逆説の邪馬台国-論評編
2021.02.28
 
「三数思想」によるこれまでにない“邪馬台国論”は、当ブログに連載した「逆説の邪馬台国」シリーズをご参照ください。

ここでは多彩な「邪馬台国論」について、かってに論評してみます。


邪馬台国の所在論争は、代表的には「近畿説」「四国説」「九州説」くわえて「北陸説」など多々あります。

このなかで、比定地が分かれるのは「九州説」です。

たとえば、次のようにです。

1、九州王朝説で知られる「古田説」(『「邪馬台国」はなかった』)。

2、“朝倉”をメインとする「安本説」(『「邪馬壹国」はなかった』)。

3、“瀬高”(旧山門郡)とする「長浜説」。

4、古代史は豊前(豊国)で起きたとし福岡県の“田川”とする「福永説」。

など、それぞれ多数あります。


ですが、通称「魏志倭人伝」のみならず、陳寿が参考にした“原典”が残る『翰苑』(かんえん)や、古代シナの各正史、また3世紀前後の考古学を含めた史跡や、当時のインフラ状況など、「多彩な観点」から鋭意検証していくと、案外と答えはしぼられてきます。

それを、「魏志倭人伝」の記述が(1字1句)100%正しいとしたり、考古学だけにたよったり、1つ2つの歴史資料に偏って“最終結論”などとすると、ほかのデータを捨象してしまい、事実がみえなくなります。

ちなみに、“邪馬台国”の原点(馬臺)が記される『翰苑』は、唯一、福岡の「太宰府天満宮」に叙文と第30巻のみが残ります。


賢明な皆さまのご意見があるのは承知で、以下、かってに論評してみました。


畿内説

「畿内説」の勘違いは、あえていえば3世紀末以降の“邪馬台国”を、2~3世紀の纏向(まきむく)だとして、意図的にこじつけているといってもよく、卑弥呼の時代ではありません。

なぜなら、2~3世紀末頃までの奈良盆地は、“饒速日命”(にぎはやひ の みこと)や“大国主命”(おおくにぬし の みこと)によるいわゆる「本州大国主連合」の“集会地”だったとおおむねながらいえるからです。

※『日本書紀』の「神代」(かみよ)また初代「神武天皇紀」に記される「大国主命」また「饒速日命」と表記することで系譜を明らかにしました。

その事由は、『日本書紀』に秘められた“史実”(年代:二重構造)を見抜けはご理解できます。


四国説

四国は、日本の“原点”にもかかわる古い歴史や由緒また遺跡などが集中するために、それを「2~3世紀の“邪馬台国”だ」と信じ込んでおられるかたが多いのです。

ですが、それは「日本」また「天皇」にたいする冒涜につながりかねないことを悟らなければなりません。

『日本書紀』をよく読めばわかりますが、“統一独立国家”を主題に記されています。

ところが、卑弥呼のいわゆる“邪馬台国連合”は、呉(ご)につうじる「狗奴国」(くなこく)の侵略から守るためもあったとはいえ、魏(ぎ)の冊封下にあった“属国”といえる立場だったからです。

つまり、畿内説や四国説は、日本全体(大和)が古代シナの“属国”だったという、誤った理解を我知らずとも主張していることになります。

そうではなく、阿波国をはじめとした四国は、日本独自の“縄文文化”を引き継いでいるのであって、“邪馬台国”のようなシナの冊封下にあった“属国”とは根本的に文化基盤が異なります。

日本古来の純粋伝統を残すのが、四国や阿波国といっても過言ではありません。


北陸説

記紀に記される北陸(越前)また近江を出身とする“天皇”といえば、「男大迹王」(おほど の おおきみ)こと「継体天皇」で知られます。

ところが、継体天皇は、5世紀まで半島南端部にあった邪馬台国以来の倭国の“領地”を、6世紀初頭に百済(くだら)に割譲しています。

その百済が滅ぼされ、復興するために「中大兄」(なか の おおえ:のちの天智天皇)は、豪族らを無理やりに出兵させた「白村江の戦い」で、大敗北を喫することになります。

その結果、太宰府市の「水城」(みずき)に大防塁などを築くわけです。

それはともかく、邪馬台国の当時から半島南端部に領地があったことは、「魏志倭人伝」などからも読みとれます。

その領地を、いともかんたんに百済に割譲した継体天皇の「北陸」が、かつての邪馬台国とは思えません。

重要な先祖の土地をかんたんに譲ることができたのは、北陸が「邪馬台国」とは関係がなかった証拠です。


九州説

次に比定地が多い問題の「九州説」です。


古田説

かつて『「邪馬台国」はなかった』という書籍を上梓した、九州王朝説で知られる古田氏は、後年、あのタイトルは編集者が(売らんかなのために?)プッシュしたものと述べています。

通称「魏志倭人伝」の著者「陳寿」(ちんじゅ)以前も以後も、古代シナの歴史家たちは、正しく“臺”(台)の字をもちいて歴史書に「邪馬台国」と記しており、ときには「邪靡堆」とも記しています。

そういうこともあって、「邪馬壹国」(邪馬壱国)という表記のほうが、陳寿の“偽造”です。

ただ、古田氏の“九州王朝”という名称はともかく、「九州倭国」は6世紀末まで間違いなく存在していました。

本州の「日本国」(畿内国)とは別に、日本列島には九州「倭国」など複数の国邑(こくゆう)が存在していたのです。

にもかかわらず、“統一独立国家”を掲げた「『日本書紀』史観」に惑わされると、日本には大和一国しかなかったと思い込み、正しい歴史がみえなくなります。

大陸の「歴史書」のすべてが正しいとはいいませんが、7世紀初めに小国「日本」に自ら合併することを仕向けた「九州倭国」は、それによってシナの冊封下から離脱することに成功しました。

それが、九州倭国王「阿毎多利思比孤」(あめ の たりしひこ)大王(おおきみ)が隋の煬帝(ようだい)に607年に送った「日出る処の天子…」という、名実ともの「日本独立宣言書」です。

合併後は一時「大倭」と称し、それがのちに「大和」(やまと)に変わります。

シナの歴史書には、「その王(倭国王)の姓は阿毎氏」(あめ、あま)と記され、“いにしえの倭王”は「筑紫城に居す」とも記されています。

畿内説の学者らは、これらを無視するどころか、意図的に“偽書”として封印するなどして、大和こそが“邪馬台国”だと主張することによって、日本を中国の属国とする“歴史的根拠”にしています。


安本説

福岡県朝倉(夜須:「天の安河」の“やす”)説をとるのは、古田氏に反論し、『「邪馬壹国」はなかった』を著した安本氏です。

事実、「邪馬壹国」(邪馬壱国:やまいこく)というのは、陳寿の“愛国心?”によるねつ造で、邪馬台国などのように「臺」(台)で呼ぶのが歴史記録からも正解です。

安本氏は、かつての朝倉郡にあった現・筑前町(旧三輪町)の「大已貴神社」(おおなむち じんじゃ:地元では「おんがさま」「おおみわ じんじゃ」)を中心とした朝倉市周辺の地名が、類似の位置関係で奈良の三輪山をご神体とする「大神神社」(おおみわ じんじゃ、おんがさま)を中心に、“大和朝倉”の地名など、周辺に多々同じ地名があることから、“邪馬台国東遷説”を述べました。

ただ、私見では、それが本当に3世紀末の“邪馬台国”だったのか、それとも「九州倭国」が「日本国」と合併した6世紀末~7世紀初頭に、“倭国東遷”によるものだったのか、疑問は残ります。

もっとも、「魏志倭人伝」に記される邪馬台国「7万戸」を信じるなら、筑後川周辺域の筑紫平野を一つにまとめた“邪馬台国連合”しかありえませんので、その“都”が東端の朝倉近辺にあったというのは、納得できなくもありません。


長浜説

“邪馬台国”は「山門」(やまと)であり、現・みやま市の「瀬高」(旧山門郡)だったとする長浜説は、江戸時代の新井白石が先鞭をつけた説ながら、最近、信奉者がみられます。

ですが、「魏志倭人伝」の記述と矛盾するために、決定的に誤りです。

旧山門郡は、有明海沿岸部(当時の海岸線はもう少し内陸部にありました)に位置し、熊本とのほぼ県境にあるために、「邪馬台国」に比定するのは非合理的です。

この地域なら、魏志倭人伝に記される当時は困難だった「陸行1月」(河川を含む)をとる必要がなく、九州西岸を南下して、天草あたりからUターンするように有明海に入り込めば、船で直接いけます。

もし、呉とつうじる「狗奴国」(熊本県菊池界隈)があり、危ないために九州北岸から陸行1月をかけるしかなかったとしても、やはり「魏志倭人伝」の記述に矛盾します。

なぜなら、邪馬台国の北に「伊都国」(いとこく)や「奴国」(なこく)また「不弥国」(ふみこく)があったと記されるのはともかく、邪馬台国の南に「旁余の諸国」(20か国ほど)があったと記されていることとマッチしません。

“邪馬台国連合”に属さず敵対していた「狗奴国」は、旧山門郡と丘陵(山)をはさんで隣接しており、南にあったと記される「旁余の諸国」が存在できないからです。

また、敵国との最前線に“女王の都”をおくことは、非常識でしかありえません。

平和な江戸時代の朝鮮通信使ではあるまいし、地理や地政学、また当時のいつ戦乱が起こるかわからない時代状況を理解していない“平和ボケ”した解釈です。



福永説

『古事記』また『日本書紀』に記される古代の出来事を、ほぼすべて豊前(豊国)界隈で起きたとし、筑豊の田川を“邪馬台国”とする福永説に関しては、省略させていただきます。

地元に迎合した荒唐無稽な部分が多いためですが、一部に事実が含まれるのは認められます。


                       *


さて、他人さまの論評ばかりで「おまえはどうなんだ」といわれそうです。

当ブログの「逆説の邪馬台国」シリーズをご一瞥(いちべつ)ください。


結論的には、攻められにくい河川の上流域に立地し、古くからの歴史的要衝にあり、地政学的条件をそなえた“権威”ある「邪馬台国」(都)ゆえに、卑弥呼を女王に共立できました。

近辺には、後年、「大宰府政庁」(太宰府市)が置かれたり、『新唐書』にいにしえの倭王は「筑紫城に居す」と記され、“筑紫”の地名が残る「筑紫野市」にかけての宝満山(ほうまんざん)の山裾をメインとした地域で、南は朝倉にいたる「筑後平野」の北東部奈辺が、もっとも矛盾が少なく、「魏志倭人伝」の記述をはじめ、ほとんどの整合性がとれます。

此地は、北は博多湾にそそぐ「御笠川」(みかさがわ)の上流域であり、南は有明海にそそぐ筑後川の支流「宝満川」(ほうまんがわ)の上流域でもあるために、福岡平野と筑後平野をつなぐ古来より交通の要衝でした。

両河川を遡上しなければならない攻めにくい上流域にあるというだけではなく、山や丘陵が迫り、防衛にも適した豊かな土地です。


「魏志倭人伝」の記述どおり、北は御笠川によって「伊都国」や「奴国」や「不弥国」にいたり、南は宝満川と筑後川によって、筑後平野にひろがる「旁余の諸国」にいたり、穀倉地の朝倉などをかかえる「台地」部もある“馬臺”と呼べる場所です。

隣接する天山(あまやま)には、徐福につうじる「童男丱女岩」(どうなん かんじょ け いわ)が残るなど、古代シナ語や大陸の情報が伝わっていてもおかしくない地域です。

さらに付記すれば、「白村江の戦い」に負けた翌664年に築かれた巨大な防塁「水城」(みずき)ですが、その下層には倭の五王の時代の5世紀(430年頃)の防塁跡があり、さらに最下層部には卑弥呼の時代の3世紀(240年頃)の防塁跡も確認されています。

このことは、後年7世紀に「大宰府政庁」が築かれるはるか以前から、近辺に重要な“都”があったことを意味します。

つまり、奈辺は、地政学的にも要衝ゆえに、その後も次々と歴史的“都”(都市)が築かれたり、今日も「太宰府天満宮」をはじめ太宰府市街地が広がっています。

歴史的に役目を終え、忘れ去られていたゆえに掘れば、まだ何かがでてくる可能性がある「纒向」とは異なるのです。

前述の「大已貴神社」がある筑前町(旧三輪町)に隣接する「筑紫野市」や「太宰府市」は、古来より連続的に“都”(都市、市街地)です。

また、貿易港「博多湾」を抱える黒田藩と九州一円を治めた江戸幕府直轄地の天領「日田」(ひた)をつなぐ、九州一のにぎわいをみせた市場通り「朝倉街道」の中継地としても、江戸時代をふくめ繁栄していました。

そのために、相次ぐ開発によって3世紀の遺構はすでに破壊され、考古学的な証拠は発掘されにくく“邪馬台国”の痕跡の発見は、ほぼ困難になっているといえます。

逆にいえば、“当たり前”すぎて、あまり人口に膾炙(かいしゃ)されてこなかった地域です。
















対馬の「和多都美神社」
2021.02.11
 
「建国記念の日」の関連で、“豊玉姫”に関する記事です。

初代「神武天皇」がご即位された紀元前660年の旧暦元日を、現在のグレゴリオ暦になおすと2月11日とされます。

これが、かつての「紀元節」、現在の「建国記念の日」なのはご存じのとおりです。

さて、『日本書紀』に記される「神武天皇」(神日本磐余彦天皇:かむやまと いわれびこの すめらみこと)の“母親”は、「玉依姫」(たまよりひめ)です。

“父親”の「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがや ふきあえずの みこと)からみれば、「玉依姫」は“妃”と同時に“叔母”にあたります。

どういうことかというと、葺不合尊の母親の「豊玉姫」は、「玉依姫」の“姉”だからです。

ちなみに、葺不合尊の“父親”は、山幸彦(やまさちひこ)こと「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)です。

なので、初代「神武天皇」からみれば、「彦火火出見尊」と「豊玉姫」は“祖父母”にあたります。

同時に“母親”の「玉依姫」の“姉”でもあるために、「豊玉姫」は“伯母”にあたる関係です。

ややこしいですよね。


この“両玉姉妹”の父は、『日本書紀』(神代:下)では、「海神」(わたつみ)と記されています。

彦火火出見尊は、兄の“海幸彦”こと「火闌降命」(ほのすそりの みこと)に借りた釣針を探して、「海神の宮」に漂りつき、そこで釣針を見つけた縁で、海神の娘「豊玉姫」と結ばれました。

こまかなお話はともかく、「竜」となった姿で葺不合尊の出産を見られた豊玉姫は、育児を妹の玉依姫に委ねて、「海神の宮」に帰ってしまいます。



※昨年2019年の台風によって、海中の第1鳥居は現在、倒壊したままです。


本題です。

北部九州から大陸や半島につうじる玄界灘(げんかいなだ)の要衝に「対馬」(つしま)が位置します。

「対馬国一宮」は、現在、「豊玉姫命」を主祭神とし、合殿を「彦火火出見尊」「葺不合尊」「宗像神」「道主道命」とする「海神神社」(かいじんじんじゃ)とされています。

海神神社は、明治3年の一時期、“和多都美神社”(わたづみじんじゃ)と称されました。

実際の「和多都美神社」は、対馬の「豊玉町仁位(にい)」にあって、海中に続く鳥居が、その美観とともに有名です。

「和多都美神社」のご祭神は、神武の祖父母「彦火火出見尊」と「豊玉姫」です。

実は、こちらが「対馬国一宮」ではないかとされ、“論社”の一つになっています。

「和多都美神社」のウラに磐座(いわくら)があって、“豊玉姫の墳墓”(御陵)のご案内が記されています。

一般には、ここは“墳墓”ではなく、“古い斎場”だとされています。

なぜなら、幕末の対馬藩士で号を“楽郊”(らっこう)と称した中川延良の『楽郊紀聞』に、和多都美宮司に聞いたお話として、「豊玉姫命を仁位の高山に葬った」という記録が残されているからです。



※和多都美神社のウラにある「豊玉姫の墳墓」(御陵)この先は「海宮山」。


いずれにしても、豊玉町仁位でお亡くなりになられたのであれば、奈辺が「海神の宮」である可能性が高いでしょう。

事実、和多都美神社には、“龍宮伝説”が残されています。

今では、“仁位の高山”がどの山なのか不明だそうです。

有力とされるのは、和多都美神社の南方850mほどに位置し、烏帽子岳展望所がある「烏帽子岳」(標高176m)ではないかとされています。

しかし、私見では、“豊玉姫の墳墓”でお参りすると、烏帽子岳だとお尻をむけてしまうことになるために、ありえないでしょう。

そうではなく、和多都美神社のウラ手から入って東北に位置する「海宮山」(標高110mほど)が“仁位の高山”ではないかと考えられます。

“豊玉姫の墳墓”でのお参りは、「海宮山」にむけてすることになるためです。

なので、和多都美神社のウラの“墳墓”は、本来“遥拝所”だったのではないでしょうか。

こういう事例は多くみられます。

山頂や中腹など遠方に「ご神体」や「元宮」また「陵墓」などがあるために、それを望む山裾などの近場に“拝殿”や“遥拝所”が設けられて、“お参り”できるケースです。

事実、“豊玉姫の墳墓”にむかってお参りすると、200mほど先に「海宮山」が位置します。



※和多都美神社の境内、手前の三本鳥居は比較的最近とされ、満潮時にはここまで海水がきます。


複雑な入り江を有する浅茅湾(あそうわん)の北深部、「仁位浅茅湾」に位置する「和多都美神社」は、今でこそ車や観光バスで行けます。

つい最近の昭和40年代になって道路ができたからです。

それまでは、船でしか行くことができない“隠れ家的”な「海宮」でした。

もっとも、対馬においては、古来より船こそが交通手段だったので、道がない入り江の奥は、敵にみつからず、侵入されにくい安全な場所だったといえます。

「仁位浅茅湾」の奥のさらに東の入り江に佇んでいるのが「和多都美神社」です。


海中に第1と第2と2つの鳥居があり、水際に第3鳥居があり、陸に第4第5と2つの鳥居があって、合計5つもの鳥居が本殿にむかって一直線に並んでいます。

これも、初代「神武天皇」の祖父母「彦火火出見尊」と「豊玉姫」をご祭神とし、豊玉姫の御陵が残る由緒ある海宮だからかもしれません。



※付記

『日本書紀』を仔細に読んでいくと“歴史”の二重・三重構造がみえてきます。

たとえば、初代「神武天皇」の“実在のモデル”が、後世の記録に名前を変えて記されているといったことです。

当然、“実在のモデル”の母親や祖母(当記事における伯母でもある「豊玉姫」)にあたる女性も、『日本書紀』の「人代」などからみえてきます。

対馬の「住吉神社」は、『日本書紀』の「神代」に“神武天皇の父親”として記される「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」をご祭神としていますが、そこからも推測が可能です。

一般に「住吉神社」は、“住吉大神”こと「筒男三神」(つつのおさんじん)をご祭神としますが、住吉は“墨江”(すみのえ)とも呼ばれ、“黒殿”(くろどん:黒男)とも称される「武内宿禰」(たけのうちの すくね)にかかわり、本来のご祭神ではないかともくされています。

「神武天皇」の父「葺不合尊」が“神代”における名称で、“人代”においては別の名称の“天皇”や「武内宿禰」にかかわるとすれば、『日本書紀』に3世紀の出来事として記録される「神功皇后」の三韓征伐のおり、ともに対馬を経由して進軍したゆえに、なんらかの由緒が対馬に残るのは当然でしょう。

つまり、3世紀の女性として『日本書紀』に記される「神功皇后」が、もし邪馬台国の2代目女王“台与”(豊)に比定できるとすれば、それは、いろんな伝承から“神代”に記される“豊玉姫”また“玉依姫”とも重なることになります。

ここでは“疑問”にとどめ、こまかな論拠は省略させていただきます。

機会があれば、壮大な『日本書紀』のカラクリを、まとめて提起することがあるかもしれません。













富士山を遥拝-山宮浅間神社
2020.12.28
 
お正月も近いので、日本にお話を戻します。

初夢といえば「一富士、二鷹、三茄子」の順に縁起が良いといわれます。

そこで、静岡県富士宮市にある「富士山本宮浅間大社」(ふじさん ほんみや せんげん たいしゃ)の“富士山元宮”といわれる「山宮浅間神社」(やまみや せんげん じんじゃ)をご紹介いたします。

ここは、「富士山本宮浅間大社」から北に住宅地を抜けた5.5kmほどの閑静な山すそにあります。

「社」(やしろ)はなく、山あいからみえる富士山をご神体として、古くから遥拝されていた場所です。


※山宮浅間神社(遥拝所)からみた富士山


一般に、富士山や「浅間大社」は、「木花之佐久夜毘売命」(このはなの さくやひめの みこと)をご祭神とすることで知られています。

それは、遠方より眺望する富士山が“なだらか”で、“女性的”な印象を与えるからではないでしょうか。

しかし、この浅間大社や富士宮市から近場で見上げる富士山は、決して“なだらか”ではなく、山頂も鋭角な部分があり、富士山に抱く一般のイメージとは異なってかなり「男性的」です。

それもそのはずで、もともとのご祭神は「富士大神」や「浅間大神」(あさまの おおかみ)なのです。

実際、日本の“始原”にもつうじる古くからの「大神」の感じがします。


富士山が現在のような形態になったのは、約11,000年前~約9,000年前の断続的な噴火ののちで、その後、4,000年間ほど穏やかだったものの、約5,000年前から新富士火山としてほぼ現在にいたります。

そして、約3,000年ほど前の縄文時代後期に、4回の爆発的噴火が起きました。

奈辺で生活していた日本原住の縄文人は、そのような富士山におそれを抱き、「あさまの おおかみ」と呼んで崇拝したのかもしれません。

「“あさま”しい」といえば、現代では“ネガティブ”な意味で使われますが、古文ではそうとはかぎらず両方の意味をもちます。

それは、“予想外”や“驚くべき”といった日常ならざる形容です。

推測ですが、古代の人々は、ずば抜けた「富士山」の威容に、そのような“あさま”しさ(驚き、畏敬)を感じ、「あさまの おおかみ」(浅間大神)と呼んだのかもしれません。

もちろん、漢字は当て字です。

『続日本紀』に記された「富士」の表記が一般的になったのは、江戸時代からで、それ以前は『万葉集』では「不二」や「布士」などさまざまに表記され、『竹取物語』では「不死」、また「常陸風土記」では「福慈」といったように必ずしも定まっていませんでした。

いずれにしても、富士山本宮浅間大社の元宮「山宮浅間神社」がある富士宮市から見た「富士山」は、どちらかといえば、まさに“あさま”しく、雄々しい姿をしています。

それが、鎌倉幕府を開いた「源頼朝公」や甲斐の「武田信玄公」、また江戸幕府をひらいた「徳川家康公」が日本一の富士山を“ご神体”また本来の“ご祭神”とする「富士山本宮浅間大社」を尊崇し、数々の寄進を行なった理由かもしれません。

たとえば、武田信玄公は「流鏑馬」(やぶさめ)をご寄進し今でも伝統行事として行なわれています。

また、富士山頂を所有していた徳川家康公は、その山頂を「富士山本宮浅間大社」に寄贈し、いまや「浅間神社」が山頂に建っているのはご存じのとおりです。



●ご参考「山宮浅間神社」説明板



山宮浅間神社(やまみや せんげん じんじゃ)は、富士山そのものを祭神として祀られた場所と言われていています。境内には社殿がなく、富士山を直接仰ぎ見る遥拝所(ようはいしょ)があります。拝殿や本殿が存在しないのは、富士山体を遥拝する場所として、その祭祀(さいし)の形を留めているものと推定されています。遥拝所には、南北15.2m、東西8.4mにわたり 30~40cm程度の溶岩で築かれた斎場となる石列(れきれづ)があります。この石列は玉垣(たまがき)で囲まれ、さらにその周囲には45cm四方を区画する溶岩を積み上げた石塁(せきるい)が見られます。
神社の創建年代は不詳ですが、富士山本宮浅間大社伝によれば、山宮に遷(うつ)される前、山足の地へ祀り、その後、山宮の地に祀ったと伝えています。
かつては、浅間大社の春秋の大祭前日に、浅間大社の祭神が山宮を訪れる「山宮御神幸」(やまみやごしんこう)が行われていました。この行事に使用された行路を「御神幸道」(ごしんこうどう)と呼び、道筋の50丁(1丁=約109メートル)の間には、1丁目毎に目安の石碑が建てられていました。(現在は4基だけが残されています。)
また、「山宮御神幸」の祭神は、鉾に宿り山宮へ向かったことから、御神幸の途中休憩する際に鉾を置く「鉾立石」(ほこたていし)が設けられました。鉾立石は道筋に幾つかあったといわれますが、現在は浅間大社楼門前と山宮浅間神社の参道に残っています。
拝殿や本殿が存在しない山宮浅間神社ですが、境内には籠屋(こもりや)と呼ばれる建物があります。かつて神事の際に浅間大社の神官らが参籠(さんろう)したとされるもので、現在の籠屋は、昭和8年に建築されたものです。











「“逆説”の邪馬台国」をUP
2020.10.28
 
宝瓶宮占星学サイトに、「“逆説”の邪馬台国」の新連載を開始いたしました。


当ブログでアップした「“逆説”の邪馬台国」のシリーズを、リライトしつつ逆順に後ろの記事からアップしていくものです。

なので、初回は、最後の「“逆説”の邪馬台国-馬臺編」を、「序:ほんとうに邪馬台(壱)国はなかったwww」と題してアップいたしました。

基本的に内容は、当ブログにアップした記事と同じです。

ただし、説明を補足するなど、いくらかわかりやすく充実させたつもりです。


お気が向きましたら時間のあるときにでも、ご高覧いただけましたら幸いです。













“逆説”の邪馬台国-馬臺編
2020.10.13
【“邪馬台国”の名称問題】


「邪馬台国」の呼び名についての重大な問題提起です。

当時の日本人が倭の女王「卑弥呼」の都をほんとうに「ヤ・マ・タ・イ」もしくは「ヤ・マ・ト」と呼んでいたのでしょうか。

もちろん、いずれも違います。

「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に、“邪馬台国”と記されているために、後世の人々が、それを「やまたいこく」や「やまとこく」と読んでしまったのです。

現代中国の発音と、魏の時代の「上古音」は、多少なりとも異なる発音の部分があることからもそういえます。

ですが、そこにはもっと根本的な問題があるのです。

それは陳寿が、なぜ「邪・馬・壹・国」(ヤ・マ・イ・コク)という文字を使って、ヒミコの“都”を表現したのかです。


1、陳寿は意図的に“邪馬壱国”と記した

“邪馬台国”まで行ったことがない「魏」の郡使らが、常に駐(とど)まった「伊都国」(いとこく)にて聞いた倭の女王「卑弥呼」の都を、彼らなりに漢字で表記したものです。

発音自体が異なりますので、聞いた音に近い“当て字”なのはいうまでもありません。

陳寿も“邪馬台国”に行ったことはありません。

そのため、過去の『魏略』や郡使などの“訪倭記録”をもとに「魏志倭人伝」を著わしています。

ちなみに、「魏志倭人伝」のなかに「邪馬壹国」(壱)という表記は、たったの1度しか出てきません。


すでにご存じのかたも多いのですが、陳寿は【邪馬壹国】(やまいこく)と書き表わしたように、現在、通称の邪馬台国の「臺」(台)ではなく、「壹」(壱)の字をもちいました。

であれば、「邪馬台国」に関する公式な史書は、「魏志倭人伝」が最も古いので、陳寿が表記したとおりに、“邪馬壱国”(やまいこく)と呼んでいてもよさそうなのですが、そうはなっていません。

ご存じのように、「邪馬台国」と記すのが常識です。

なぜでしょうか。

陳寿は、『魏略』などの記録に残る「臺」(台)の字を、かってに「壹」(壱)の字に変えて、「邪馬壱国」(やまいこく)と記したことが明らかだからです。

それは、当時の支那の学者らも認めた事実で、それゆえほかの支那の古代の史書は、ちゃんと「邪馬台国」(やまたいこく、やまとこく)と記されています。

陳寿の“邪馬壹国”(やまいこく)は間違いだと退けられているのです。


2、『翰苑』に残された“邪馬台国”

陳寿が参考にした『魏略』などをはじめ、魏の郡使らが残した“訪倭記録”などを調べれば、すぐにわかるのですが、なんせ3世紀のお話なので、その原本は残っていません。

ところが、唯一、『魏略』の「逸文」が、なんと福岡の「太宰府天満宮」に残っているのです。

「逸文」というのは、ほかの書物の中に“引用文”として残されたもので、唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。

太宰府天満宮には、『翰苑』の第30巻と叙文のみが残っています。

なぜ、九州倭国の“首都”でもあった「大宰府」に、いにしえの“邪馬台国”が記された『魏略』の逸文が残っているのでしょうか。

それは「邪馬台国」の比定においても興味深い事実なのです。

ですが、ここでは触れません。

今回のテーマは、なぜ“邪馬壹国”(やまいこく)と記されたのかです。


『翰苑』から『魏略』逸文(一部)を抜粋

「憑山負海 鎮馬臺 以建都」

《意味》
山に憑き、海に負い、馬臺に鎮め、もって都を建てる。


解釈いたしますと、次のようになります。

倭国は、「山」が海岸近くまで迫っており、「海」によって営み、「馬臺」において国を鎮め、「都」としている。


大陸(内陸)の魏からみれば、「海に負う」という表現は、自分たちとは異なるために珍しいことだったようです。

いずれにしても、ここには、ちゃんと「台」(臺)と記されています。

「臺」(うてな)という字は、天子直属の“政庁”などを表わすこともありますが、一般的には、“土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台”など、高台を意味します。

彼らが、卑弥呼の“都”をこのように「臺」(台)をもちいて表現したのは、次のような理由が考えられます。


1、楼観などの「物見台」があった。

これだけだと、どこにでもあり、特徴にはなりません。別の理由です。


2、倭の女王「卑弥呼」が都としたゆえに「臺」(台:うてな)をもちいた。

これはそのとおりでしょう。
さらには、彼らお得意の“ダブル・ミーニング”が込められており、次のように解釈できます。


3、卑弥呼が都とした「邪馬台国」は、平野部ではなく台地などの「高台」(山際)にあった。


倭国に来た魏の人々が、「臺」(台)の字をもちいて表現した事実は、“邪馬台国”の所在地比定にも大きなヒントを与えてくれます。


3、なぜ「邪」の文字が付加されたのか

すると、こんな声が聞こえてきそうです。

「まてまて、“馬臺”には、“邪”の文字が抜けているではないか」

そうなのです。

陳寿は、記録に残っていた「馬臺」のままだと、「東夷」(とうい:東の野蛮人の意)の国には、“美しすぎる”と考えたようです。

まず、「馬」というのは、倭の地には牛馬がいないと「魏志倭人伝」に記されていますので、動物の「馬」がいたということではなさそうです。

また、「馬」を悪字とするのはむずかしく、現在も中国人の姓の一つで、「馬」は、百家姓の第52位になっているほどです。


一方、「臺」は、天子の政庁など高い場所を意味していますので、これまた悪字どころか、ふつう良い意味です。

なので、名文を書くものの、歴史をドラマチックに脚色して(ウソを)記すことでも知られる陳寿は、「臺」(台)には、“タイ”、“ダイ”、“トィ”、“イ”などの発音があることから、「臺」(台)によく似た「壹」(壱:イ)の字をあてました。

ですが、「馬壹国」(マイ国)だけでは、“悪字”にはまだ不十分です。

そこで、卑弥呼の「鬼道」から、「邪」(シェ)の字を頭にもってきて「邪馬壹国」(やまいこく:シェマイ国)としたようです。

人を貶める字をもちいたり、表現をして、悦に入るのは半島や大陸の悪い癖です。

失礼!

それよりも、「邪」(シェ)の意味ですね。

卑弥呼の「鬼道」は、宝瓶宮占星学サイトや当「“逆説”の邪馬台国-6」でも述べたとおりです。

死者の霊を乗りうつらせて言葉を語る「口寄せ」のことを、支那人は“鬼”の字がもつ意味から「鬼道」と表現しました。

なぜなら、中国や古代支那では、「鬼」は“幽霊”(ゴースト)や“死者”を意味するからです。

そえゆえ、死者の霊を呼び寄せて「口寄せ」(霊言、良くいえば託宣)を行ない衆を惑わす卑弥呼の“術”を、彼らは「鬼道」と表現したのです。


ちなみに、「口寄せ」は、“お日様”のもとでは行ないません。

なので「ひみこ」を、“日巫女”としたり、「天照大神」と完全同一視するのは、大きな間違いです。

また、“日食”が起きて殺されたというのも真っ赤なウソです。

正解は、「霊巫女」(ひみこ)だからです。

だいたいは、ローソクなどを灯した暗い密室などで「口寄せ」は行ないます。

そのほうが、実際に行なうのは「絶対」に避けなければなりませんが、卑弥呼のような霊媒者にとって、“霊”が乗り移りやすくなるためです。

ま、現代人ほど「科学思考」はいたしませんので、霊も共鳴しやすく、乗り移りやすかったことでしょう。

占星学からみても、当時は「双魚宮時代」の初期ですし、日本人の民族性は「魚宮」なので、「政」(まつりごと、祀りごと)に“祭祀”や“巫女”や“霊”(物の怪)は、ごくジョーシキでした。

「魏志倭人伝」にも、卑弥呼を見た人は少なく、館(部屋)にこもっていたようすが記されています。

そのとおりなのです。


4、ほんとうに「邪馬台国はなかった」(笑)

お話を戻します。

漢字一文字の意味を大事にするのが支那人です。

もっとも、明治の文明開化以降に漢字を組み合わせて、西洋の科学技術や文明を表現した“日本語”を、彼らは取り入れるようになりました。

新たな解釈が付加された漢字の“逆輸入”です。

お話はそれますが、現代中国の国名にもなっている「人民」や「共和国」は、皮肉なことに日本人が西洋言葉を訳して表現した「和製漢語」なのは有名です。

それは近年のことで、古代支那人は漢字一文字一文字の意味を重要視してもちいました。

『日中・中日辞典』によれば、「邪」には、「(迷信で死者の霊魂がもたらす)災い,たたり」と記されています。

ということから、陳寿は、女王「卑弥呼」の死者の霊魂を呼び込む「鬼道」から、卑弥呼が都とした「馬臺」を二重に貶める意味で、「臺」(台)を「壹」(壱)に変え、頭に「邪」をつけて、「邪馬壹国」(シェマトィ国)と表記したのです。

つまり、本来、“邪馬台国”(やまたいこく、やまとこく)も“邪馬壹国”(やまいこく)もありませんでした。

あったのは、『魏略』に記される「馬臺」(馬台、マトィ)国だったというのが真相です。


結局、「魏志倭人伝」に記された、たった1か所の「邪馬壹国」(邪馬台国=シェマトィ国)を、のちの人々が、“やまたい”や“やまと”と読んでしまったのは事実ですが、実際の歴史上の真実は、「馬臺」(マタイ、マトィ)という卑弥呼が“都”とした国でした。

なので、福岡の旧「山門」も、畿内の本来は7世紀以降の「大和」という呼び名も、3世紀の“邪馬台国”(マタイ、マトィ)に比定すること自体が、実は大きな間違いであることがわかります。













“逆説”の邪馬台国-書紀編3
2020.10.11
 
【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


今回は、神武天皇の“モデル”を生んだ「邪馬台国」をお伝えいたします。


先回までの『日本書紀』(神代)のお話はご納得いただけましたでしょうか。

『日本書紀』は、神武東征以降の「独立統一大和」“一国史”として記されました。

そのため、神武以前の歴史は、「神代」(上、下)の中に“神話”かのように記されています。

そこに記される「高天原」は、九州から東征した初代「神武天皇」ゆえに、“古代九州”での出来事であることを意味します。

さらに現実的なお話をすれば、『日本書紀』は、“紀元前660年”を「大和建国」としましたが、それには別の意味があって、実際には3世紀末に九州から「畿内東征」を行なった人物や出来事を神武東征の“モデル”の一つとしています。

このあたりの実際の歴史は、『日本書紀』の「神功皇后紀」に“3世紀”のお話として、象徴的に記されています。

いずれにしても、「高天原」のエピソードは、「古代九州」や2世紀の倭国の乱(倭国大乱)から3世紀にいたる卑弥呼や台与の「九州倭国」での出来事を、象徴的に記録したものです。


1、その後の「邪馬台国」

さて、『日本書紀』には「高天原」の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されます。

その4代のちの天孫が初代「神武天皇」で、神武誕生にいたる経緯が記されています。

「神代」のお話はそこで終わり、人代にうつっては最初の「神武天皇紀」において、“大和東征”と“ご即位”による「日本建国」が語られます。

これらのお話を、史実に置き換えてみます。

「高天原」にたとえられた“古代九州”、とくには「九州倭国」において、3世紀後半に「神武天皇」の“モデル”となった人物が誕生し、3世紀末に「古代海人族」(あまぞく)の助けを受けて「畿内東征」に至ったことを意味します。

もう少し具体的に申し上げますと、「魏志倭人伝」には記されない「邪馬台国」のその後や「北部九州連合」こと九州「倭国」の一部が東征に至ったお話になります。

一例を挙げますと、3世紀末に記された「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)では、「狗奴国」(くなこく)は女王国の境界が尽きた南にあると記されていました。

しかし、5世紀前半に記された『後漢書』では、拘奴国(狗奴国)は「邪馬台国」の東に移動しているのです。


卑弥呼は、魏志倭人伝に「夫婿なし」と記されていることや、3世紀中頃には亡くなっていますので子どもはいません。

そのため、宗女(一族の女)で13歳の「台与」を2代目女王にかつぎ上げて「北部九州連合 倭国」に再び起きた内乱は治まります。

この「台与」であれば、子を生んだ可能性は充分にあります。

政略的に考えられるケースとしては、狗奴国王「卑弥弓呼」(ひみここ)を含めた「北部九州連合 倭国」を治めた“男王”との政略結婚によって、子を産んだといえるでしょう。

いずれにしても、卑弥呼と同様に御輿にかつがれた名目上の女王ながら「台与」と「その子」を旗頭に、3世紀末に「北部九州連合 倭国」を率いて東征を主導したした人物がいて、これら一連の出来事が、実在の“神武東征”のモデルです。

今回は、その人物や詳細についてまで、触れることはいたしません。


ちなみに、東征に出発した地は宮崎県の「日向」ではありません。

なぜなら、宮崎が「日向」と呼ばれるようになったのは、7世紀後半の律令制によってだからです。

『日本書紀』には記されませんので『古事記』から引用しますと、イザナギとイザナミの国生みに宮崎は出てきません。

国生みに出てくるのは、まず四国の4国と隠岐の島、そして九州の4国と壱岐に対馬です。

最後に本州が出てきます。

九州の4つの国とは、筑紫国「白日別」(福岡)、豊国「豊日別」(大分、福岡東部)、肥国「建日向日豊久士比泥別」(佐賀熊本)、熊襲国「建日別」(熊本以南)です。

宮崎が該当するとすれば「熊襲国」ですが、天皇に敵対した熊襲から初代天皇が出ることはありません。

なので、『日本書紀』に記される天孫降臨の「日向の襲の高千穂」というのも、神武の「東征」の出発地も、7世紀後半以降に「日向」となった宮崎ではありえません。

ではどこなのかというと、いまも「日向」の地名が数か所に残る北部九州(倭国)です。

奈辺が「神代」に「高天原」と記された地域です。

では、なぜ北部九州にあった「日向」の地名を、南九州に移したのかといえば、北部九州(倭国)が「天孫降臨」や「東征」の地「日向」だと、どうしても“マズイ”理由があるからです。

その代表的な理由は、次のようなことです。

「独立統一国家 大和」を7世紀以降に実際に築くにあたって、魏をはじめとした支那の冊封下にあった卑弥呼の「北部九州」(倭国)だと、“独立”の所以を保てないからです。

もっとも、「大和一国史」をとる学者らは気づいていませんが、6世紀末~7世紀初頭に、倭国王「アメノタリシヒコ大王」は、隋の高祖「文帝」に“仁義”を切り、九州「倭国」の政務を“弟”の畿内「日本国」に譲り、吸収合併させるかたちで、支那の冊封下から離れることに成功しています。

ふつうなら、支那から討伐軍が来てもおかしくないのですが、当時の隋は戦争末期でもあり、とでもそんな余力はありませんでした。

そこを読みきった「アメノタリシヒコ大王」の外交戦略の大勝利です。

なので、名実ともに日本全土は「独立国」となりましたので、問題はありません。

そのとき、隋の2代目「煬帝」(ようだい)に送ったのが、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす」という事実上の「独立宣言書」なのです。

そして隋は、その直後に滅びています。

このような輝かしい業績や仏教伝来(興隆)の実績をもつ九州倭国王「アメノタリシヒコ大王」の“功績”を奪うために、『日本書紀』(不比等)が考えた“架空”の人物が「聖徳太子」(厩戸皇子の虚像)です。

ですが、支那の史書に「冠位十二階」などを定めたのは「男王」と記されているのに、当時は女帝「推古天皇」の御世なので、誰が考えてもつじつまが合わず、摂政「聖徳太子」ではおかしいことはわかります。

わからないことを承知で、大和説の学者らは、“こじつけ”ているのです。



2、日本古来の「山族」と新参「海族」

では、“神武”は実際のところ、どのような経緯で誕生したのでしょうか。

『日本書紀』によれば、神武の父は「彦波瀲武兎鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけ うがやふきあえずのみこと)と申し上げます。

彦波瀲武が生まれるにあたっては、その父「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)こと“山幸彦”と、その兄「火闌降命」(ほのすそりのみこと)こと“海幸彦”のお話が、「神代」(下)に記録されています。

なぜ「山幸彦」と「海幸彦」なのかは、次のとおりです。


古代日本には、原住日本人の「山族」(広い意味では古代「海人族」もふくむ)がいました。

縄文系の彼らは河川を遡り、防御に適した豊かで開けた土地に都や群落を築き、平和に暮らしていました。

そこに南方の島々や、また西方や北方の大陸から流れてきたり、戦さに破れて海をわたってきた渡来人がいました。

彼らは、武器を持っていましたので、日本の沿岸部に住み着き国を築きます。

これが新参の「海族」です。

一方、南方のポリネシアをはじめ、古代中近東から来たフェニキアやヒッタイト系また国を失くした古代イスラエル人をふくむ「古代海人族」は、日本原住の「山族」と協力して、独自の製鉄技術などを教えて古代国づくりをすすめています。

これに対し、弥生中期前後に大陸から来た新参の「海族」は、戦争で敗北した経緯もあって、1~2世紀に北部九州で鉄器文化が栄えると、領土をめぐって争いを起こします。

それが、福岡平野で起きた「倭国の乱」(倭国大乱)です。

一方、「邪馬台国」をはじめとした日本古来からの「山族」は、広大な筑紫平野に約7万戸の“邪馬台国グループ”を築いて穏やかに暮らしていました。

それらの国邑(こくゆう)のなかで、徐福の船団の末裔にもかかわり、古くからの歴史があったのが、福岡平野にもほど近い位置にあった「邪馬台国」でした。

それゆえ、御輿にかつがれた“お飾り”ながら、邪馬台国を都とした「卑弥呼」は女王に共立されたわけです。

ちなみに、“邪馬台国グループ”(筑紫平野)の南にあった「狗奴国」は、呉から流れ着いた渡来人が相応に多かったことがわかります。

そのため、彼らは呉をバックに、当時の大陸の三国志のミニ版として、魏を後ろ盾にした「邪馬台国」(女王国連合)に戦さを仕掛けています。

そういったこともありまして、「女王国連合」の政(まつりごと)を事実上、とりしきっていた「伊都国王」(いとこくおう)は、女王「卑弥呼」の名によって、魏に援軍を要請する使いを送ります。


3、「山幸彦」と「海幸彦」

さて、神武天皇に連なる「山幸彦」と、敵対した「海幸彦」のお話に戻ります。

結局、上述したような日本古来の「山族」(邪馬台国)と、大陸から来た新参の「海族」との争いといった北部九州での歴史の一コマは、『日本書紀』(神代)に善良な「山幸彦」と少々いじわるな「海幸彦」のお話として記されています。

争いの結末は、古代海人族の「塩土老翁」(しおつつのおじ)や「海神」(わたつみ)の助けをかりた「山幸彦」に、「海幸彦」は降参して従うことになります。

従うことになったゆえに、「万世一系」とともに「独立統一大和」また「天皇のもとにある大和一族」を築くために記された『日本書紀』は、“山族”の山幸彦こと「彦火火出見尊」と、“海族”の海幸彦こと「火闌降命」を、ともに鹿葦津姫(かしつひめ:別名=木花開耶姫姫)から生まれた“兄弟”として描いています。

詳しくは、『日本書紀』「神代」(下)をご確認ください。

「和をもって貴しとなす」からはじまる“憲法17条”もそうですが、『日本書紀』の隠し「テーマ」は、大和民族の「和」なのです。


ご存じのとおり、山幸彦こと「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)は、『日本書紀』(神代)に記される天孫であり、“山族”の「邪馬台国」に由来して象徴化された人物です。

なぜなら、山幸彦に象徴される“山族”(邪馬台国)は、天孫が娶(め)とった鹿葦津姫の母「大山祇神」(おおやまつみのかみ)に連なって“神武”の祖父「彦火火出見尊」を生んでいるためです。


鹿葦津姫の子「彦火火出見尊」は、古代海人族すなわち博多湾を拠点とした「安曇族」(綿津見三神、少童命:わたつみのみこと)や「住吉大神」(住吉三神、筒男命:つつのおのみこと)と協力関係にありました。

それが史実として裏付けられるのは、同じ「北部九州連合 倭国」を形成していたからです。

“神武天皇”(山族)が瀬戸内海を東征できたのも、「海神」(安曇族)や「塩土老翁」(住吉大神)など古代海人族の協力があったゆえです。

ちなみに、『日本書紀』に“3世紀”の歴史として記される「神功皇后紀」においても同様です。

神功皇后とその子「ホムタワケ」(応神天皇)による“大和帰還”という名の「東征」においては、瀬戸内海を進むにあたり「住吉大神」が助けたことが記されています。

このようにして、3世紀末に“台与”と“その子”を旗頭とした「北部九州連合 倭国」は、当時、纒向があった畿内国(ヤマト)へと“東征”に向かったのです。

これらが、初代「神武天皇」の東征の“モデル”になった一連のエピソードです。


ご理解しやすいように、“状況証拠”を交えて記した細かな差異の部分はあるとしても、大筋の流れとしては上述のようになっているのです。











“逆説”の邪馬台国-書紀編2
2020.10.09

【『日本書紀』の中の“邪馬台国”】


先回の続きです。

何のために『日本書紀』は編纂されたのでしょうか。

学者は、『日本書紀』が漢文による編年体で記されていることから“海外向け”だとし、『古事記』は大和ことばを漢字をもちいた当て字で表記されていることから“国内向け”だとしています。

失礼ながら、上から目線で採点すれば30点程度の回答です。

相応の編集経験からいえば、『日本書紀』には明確な“編集方針”があります。

このことを理解しないと、“字づら”に目を奪われて、『日本書紀』が記したくても書けなかった歴史の“行間”が見えなくなります。

逆にいえば実際の歴史を曲げてでも“作文”せざるをえなかった箇所もあるのです。

『日本書紀』の「編集方針」に関しては、かなり前に「宝瓶宮占星学」サイトで触れたので、詳しいご説明はいたしませんが、結論を記せば次のようになります。


『日本書紀』の編纂方針

1、「万世一系」の皇統が第一の目的。

2、初代「神武天皇」からの独立統一大和として記す。

3、豪族臣民は天皇に連なる“一族”であることを記す。

4、できるだけ史実に沿って記す。


重要度(優先順位)は、番号順です。

これら、1、「万世一系」は絶対方針で、2、「独立統一大和」としての一国史はメインテーマで、3、天皇を中心とした「一族」としての大和民族は、“和”また“一体感”をもたらそうとするものです。

そのうえで、4、「実際の歴史」を史実に沿って、できるだけ“忠実”に記そうとしたのが『日本書紀』です。

もちろん、記録や伝聞に残っていた範囲でのお話です。


1、「万世一系」の象徴「文武天皇」

以上を、簡単にご説明しておきます。

初代「神武天皇」以来、“ヤマト”(畿内)における7世紀末の第42代「文武天皇」にいたる「万世一系」だけは、どうしても譲れないのが『日本書紀』です。

天武と持統の孫、珂瑠皇子(かるのみこ)を「文武天皇」としてご即位させ、「万世一系」を確立させることが『日本書紀』の第一目的だからです。

そのため、持統天皇が孫の珂瑠皇子に譲位し、「文武天皇」がご即位したところで『日本書紀』は終わっています。

結局、「文武天皇」の“正統性”を記しているのです。

以降、天武系と持統天皇の天智系によって皇統が引き継がれていきます。

そこにいたるために、神武以来の系譜(皇統)を操作した箇所がないとはいえません。

ですが、あえて言わせてもらえば、詳細は省略せざるをえませんが、結局のところ日本古来の“皇統”に現在は戻っているといえます。


2、神武以来の“統一大和”一国史

「万世一系」の次は、初代「神武天皇」以来の「独立統一大和」の一国史として記すことです。

歴史的事実としては、6世紀末~7世紀初頭に畿内「日本国」と九州「倭国」が合併してのちが統一大和なのですが、畿内「日本国」は、神武の“モデル”となった人物が3世紀末に東征して“国譲り”を受けた、いえあば“弟国”(独立国)です。

つまり、“兄弟国”なので、広義の意味では「大倭国」(大和)といえなくもありません。

このような『日本書紀』のカラクリを見抜けないと、当初からの大和国家だったと勘違いし、「邪馬台国はヤマト(畿内)だ」という“ファンタジック”な思考の“ヤカラ”が出ることになります。

何を書いているのかというと、次のようなことです。

『日本書紀』は、古代からの“統一独立国家”「大和」として描いたために、紀元前660年の神武天皇以前に「国」はなかったことにしました。

しかし、実際は神武の“モデル”となった人物の東征によって「ヤマト」(畿内国)がはじまっていきます。

ところが、その史実を『日本書紀』は、書き残せないのです。

繰り返しますと、当初からの「統一独立国家」(大和)としたために、実在の“神武”による「ヤマト東征」(畿内東征)以前からあった全国各地の実際の「国々」の存在や歴史を書き残せなくなったのです。

ここが重要なのです。

畿内国の時代に、“神武”が出発した九州に筑紫国などの倭国があり、四国には阿波国があり、瀬戸内海には吉備国があり、日本海側には出雲国、丹後国、越国などがあり、ほかにも尾張国や関東王国など、少なくともその前身となる国邑(こくゆう)がありました。

それらの国の存在を記せなくなったために、今も多くの人々の意識にのぼってきにくくなっています。

結局、『日本書紀』は、ヤマト(東征)以前の歴史のなかで、重要な九州「倭国」と、出雲国をはじめとした本州「大国主連合」(仮)の歴史を、「神代」(上、下)に、“神話”かのように書き記したのです。

そのため、“神話”のようにみえて「神代」(上、下)は、実際の古代史を「史実」をベースに書き残したものです。


もし、「神代」のお話がまったくの「神話」なら、かってに“創作”できます。

適当でもいいし、都合のいいように書けるのです。

ところが、『日本書紀』の「神代」(上、下)を読まれた方ならご存じのように、「神代」には多くの「一書」(あるふみ、別伝)が多く残されてています。

創作された「神話」ならそのようにする必要はありません。

ちなみに、「神代」の分量を比較すると、「本文」が2割弱なのに対し、数々の「一書」(別伝)は7割を超えるページが割かれているのです。

この一事をみても、数々の記録や言い伝えが残る、“神武”以前の歴史をなるべく忠実に書き残そうとしたことがみえてきます。

逆に、神武天皇にはじまる「人代」(歴代天皇紀)に入ると、「一書」はありません。

そういう体裁を『日本書紀』はとっているのです。


3、「神代」に出てくる大已貴神の国

では、「神代」には、どんな歴史が書かれているのでしょうか。

1、神代(上)
「神々の誕生」と「高天原」の天照大神と素戔嗚尊、さらには「大已貴神」の古代の国づくり。

2、神代(下)
大已貴神がつくられた古代国「葦原中国」(あしはらの なかつくに)を天孫族が平定、高天原からの「天孫降臨」、そして「神武誕生」にいたる系譜(エピソード)です。


ここで「神代」は終わり、いよいよ「神武天皇紀」がはじまっていきます。

「大和東征」と「ご即位」(建国)が描かれます。

つまり、「神代」(上、下)は、“神武”のモデルとなった実在した人物による実際の「東征」以前の「古代日本」の姿を記しているのです。

当初からの「独立統一国家 大和」一国史として記すのが『日本書紀』なので、建国以前に実際の国があったことやその歴史は、リアリティーをもって書けません。

そのため、“神話”かのように「神代」に記しているのです。

ちなみに、日本語の“神”は、西洋の「創造神」(THE GOD)とは異なります。

「かみ」(神)は、「お上」(おかみ)や「上流」また「おかみさん」などのように、“支配層”や“古い”(昔)また“生まれ出る源”などのことをさします。

つまり、「神代」という意味は、西洋的な神々のお話(神話)という意味ではなく、神武が建国する以前の「古代」、すなわちヤマトが生まれ出る“源の歴史”といった意味をもちます。

そこで活躍したのが「神」(かみ)であり、また「貴」(むち)や「命」(みこと)「尊」(みこと)など「とうといお方」という意味です。

『日本書紀』は、なるべく歴史の事実を残そうとしましたので、日本の礎を築いた“尊い”先人たちを、そのように「神代」で尊称をつけて記したのです。


素戔嗚尊(すさのおの みこと)につらなる大已貴神(おおあなむちのかみ:大国主命)の古代の国づくりもそうです。

この国は、実在した「出雲国」をはじめ、大国主神(おおくにぬしのかみ)らによる本州「大国主連合」(仮)のことで、神武東征によって“解体”していきました。

その“集会地”こそが、ヤマト(畿内)の纒向です。

なぜそうなのかは、“神武”のモデルとなった実在の人物によって、“国譲り”をさせられた神々は、結局、大已貴神の国づくりを助けた「大物主神」(おおものぬしのかみ)は、大神神社(おおみわじんじゃ)こと「三輪山」に祀られ、大已貴神(大国主神)は、出雲の「出雲大社」(いずも おおやしろ)に祀られるからです。

ちなみに、「神武天皇紀」では、饒速日命(にぎはやひのみこと)の国譲りとして記されます。

これは、物部氏こそが「大国主神」に連なる日本古来“大”の“国主”だったことを意味します。


4、「神代」に出てくる九州「倭国」

一方、「神代」に出てくる「天照大神」や皇祖「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)は、どの国を象徴しているのでしょうか。

天孫族がいた「高天原」は、九州「倭国」を意味します。

理由は簡単です。

初代「神武天皇」は、当時はどこだったのかはともかく“日向”すなわち「九州」からヤマト東征に出発したためです。

天孫降臨した「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)の4代目「神武」が東征に出発した場所は、「神代」でいう「高天原」にかかわる実在の地です。

なので、「高天原」は神武が東征に出発した「九州」(倭国)なのは明白です。

ちなみに、なぜ「高天原」と呼ぶのかというと、皇祖「高皇産霊尊」と「天照大神」の国だったからです。

2人の頭文字をとって、「高」+「天」+原(国)です。

「神代」に記される「高天原」のエピソードは、「古代九州」また「九州倭国」で起きた出来事を、コンパクトかつ象徴的にまとめたものです。


皇祖「高皇産霊尊」も九州にいました。

北部九州には「高木神」を祀る神社や伝承(エピソード)が数多く残っています。

明治以降、天皇家の先祖「皇祖神」となった「天照大神」も、元は九州なのですが、こちらは少々複雑です。

なぜなら、『日本書紀』は、天皇と臣民が一体の「統一大和民族」を形成するために、「天照大御神」を崇めれば、すべての臣民が自らの“先祖神”を祀ることになるよう、天照大御神のエピソードを少々創作したからです。

ベースは、当初、九州にいた物部氏の祖「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)で、「男神」です。

ですが、『日本書紀』は、天照大神を“キャラ変”させて、素戔嗚尊との誓約(うけい)を記すことによって“血統”を交錯させ、高天原の天照大神を出雲系と融合させる記述を「神代」で行なっています。

さらには、九州「倭国」の卑弥呼(台与)をはじめとした豪族らの王や先祖神を「天照大神」に“習合”させて、日本(大和)の“象徴神”に巧みに仕立て上げています。

ここでは、「女神」にもなって、後世の第41代「持統天皇」との類似性をもたせる工夫をしています。

それは、『日本書紀』の狙いなのです。

どういうことかというと、「天照大神」を祀れば日本全国の豪族臣民らが自らの“王”や“女王”また“先祖神”を祀るのと同義にして、「天皇」のもとに結集できるようにしたものです。

それゆえ、日本ではときの権力者が替わろうとも、“和”の象徴「天皇」には手出しをしなかったのです。


5、ご参考

ご参考に付記しておきます。

『日本書紀』のこのような「編纂方針」は、7世紀当時の国内外の情勢に起因しています。

“権力亡者”ともいえるハネっかえりの「中大兄」(なかのおおえ:天智天皇)は、朝鮮半島での「白村江の戦い」に大敗し、日本国は「唐羅連合軍」からいつ攻め込まれてもおかしくない極東情勢のなかにありました。

ただし、唐と新羅は仲たがいをはじめ戦争になりましたので、日本を攻める余裕はなかったことがのちにわかりました。

さらに、国内に目をむけても、ようやく天皇に即位した中大兄こと「天智天皇」は、病床で正統な後継を無視して、息子の大友皇子(おおとものみこ、:追諡:弘文天皇)に皇位を託します。

これによって、古代最大の内乱「壬申の乱」が起きました。

大友皇子を倒して、「壬申の乱」に勝利した大海人皇子(おおあまの おうじ)こと「天武天皇」は、自らの「皇統」の正統性を証明すると同時に、千年のちも皇位争いを起こさないことを誓います。

同時に、日本を一つにまとめて海外に対抗できるパワーをそなえるべく、『日本書紀』の編纂を命じたのです。

そういった壮大なグランド・デザインのもとに、「独立統一国家 大和」を早急につくる必要がありました。

その“バックボーン”となるのが『日本書紀』です。

天武の皇子「舎人親王」(とねりしんのう)と当時の状況を理解した「藤原不比等」(ふひと)は、「万世一系」の確立と、「天皇」のもとに臣民が一致団結した「独立統一国家」を築くために、天武天皇の遺志を受け継ぎつつ、『日本書紀』を編纂したのです。












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