぜなら、「不徳な君主は子孫が絶える」という儒教の教えがありますが、それを後継者がいなかった「武烈天皇紀」に記すことで、次の第26代「継体天皇」の選出を正当化しているのです。


2、平群真鳥との関係性

実際、『日本書紀』では「武烈天皇」の出生や即位がおかしいのです。

先代の「仁賢天皇2年」の出生とされますが、「武烈天皇8年12月」(在位 498年~506年)に崩御されて、即位されたのは仁賢天皇11年のことです。

なので、9歳前後で即位して20歳前後で亡くなったことになります。

つまり、『日本書紀』は、正しい年代を明かしていないか、創作された天皇なので、わざとつじつまが合わないように書いて、“創られた天皇”であることを示唆しているのです。

で、本題の平群真鳥との関係性です。

「平群真鳥」(へぐりの まとり)は、第21代「雄略天皇」以降、4代の天皇のもとで大臣(おおおみ:首相)をつとめた実力者です。

ですが、『日本書紀』によれば、「武烈天皇」が即位される直前の太子の時代に殺されています。

そのようすを『日本書紀』から抜粋してみましょう。


● 『日本書紀』「武烈天皇紀」より抜粋

「大伴金村(おおともの かねむら)大連(おおむらじ)が太子に申し上げるのに、「真鳥の奴をお討ちなさい。仰せがあれば討伐いたします」という。

太子は「天下騒乱の恐れがある。世にすぐれた人物でなければ治めることができぬ。よくこれを安らかにできるのはお前であろう」といわれた。

そこで一緒に相談をした。

そして大伴大連が兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み火をかけて焼き払った。

(中略:平群真鳥は)ついに殺された。科(とが)はその一族に及んだ。」


つまり、武列天皇が即位される前の太子の時代に、平群真鳥は大伴金村の進言によって殺されています。

なので、武列が天皇になったときには、平群真鳥はこの世にはいませんでした。


3、蘇我氏滅亡の「乙巳の変」のモデル

平群本宗家は、こうしてメインが滅ぼされます。

その理由を、「武烈天皇紀」は次のように記しています。


「仁賢天皇が崩御された。大臣の平群真鳥臣が、もっぱら国政をほしいままにして、日本の王になろうと欲した。表向きは太子のために宮を造ることにして、完成すると自分から住みこんだ」


要は、当時は「平群真鳥政権」(平群大王)だったのです。

にがにがしく思った「大伴金村」がこれを倒して、結局、彼の発案で応神天皇の五世の子孫とされる“男大迹王”(をほおのおう)こと「継体天皇」を越から迎えて、後日、即位することになります。

結局、「平群本宗家」の滅亡のパターンは、実質の「蘇我氏三代大王」だった蘇我本宗家を“悪者”にでっちあげて、蘇我入鹿(そがの いるか)大臣を、「中大兄」(のちの天智天皇)と「中臣鎌子」(藤原鎌足)が“弑逆”(しいぎゃく:下のものが上のものを殺すこと)したときの理由に流用されています。


さて、「竹内文書」の由来についてです。

もう、おわかりですよね。

1、
即位もしていない“9歳”前後の太子(武烈天皇)が、「日本古来の伝統・文化が失われるのではないかと危惧した」という「竹内文書」の由来は、明らかにヘンです。

2、
また、「武烈天皇紀」の最初の3分の2ほどに数々の歌が記され、平群真鳥の息子「鮪」(しび)と、“9歳”に満たない太子が“恋敵”だったというのもありえないでしょう。

3、
さらに、政権をほしいままにしていた「鮪」の父親「平群真鳥」を、越中に派遣して皇祖皇太神宮の大宮司に就任させるほどの立場には、まだ父の仁賢天皇が在位中なので、太子(9歳前)だった武烈にはありません。

竹内文書の由緒では、「平群真鳥を大宮司に就任させて、竹内文書を写筆させた」とありますが、「武烈天皇紀」を読めば、そんな由来はとても信用にあたいするものではないということがわかります。

結局、即位前に自らが大伴金村に殺させた「平群真鳥」を、即位後の「武烈天皇」が“大宮司”に就任させて、「竹内文書」を写筆させることなど絶対にできないのです。

4、
第一、「武烈天皇」そのものが、実在性を疑われている架空の天皇です。

そんな架空の天皇がすでに殺されていた「平群真鳥」に写筆を命じるエピソードを、もっともらしく「由来」として残す「竹内文献」は、もはや存在そのものが“偽書”というしかないのは明白です。


ということで、完全にねつ造された「竹内文書」の由来でしかありませんでした。














志賀海神社「沖津宮」
2021.05.03
  
全国の「綿津見神社」(わたつみ じんじゃ)また「海神社」(かいじんじゃ、わたつみじんじゃ、あまじんじゃ)の総本社は、「志賀海神社」(しかうみ じんじゃ)です。

志賀海神社は、博多湾の東端から突き出た「海の中道」の先端、「志賀島」(しかのしま)にある古い神社で、ご祭神を「綿津見三神」(わたつみ さんしん)とします。

志賀島は、1世紀の金印「漢委奴国王」が発見された場所で、“古代海人族”の「阿曇族」(あづみぞく:安曇族とも)が拠点としていた、古代は島でしたが今は砂州によって道一本の陸続きになっています。

綿津見三神は、しこめき“黄泉の国”から帰ってきた伊弉諾尊(いざなぎの みこと)が、“筑紫の日向”で祓ぎはらいをされたときに生まれた神々ですが、『日本書紀』には次のように記されています。


●『日本書紀』「神代」(上)一書より抜粋

《原文》
「底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣」

《訳文》
底津少童命(そこつ わたつみの みこと)、中津少童命(なかつ わたつみの みこと)、表津少童命(うわつ わたつみの みこと)は、阿曇連(あづみの むらじ)らがお祀りする神である。


伊弉諾尊(いざなぎの みこと)が祓ぎはらいをされて、「八十枉津日神」(やそ まがつひの かみ)ほか2柱と、「住吉三神」(住吉大神)、また「綿津見三神」が生まれます。

そののちに、伊弉諾尊は三貴子(みはしらの うずの みこ)とされる「天照大神」と「月読尊」(つくよみの みこと)と「素戔嗚尊」を生みます。

後者は、日本を治めることになる重要な“神々”ですが、それ以前に日本列島にいたのが、“古代海人族”にかかわる「住吉三神」(住吉大神)や「綿津見三神」ということがわかります。

つまり、古代海人族は日本の“原点”にかかわる神々なのです。


ちなみに、伊弉諾尊が“祓ぎはらい”をされたときに生まれでたこれらの神々を祀る神社が、三つともそろっているのは博多湾岸しかありません。

「八十枉津日神」、「神直日神」(かんなおひの かみ)、「大直日神」(おおなおひの かみ)ら三柱は、昨年2020年末をもって活動休止した「嵐」の“聖地”とされる「櫻井神社」で祀られています。

博多湾西岸の糸島半島で、福岡市との境の糸島市にあります。

奈辺は、かつての「伊都国」(いとこく)です。

「住吉三神」は、今は博多駅近くの内陸部になりましたが、古代は海進によって博多湾の南岸だった日本第一宮「住吉神社」で祀られています。

最後に、当「綿津見三神」を祀るのが「志賀海神社」で、博多湾北端に位置する志賀島にあります。




この意味は、“祓ぎはらい”の場所を九州北岸の「古代博多湾」を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あわきはら)」(原文:筑紫日向小戸橘之檍原)と想定していたことがわかります。

なぜなら、詳しいお話は省略させていただきますが、伊弉諾尊は、「伊弉冉尊」(いざなみの みこと)と訣別し、“祓ぎはらい”をしたということは、「独立」と「新たなスタート」をあらわすからです。

つまり、“統一独立国家”「大和」のはじまりを意味し、『日本書紀』はこれを「神代」(上)の“国生み”の時代のこととして記しました。

要は、半島や大陸との“決別”による「独立」と「新たなスタート」を意味するのが、この“祓ぎはらい”なのです。

意味はおわかりでしょうか。

そのため、半島や大陸との交流の窓口だった古(いにしえ)の「伊都国」(魏志倭人伝)や、「唐泊」(からどまり)また袖之湊(そでのみなと)こと「唐船の入し港」(唐船入之津)があった「博多湾岸」で“祓ぎはらい”を行なったとしなければ意味がないのです。

さらに書いておきますと、「上の瀬は流れが速い、下の瀬は流れが弱い、と中の瀬で禊ぎをなされた」と『日本書紀』に記されているのは、次のことを示唆します。

「上の瀬」…玄界灘(海峡なので流れが速い)
「下の瀬」…瀬戸内海(内つ海なので、当然、流れが弱い)
「中の瀬」…博多湾奈辺(上記二者の中間、九州北岸)


機会があれば詳しくご説明いたしますが、宮崎県がかつて「日向国」と定められたのは、7世紀中期以降のことです。

なので、「筑紫島(九州)の日向国」と書いていれば宮崎県ですが、単に「筑紫の日向」という場合、天孫降臨の「槵触之峯」(くしふるの たけ)や、初代「神武天皇」の出発地を含めて、「筑紫国」の“日向”を意味します。

それを、なぜあえて「日向国」(宮崎)と勘違いするように記したのかいうと、支那の冊封下にあった「筑紫国」(奴国、伊都国、不弥国など)がそうだとばれると“マズイ”からです。

当然です。

日本(大和)のはじまりにかかわる“天孫降臨”の地や“神武東征の出発地”が、かつて支那の冊封下にあった「筑紫国」(九州倭国)だとわかると、大和(日本)全体が“属国”と誤解されるからです。


信じられないかたは、第12代「景行天皇紀」を読めばわかるのではないでしょうか。

土蜘蛛や熊襲討伐の項です。

景行天皇は13年に「襲国」(そのくに)を平定されたのち、17年に「小湯県」(こゆのあがた:宮崎県児湯郡)にて「それでその国(襲国)を名づけて日向という」と記されています。

意味はおわかりでしょうか。

もし、この日向国(襲国)を、“天孫降臨”の地また“神武東征の出発地”と解釈すると、景行天皇は初代「神武天皇」の国を征討されたという、わけのわからないことになってしまいます。

まだあります。

景行天皇はその後、「火国」(ひのくに:熊本県)から筑紫国の「的邑」(いくはのむら:福岡県うきは市)に着き、翌月「天皇は日向から大和にお帰りになった」(景行19年)と記されています。

ここでも日向は「筑紫国」であることが示唆されています。

逆にいえば、「景行天皇紀」はもちろん記紀(『古事記』と『日本書紀』)の中で、唯一、征討された記述がないのが筑紫国なのです。


ついでにもう一つ書いておきます。

記紀には記されませんが、天孫降臨に付き添った「綺日女命」(かむはた ひめの みこと)がいます。

この綺日女命を祀る「長幡部神社」の“御由緒書き”に、1,200年前の「常陸国風土記」からの引用として、「筑紫國の日向の二神の峰より…」と天孫降臨の場所が記されています。

繰り返しになりますが、「筑紫國の日向」とはっきりと残されているのです。

各風土記は、地名のいわれなどを記した“内部記録”なので、はっきり書いても問題ないと考えたのでしょう。



さて、お話が大きくそれました。

お話をもとにもどします。

「志賀島」の北端から30メートルほど沖合いの小島に、志賀海神社「沖津宮」(おきつぐう)があります。

ふだんは海の中の島なのですが、干潮時には歩いてわたれます。




先の「昭和の日」は、夕方4時半~5時頃にふだん以上に潮が引くことから、歩いてご参拝をしてきました。

低い鳥居をくぐり、高さ10メートルほどの山頂にある沖津宮は、潮や強風にさらされても朽ちない「祠」(ほこら)で、宇佐神宮と同じ、少し尾長の「三つ巴紋」がほどこされていました。

そこで感じたのは、「権力欲がない」ということです。

やはり、“古代海人族”はそうなのだと想いました。

どういうことかというと、支那のような「大陸国家」の場合、どうしても領土や食料など覇権を求めて争いが生じます。

そういう“好戦的”な民族性になってしまうのです。


ところが、「海洋国家」のなかでも日本は、“古代海人族”によって国が形成されたこともあって、“穏やか”な民族性をもつようになりました。

彼らは、もともと「船」が“家”なのです。

広大な大海原を行き来しますので、“領土”という概念にとぼしく、あまり“権力”(支配)という考えをもちません。

船の上では、一蓮托生だからです。

もし、争ったりケンカをしていると、“時化”や“嵐”のさいに乗りきれず、お互いに船もろとも海の藻くずと消えてしまいます。

なので、お互いに協力して助け合うなど危機を乗りきろうとする心をもちます。


日本に国邑が形成された約2,000年ほど前に、ほぼ同時期にはじまったのが「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい)ということもあって、共鳴星の「木星」につうじる“おおらか”な民族性がベースにあります。

「木星」の象意は、“遠い世界”(海外や精神面)また“自由気まま”や“成り行きまかせ”(寛容さ)といったことをもたらします。

ちなみに、19世紀中盤に「海王星」が発見されると、「双魚宮時代」また「魚宮」の共鳴星は、海王星に変わっていきました。


“古代海人族”に権力欲(支配欲)がなかったことは、物部氏の祖「饒速日命」(にぎはやひの みこと)が初代「神武天皇」に“国ゆずり”をしたことからも明らかです。

海人族の系譜を記した国宝「海部氏系図」(あまべし けいず)には、「始祖 彦火明命」(ほあかりのみこと)と記されています。

これは、物部氏の由緒を記した『先代旧事本紀』(せんだい くじ ほんぎ)でいう「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひの みこと)のことです。

つまり、「饒速日命」は、“古代海人族”に連なる祖神となっています。

そのため、彼は、稲作を広げ、“古代国づくり”をしながらも、領土への執着は少なく、東征してきた「神武天皇」に国をゆずってしまいます。

古代海人族は、海がホーム・グラウンドなので、陸地での争いがいやになれば、いつでも海に出ればいいし、さすれば、だれにも邪魔されず自由なのです。

付記しておきますと、物部氏は古代イスラエルからフェニキアの船団に乗って日本に来た人々を先祖をもつなど、相応にかかわることもあって、“もともと、自分たちの領土ではない”という思いがあったのかもしれません。

“国ゆずり”とはいうものの、古くからの“天孫族にお返しした”という感覚でしょうか。



いずれにしても、志賀島を拠点にした“古代海人族”の安曇族は、その後、東を目指して各地に広がっていきます。

たとえば、淡路島や摂津国(安曇江)もそうですし、三河国(渥美半島:飽海)や伊豆半島(熱海)もそうです。

内陸部ながら信濃国(長野県)の「安曇野」(現在の安曇野市)が、古代海人族「安曇族」にかかわることは有名です。

古代海人族らしく、彼らの結びつきは強いことでも知られています。

そのように、伊勢の神宮や宮中三殿、また全国に広がった一族を遥拝する東(日の出)を向いた鳥居(遥拝所)が、「志賀海神社」の本殿脇にあることも、以外によく知られた事実です。














[補記] 統一独立国家「日本」
2021.04.24
 
先の記事の「補記」です。

7世紀初頭に九州「倭国」と本州「畿内国」(日本)が合併し、統一独立国家「大和」(大倭)が誕生しました。

ときは、“日出ずる処の天子”こと九州倭国王「阿毎多利思比孤」(あめの たりしひこ)大王の御世です。

『古事記』また『日本書紀』では、第33代「推古天皇」の御世です。

くわしい経緯は、先の記事をご参照ください。


このとき、九州「倭国」は、本州「畿内国」(日本国)に、自らを吸収合併させるかたちで、シナ(隋)の冊封下(属国)からはなれ独立しました。

「漢委奴国王」の金印で知られる1世紀の「奴国」(なこく)以来、3世紀の倭の女王ひみこによる“邪馬台国連合”や、6世紀までの九州「倭国」の歴史に幕をおろしたのです。

はじめて聞くお話ゆえに、にわかには信じられないかたも多いでしょう。


信じても信じなくてもいいのですが、今回はいくつかの“状況証拠”を提示しておきます。



1、「記紀」の記述

【古事記】

『日本書紀』は、第41代「持統天皇」で終わっています。

具体的には、天武と持統の孫、第42代「文武天皇」への譲位(万世一系の確立)で巻をとじます。

これに対して『古事記』は異なります。

『古事記』は、第33代「推古天皇」で終わっています。

和風諡号(わふうしごう:国風諡号)「豊御食炊屋比売命」(とよ みけ かしきや ひめの みこと) です。

ちょうど、九州「倭国」と本州「畿内国」(日本)が合併したときです。

これが「倭畿合併」の一つの“証拠”です。

なぜなら、“九州海人族”を出自とする大海人皇子こと「天武天皇」は、『古事記』の編纂(誦習)を命じました。

理由は、自らの皇位の正統性を示すことによって、1,000年のちも皇位争いをなくし、内乱を防いで日本に平和をもたらそうとされたからです。

要は、初代「神武天皇」が九州から東征します。

その九州(倭国)の王統に代々つながる自らの「皇統」(血統)を、『古事記』によって示そうとされたのです。

当然、九州「倭国」の歴史は、7世紀初頭の合併によって途絶えましたので、合併の時点の「推古天皇」で筆をおくことになります。



【日本書紀】

『古事記』だけではありません。

実は『日本書紀』も類似なのです。

巻第1から巻第30まで、一見、連続しているようにみえますが、歴史学者らの研究によると、実は大きく3つわかれています。

表記の基準や漢文の用法などが違うことが専門家のあいだでは知られています。

顕著に区分されるのは、次の3つです。


1) 巻第1「神代(上)」(かみよ) ~ 巻第13「允恭天皇」&「安康天皇」まで。

2) 巻第14「雄略天皇」 ~ 巻第21「用明天皇」&「崇峻天皇」まで。

3) 巻第22「推古天皇」 ~ 巻第30「持統天皇」まで。


要は、3番めの巻第22「推古女帝」から、統一独立国家「大和」の歴史がはじまったために、編纂担当者が変わり、表記基準が異なっています。

ちなみに、ご参考までに記しておきますと、2番めの巻第14「雄略天皇」の御世においても、古代史の転換点でしたので類似します。

「大泊瀬幼武天皇」(おおはつせの わかたけの すめらみこと)こと「雄略天皇」は、『日本書紀』の資料が少なかった前半期の各天皇紀のなかでは、最も分量が多く記されています。

“大泊瀬幼武天皇”(雄略天皇)が“海人族”にかかわることは、古くからの港などを意味する「大泊瀬」という諡号(しごう)からもご理解できるのではないでしょうか。

雄略天皇については、九州(熊本)と関東(埼玉)で“ワカタケル”の銘が印刻された剣が出土しています。

また、1世紀ほど続いていたシナへの朝献を打ち切ったのも、“讃、珍、済、興、武”の「倭の五王」のうち“武”に比定される雄略天皇だとされ、重要な業績を残した大王(天皇)です。

ちなみに、『日本書紀』のなかで、いちばん多い分量で記される天皇は、当然ですが、巻第29の第40代「天武天皇」(下巻)です。「壬申の乱」が記される巻第28の「上巻」を加えるとダントツの分量です。




2、欽明天皇の“皇子”たち

巻第19に記される第29代「欽明天皇」も重要な“スタンス”が認められます。

なぜなら、『日本書紀』は、「欽明天皇紀」から書きはじめられたともいわれているからです。

実際、「欽明天皇紀」には、第29代といった途中にもかかわらず、「他のところもこれと同じである」といった『日本書紀』全体の読み方を示唆する一文があります。

それもそうですが、欽明の“皇子”(皇女)は、立て続けに4人も天皇になっています。

しかも、そのうち「敏達天皇」と「推古天皇」は、ご夫婦です。

4人の“皇子”(皇女)のご即位の順番は、第30代「敏達天皇」、第31代「用明天皇」、第32代「崇峻天皇」、第33代「推古天皇」と、記されています。

このうち、敏達天皇を除けば、蘇我氏の娘たちが生んだ天皇です。

つまり、敏達天皇と推古天皇は、母親違いの“兄妹”でありながらご夫婦なのです。

実際のところは、「倭畿合併」による“政略結婚”の可能性が高いでしょう。

それを『日本書紀』は、“万世一系”ゆえに、いずれも「欽明天皇」の皇子また皇女として記したようです。

通常、このような継承はありえないためです。

それは、本来の和風諡号が異なることからもみえてきます。

第28代「宣化天皇」の娘「広姫」から生まれた敏達天皇は「渟中倉太珠敷天皇」(ぬなくらの ふとたましきの すめらみこと)と申し上げます。

一方、蘇我馬子の姉「堅塩姫」(きたしひめ)から生まれた「用明天皇」と「推古天皇」は、それぞれ「橘豊日天皇」(たちばなの とよひの すめらみこと)、「豊御食炊屋姫天皇」というように“豊”がつけられています。

そして、馬子の妹の「小姉君」(おあねのきみ)から生まれたとされる「崇峻天皇」は、上述の「大泊瀬幼武天皇」(雄略天皇)やその孫「小泊瀬稚鷦鷯天皇」(武烈天皇)に似た「泊瀬部天皇」(はつせべの すめらみこと)とこれまた系統が異なるようです。


『日本書紀』が、この皇子たちにかぎらず他の皇統においても、“万世一系”かのように操作した疑いはぬぐいきれません。

逆の見方をすれば、『日本書紀』は主な豪族たちすべてを歴代天皇の「皇子」に連なる一族として記しました。

それゆえ、武内宿禰や蘇我氏を除いて、どの豪族の王が天皇になっても“万世一系”が成り立つように工夫しています。


では、なぜ欽明天皇の“皇子”(皇女)は次々と天皇になったのでしょうか。

それは、九州「倭国」と本州「畿内国」の合併のさいに、両国の王たちを“万世一系”としてつなげたために、いずれも欽明天皇の皇子(皇女)として一つにまとめたのだといえます。

もっとも、歴史過程をみれば、九州(倭国)を出自とする“初代「神武天皇」”のモデルとなった実在の人物の子孫が、両国の王統を継いできたと考えれば、いずれでも、たしかに“万世一系”といえなくもありません。


お話は変わります。

くだんの「欽明天皇」は、和風諡号を「天国排開広庭天皇」(あめくに おしひらき ひろにわの すめらみこと)と申し上げます。

この意味は、重要です。

なぜなら、“九州倭国を排して、統一日本をつくった天皇”という意味に読めるからです。

解説をします。

「天国排開広庭天皇」の「天」(あめ)は、九州倭国王「阿毎多利思比孤」の“阿毎”(あめ)です。

なので「天国」(あめくに)というのは、九州倭国を意味します。

「排」は、そのまま“排す”です。

「開広庭」は、全国を“統一大和”として広く庭(領土)として開いたことをあらわします。

欽明天皇の在位は、539年~571年です。

この御世に、九州「倭国」の“独立”が模索され、畿内国(弟)との合併による“統一独立国家”「日本」にむけた計画や交渉が進んでいったのではないでしょうか。


ちなみに、『日本書紀』がそのようなウラ事情を書き残すことはありません。

なぜなら、九州「倭国」をはじめ、全国各地の国々や邑々の存在を消し去り、最初からの“統一独立国家”「大和」として編纂したからです。

ただし、『日本書紀』の案外とまじめなところは、本当の歴史を残したいという強い思いが要所要所で散見できることです。

事実と異なる“作文”をやむをえずしなければならない部分は、読者が“疑問”を感じるようにあえ常識的に考えればありえないといった表現をしています。

のちの人が疑問を抱き、よく考えれば“真相”がわかるように工夫されているのです。



3、武内宿禰と蘇我本宗家

次に、武内宿禰と蘇我氏との関係です。

武内宿禰は、第12代「景行天皇」にはじまり、成務、仲哀、神功、応神、仁徳と、5代(6代)もの天皇に仕えたことが記されています。

そのため、歴史家のなかには、“架空の人物”だとする人がいます。

それはありえません。

第8代「孝元天皇紀」に、武内宿禰の祖父は皇子の「彦大忍信命」(ひこふつおしの まことの みこと)であると記されていることもあって、あまりにも存在期間が長いので、理由を理解できず、“架空”とかってにとらえたのかもしれません。

事実は、先の記事に書いたとおりです。

つまり、「武内宿禰」という呼称は、個人の名前ではなく、「建」(武)を出身とし、北部九州を支配した“九州王”(その祖霊)を意味します。

そういった立場の人物のことです。

実際は、「皇祖皇太」にも匹敵する人物(大王)なのですが、蘇我氏の祖でもあり、“天皇”とは記せない事情があって、“大臣”(首相)や“忠臣”として記されています。

3世紀の武内宿禰は、「神功皇后」(台与)と「応神天皇」を旗頭に、北部九州連合を率いて“大和帰還”と記される「東征」を行ない、初代「神武天皇」の実在のモデルの一人となったほどの人物です。

くわしいご説明は省略いたしますが、大阪にある「住吉大社」は、古代博多湾岸にあった日本第一宮「住吉神社」を出発点とすることからも、そういえます。

重要なのは、“九州王”を意味する「武内宿禰」から「蘇我氏」(ほか)がはじまっていることです。

次のような系図になります。


「武内宿禰」→「蘇我石川宿禰」→「蘇我満智」→「蘇我韓子」→「蘇我高麗」→「蘇我稲目」→「蘇我馬子」→「蘇我蝦夷」→「蘇我入鹿」(絶)

ちなみに、なぜ「韓子」や「高麗」といった人物がいるのかというと、当時、九州「倭国」の領土だった半島に派遣され、任那などを治めていた時期があったからです。

それが、第26代「継体天皇」が半島の領土を百済に割譲してしまったために帰国し、第28代「宣化天皇」の御世から急に蘇我氏(稲目)が「大臣」(おおおみ:首相)として『日本書紀』に記されるようになった理由だと考えられます。


さて、そのような海外経験もあって、九州「倭国」と本州「畿内国」(日本)が合併したときの蘇我本宗家の盟主が、稲目の子の「蘇我馬子」です。

“九州王”を意味する「武内宿禰」に続く系譜であることからも、ときの「蘇我馬子」が九州倭国王“阿毎多利思比孤”か、その重要な関係者であってもまったくおかしくはありません。

馬子は、当時、最先端だった仏教への造詣も深い知識人で、大臣(首相)と記されるほどの実力者だったことは、記紀の記述からも明白です。

実際、当時の実権は、推古女帝ではなく、また馬子の業績を奪い“悪者”にするために作られた“厩戸皇子”(うまやどのみこ)でもなく、蘇我氏(三代:馬子、蝦夷、入鹿)にありました。


なぜ、『日本書紀』が、「厩の戸にあたられた拍子に難なく出産された」とか「生まれてすぐにものを言われた」とか、「一度に十人の訴えを聞かれても、誤まられなく…」とか、ありえないことを記したのかというと、常識的に考えれば“実在”ではないことを察してもらうようにしたためです。

では、厩戸皇子は、本当はだれなのかというと、“厩戸”は「馬子」とも読めるように工夫されていることからも、蘇我馬子のこと(業績)だと示唆しているのです。

そのため、馬子と同時代の「倭国」を記したシナの正史『隋書』に、「その倭王の姓は阿毎…」と記される「阿毎多利思比孤」(日出ずる処の天子)は、600年以前に“冠位十二階”を定めていたことも記されていることから、実は「蘇我馬子」だったという推論は、その重要な関係者だったことをふくめて充分になりたちます。

付記すれば、『新唐書』に、古の倭王は「筑紫城に居す」と記されていることからも、九州「倭国」の存在はあきらかです。















「仲哀天皇」は伊都国王
2021.04.15
 
『日本書紀』を解き明かすには、「編纂方針」と「表記基準」を知ることが必要です。

くわしいお話はともかく、初代“神武天皇”にはじまる古来からの“万世一系”による“統一独立国家”「大和」を「編集方針」としたのが『日本書紀』です。

そこには、“編集方針”ゆえにつくられた“ウソ”も記載されます。

ですが、できるだけ史実に基づいて記そうとされていて、“ウソ”を記す場合は、“荒唐無稽”なありえないエピソードなどで常識的に考えれば“作り話”だとわかるように工夫しています。

いずれにしても、最初からの統一独立国家“大和”として描いたために、畿内国(大和)以外の古来からの国々の存在は消され、各国の王たちもいくつかは、“万世一系”の皇統に組み込まれてしまいました。

近江または越を出身とする「継体天皇」もそのお一人です。

ですが、消された国の代表格はなんといっても九州「倭国」で、その王統も“万世一系”の皇統の大半を占めています。

なぜなら、初代“神武天皇”は、ご存じのように九州を出自とするからです。

さらには、7世紀初頭に、九州「倭国」の主導で、“小国”(弟国)の本州「畿内国」と合併することで、日本国こと「統一大和」がはじまったからです。

九州倭国王“阿毎多利思比孤”(あめの たりしひこ)大王は、なぜ自国をなくしてまで本州「畿内国」に吸収合併させ「日本国」を誕生させたのでしょうか。

答えは、シナの冊封下(属国)から脱却して独立するためです。

それまで、博多湾岸の「奴国」(なこく)をはじめ、邪馬台国で知られる北部九州「女王国」や、その後の九州「倭国」は、6世紀までシナの冊封下にありました。

そのシナの国力低下と、日本国(九州「倭国」)の繁栄によって、“国体”「水瓶宮」の日本らしく「対等」の独立国家建設をはかったためです。


シナの正史『隋書』には、次のように記されています。

●『隋書』「倭国伝」より抜粋

開皇20年(600年)、倭王の姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩雞弥(あほけみ:大王)というもの、使いを遣わして闕(けつ:王宮の門)にいたらしむ。
(中略)
使者言う、「倭王は、天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。(中略)日出ずれば、すなわち理務(政務:まつりごと)を停め、我が弟に委ねん」と。


この一文は、歴史学者でさえ、自国日本を貶めるために、“わけのわからない未開の文明国だったので、後年、近代的な律令国家を築く必要があった”などと、バカげた解釈をしています。

そうではないことは、続けて読めばわかります。

なぜなら、『隋書』には、九州倭国王がすでに「冠位十二階」を定めていたことが記されているからです。

“未開の文明国”どころではなく、九州倭国王「阿毎多利思比孤」は、今なら冊封下から離れても仕返しはされないと、隋の国力が衰退していたことを見抜いた「国際情勢」の把握と、「外交感覚」を発揮して九州「倭国」の独立をはかったのです。

事実、倭畿合併後の607年、阿毎多利思比孤は、隋の2代目「煬帝」(ようだい)に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」と、対等の立場で事実上の“独立宣言書”を送り、その直後に隋は滅亡しています。


お気づきでしょうか。

「日出ずれば…弟に委ねん」というのは、九州「倭国」と本州「畿内国」が合併して「日本国」が誕生すれば、「倭国」の政務(まつりごと)は「畿内国」(弟国)に委ねて独立するという意味です。

なぜ、「畿内国」を“弟(国)”と呼んだのかといえば、九州から出発した“初代「神武天皇」”の実在のモデルとなった人物(王)たちが、かつて本州近畿や畿内国に「東征」をしていたからです。

阿毎多利思比孤は、合併の直前に、律儀にも隋の高祖「文帝」に使者を送り、“仁義”をきったあと、ご丁寧にも“独立”後にまた使者を送って、「日出ずる処の天子」として「つつがなきや」とあいさつをしているのです。

このときの2代目「煬帝」の返答は、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者あり」でした。

ですが、翌年には使い(文林郎 裴清)を送ってきて、以後、隋は滅び、交流は絶えます。


九州「倭国」の主導によって「統一大和」(大倭)が誕生したのは、『日本書紀』でいえば、「推古女帝」の御世でした。

『日本書紀』は推古を天皇と記しましたが、実質的には九州倭国王だった「蘇我馬子」(蘇我本宗家)が実権をにぎっています。

それは、「推古天皇」の和風諡号「豊御食炊屋姫天皇」(とよ みけ かしきやひめの すめらみこと)からも読みとれます。

“九州(豊)から飯を食わしてもらった天皇”、もしくは“九州(豊)の飯炊き天皇”というほどの隠れた意味であることからも、天皇の諡号(しごう)らしくなく、むしろ推古女帝は、300年ほど前に共立されて“倭国大乱”を治めた「卑弥呼」のケースと同じように、倭畿両国の“和の象徴”として準備されていたものです。

なぜなら、蘇我馬子(そがの うまこ)、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と続いた蘇我氏三代の大王を、『日本書紀』は歴代「天皇」として記すことができないからです。

ご存じのように、のちに天智天皇となった「中大兄」(なかのおおえ)、ならびに天皇を傀儡(かいらい)にして時の権力者となった藤原氏の祖「中臣鎌子」によって、蘇我入鹿は暗殺(乙巳の変:645年)され、蘇我本宗家は滅びています。

彼らは、九州「倭国」に政権を握られ、“クーデター”によって政権奪取を図ったのです。

結局、後年、藤原鎌足(中臣鎌子)の子 藤原不比等(ふじわらの ふひと)が編纂に関与した『日本書紀』は、“死人に口なし”とばかりに、蘇我氏を“悪者”かのように記しました。

要は、父親(藤原鎌足)の正当化をはかったのです。

さらには、馬子の偉大な業績も抹消し、“厩戸皇子”(うまやどのみこ)のものとして書き換えてしまいます。


このような事実を知る当時の識者(仏教関係者)は、滅ぼされた蘇我氏の業績と遺徳をたたえ、怨霊を鎮めるために、「聖徳太子」と呼ぶようになりました。

それを“厩戸皇子”のことだと勘違いした人々によって、今日に至っています。

『日本書紀』(原文)には、どこにも「聖徳太子」とは記されていません。


以上は一例ですが、『日本書紀』は、当初からの統一独立国家「大和」一国史として記したために、九州「倭国」のことをはじめ、本当の歴史は残したくても記せずに、やむをえず消してしまった出来事がいくつかあります。


そんなこんながわかると、次のことが明らかになります。

当初からの統一独立国家「大和」とするために、実際の出来事を参考に、まず“初代「神武天皇」”による「東征」を描きました。

参考とした出来事のひとつは、弥生時代の初期に遠賀川河口域に発祥した日本の「稲作」を伝えた「饒速日命」(≒大已貴神=大国主大神)の日本全国への“東進”と“古代国づくり”です。

彼らは、『日本書紀』に“国譲り”をした神(古く高貴な人物)として記されています。

ですが、「神武東征」のモデルとなった代表格は、3世紀に“大和帰還”という名の「東征」を行なった、『日本書紀』でいう第15代「応神天皇」であり、事実上の「武内宿禰」(たけの うちの すくね)です。

「神宮皇后紀」の39年と40年に、「魏志倭人伝」(『魏書』)が引用されていることから、同時代の「仲哀天皇」、そして妃の「神功皇后」、皇子の「応神天皇」、また「武内宿禰」は、3世紀の人物として記されていることがわかります。

3世紀の九州「倭国」といえば、ご存じ倭の女王「卑弥呼」や“男王”また2代目「台与」の時代です。

では、「仲哀天皇」や「神功皇后」、また“蚊田”(福岡県糟屋郡宇美)でお生まれになったと記される「応神天皇」、さらには現在の佐賀県(武雄)を出自とする「武雄心命」(たけおごころの みこと)を父にもつ「武内宿禰」は、倭の女王「卑弥呼」や「邪馬台国」が記される「魏志倭人伝」には、どのような人物として記されているのでしょうか?


重要なサジェスチョン(示唆)を、ひょんなことからいただきました。

それもあって、「魏志倭人伝」に記される「伊都国」こと現在の糸島市(福岡県)にある「宇美八幡宮」(長野八幡宮)を、この4月に訪れました。

「魏志倭人伝」に「津に臨みて…」(港がある)と記される九州北岸部の「伊都国」は、「世々王あり」と記され、諸国を検察する「一大卒」が置かれ畏れはばかられていた、いわゆる当時の女王国の“政権都市”です。

現在でいう“首都”にあたり、倭の女王「卑弥呼」が都とした「邪馬台国」は、“御所”(京都)のようなものです。

糸島の「宇美八幡宮」には、「上宮」と「本宮」があるのですが、「上宮」について案内板には次のように記されていました。


●上宮
「祭神は仲哀天皇、当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、武内宿禰に命じ、香椎に在る所の先帝のお棺を、当山に収めて築陵したとある」


『日本書紀』に「9年春2月、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で亡くなられた」(神功皇后紀)と記される福岡市東区の「香椎廟」(香椎神宮)ですが、お棺は後日、「伊都国」に移され、糸島市の「宇美八幡宮」(長野八幡宮)の「上宮」に祀られているというのです。


また、『日本書紀』には次のように記されています。


●『日本書紀』「神宮皇后紀」より抜粋

「(神功)2年、(仲哀)天皇を河内国の長野陵に葬った」


当初、香椎廟(香椎神宮)に葬られていた(『日本書紀』ではこっそりと豊浦宮に仮葬されたとも)仲哀天皇の遺骸ですが、その後、神功天皇の2年に“河内国”の「長野陵」に葬ったというのです。

どういうことなのかと思っていたら、案内板からナゾが解けました。

仲哀天皇のお棺は、香椎から糸島市の「宇美八幡宮」がある長嶽山(ながたけやま)に築陵された「上宮」に移されますが、この地が『日本書紀』に記される「長野陵」だったのです。

なぜなら、宇美八幡宮は「長野八幡宮」といわれていたこともそうですが、糸島半島に流れ込む「長野川」から参道がはじまっているからです。


長野川中流域の船だまりに接する十数段の広い階段から「宇美八幡宮」の参道ははじまっています。(階段より撮影、うしろは長野川で「船だまり」です)


博多湾の東端に位置する香椎と、西端部の糸島半島、その西の付け根部に流れ込む長野川は、さほど遠くはありません。


ということから、結論を書きますと、「仲哀天皇」は「魏志倭人伝」に記される卑弥呼また台与の時代の「伊都国王」だった可能性が高まります。

「卑弥呼」が死んで“男王”が立つも治まらず、卑弥呼の一族の少女13歳の「台与」が二代目女王を継ぎます。

この“男王”は、仲哀天皇こと「伊都国王」を殺害した「狗奴国」(くなこく)の官「狗古智卑狗」(くこちひこ)か、もしくは狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)で、『日本書紀』でいえば、神功皇后の時代に実権をにぎっていた「武内宿禰」です。

断定はいたしません。

ですが、「魏志倭人伝」によれば、「狗奴国」は倭の女王に属さず、むしろ戦争を仕掛け、劣勢になった邪馬台国連合(伊都国側)は、「魏」に救援を頼む使者をおくっていたことが記されています。

しかし、それに応えて魏の使者が伊都国に来たときには、「卑弥呼、以(すでに)死す、冢をつくる」と記されていることから、「狗奴国」の勝利はほぼ確定していたのでしょう。


ご参考ながら、「武内宿禰」という呼称は、人名(固有名詞)ではありません。

「武」は、武力を象わすこともそうですが、“九州”また“筑紫”や“肥国”(佐賀の一部と熊本:狗奴国)などを意味します。

『古事記』では「建内宿禰命」(たけの うちの すくねの みこと)と記されます。

国産みのとき、肥国(佐賀の一部と熊本=狗奴国)は「建日向日豊久士比泥別」(たけ ひむか ひとよ くじひねわけ)と記され、熊襲国は「建日別」(たけひわけ)と記されています。

「建内宿禰命」の“建”(武)はこの地を出身とする人物を意味します。

彼は、3世紀には“筑紫”(ちくし)にも進出しています。

「宿禰」は、“主なる祖霊”を意味しますので、結局「武内宿禰」という呼称は、北部“九州王”をさすことになります。

彼こそが、「仲哀天皇」(伊都国王)を殺害し、“男王”として立った人物です。


「東征」した“神武天皇”の実在のモデルの一人となったこともあって、かなり荒っぽい(勇猛な)人物だったらしく、半島の『三国史記』には、次のように記されています。

249年もしくは253年の出来事です。

倭の使節をもてなす席上で、王族でもあり名将でもあった「干老」は、酒に酔ったのか、「そのうちに倭王は塩汲み奴隷にし、妃は飯炊き女になるだろう」と語った言葉が、倭王(男王)に伝わります。

怒った倭王は、半島に出兵します。

これが『日本書紀』でいう、神功皇后の“三韓征伐”のお話になったのでしょう。

倭軍の来韓に、「干老」はすべて自分の責任として幼い息子を連れて倭陣に出向き、謝罪をします。

ですが許されず、「干老」は火炙りの刑に処されたエピソードが『三国史記』に記されています。


そんな“男王”こと「武内宿禰」は、3世紀中頃に二代目女王となった13歳の「台与」(ほぼ「神功皇后」)を操るくらい朝飯前でしょう。

そして、九州「倭国」の事実上の支配権を確立した3世紀後半から末にかけて、彼(男王)は「神功皇后」と「応神天皇」を旗頭に、北部九州連合を率いて『日本書紀』に“大和帰還”と記される近畿一円への「東征」を行なったようです。


※注:
「宇美八幡宮」の案内板「本宮」には、「第16代仁徳天皇の治天10年(938年)、平群木兎の宿禰の子 博公を神官として、この霊蹟に神社を建立し気比大神 天日鉾尊を祀らせたのが本宮の起源である。」と記されています。
これは、西暦ではなく、神武天皇のご即位を元年とする「皇紀」のことで、西暦278年にあたります。
また、「長嶽山古墳群」の案内板では、13基ある円墳のうち、「上宮」がある1号墳のみが「帆立貝式古墳」としていますが、ありえません。
「上宮」は石祠になっていますので、これは後年つくられたものです。
仲哀天皇のお棺を葬った「長野陵」そのものは、古墳時代に崩されたか『日本書紀』が普及する以前に、別の人物の墳墓につくり替えられたようです。
それを再度、当地に残る伝承と『日本書紀』から1号墳上を「上宮」として、仲哀天皇をお祀りになったものだと思われます。
















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