まとめ「邪馬台国」の結論
2020.06.01
  
結論的に、まずいえるのは、女王「卑弥呼」や「邪馬台国」を“美化”しすぎということです。

支那の歴史書には、「倭国」や6世紀末~7世紀初頭にかけての「阿毎多利思比孤」(あめのたりしひこ)大王については、相応に記されています。

ですが、「卑弥呼」については、女王に共立されたこと、鬼道をもって衆を惑わすことなどは記されますが、「自為王以来 少有見者」すなわち女王になって以降は姿を見せず、詳細は不明なのです。

ほかに、支那(魏)の冊封下にあって、魏王に使いを送ったことが記されていますが、それとて伊都国(いとこく)の王が「卑弥呼」の名のもとに行なったと考えるのがしぜんです。

なぜなら、「伊都国」に“一大卒”が置かれ、「諸国を検察せしめ、諸国 之を畏憚す」(『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条)と記されているからです。

この『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条というのは、俗称“魏志倭人伝”のことです。


すなわち、諸国が「おそれはばかった」のは、女王卑弥呼ではなく、伊都国王だったのです。

卑弥呼は、かつぎ上げられた御輿すなわち“象徴”にすぎませんでした。

247年に着任した帯方郡(魏)の太守が、倭国に使節を遣わし、使節が到着したときには、「卑弥呼以死 大作冢」すなわち卑弥呼はすでに死んで墓がつくられたと記されています。

よくわからない“卑弥呼”にもかかわらず、私たちはかってなイメージを抱いているのです。

結局、所在不明の“邪馬台国”とともに、必要以上に“美化”し、あれやこれやと想像しています。


もとい。

実は、邪馬台国が奈辺にあったのかは、明確な「論拠」があります。

“邪馬台国畿内説”のエセ学者たちは、自分たちに都合が悪いので、その論拠となる支那の「歴史書」を“偽書”と決め付けたうえに、マスコミを抱き込んで隠していますので、正しく衆知されないだけなのです。

なので「邪馬台国論争」に必要以上の混乱をもたらしているのは、北部九州にあったことが明白になると、国からの“研究費”が少なくなることから、必死で意図的に言辞を弄して誤魔化し続けているエセ学者たちというのが実状です。


では、はっきりと「論拠」を記します。

『古事記』や『日本書紀』など、日本の文献を調べても、当然、邪馬台国の所在はわかりません。

では、どうしたらよいのでしょうか。

簡単です。

「卑弥呼」や「邪馬台国」また「倭国」が記されているのは、俗称“魏志倭人伝”なので、結局は古代支那の歴史書をひもとけばいいのです。

ほぼ、それだけです。

ただし、陳寿が記した魏志倭人伝だけでは不十分で、その後の『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』にも、倭国について記されています。

そういった支那の歴史書を、ごくふつうにひもとけば、容易に邪馬台国の位置を比定できます。


簡潔に要点のみを書いてまいります。


『隋書』「倭国伝」の冒頭に、「倭国は、いにしえの奴国なり」と記されています。

奴国があった場所が、倭の女王“卑弥呼”を共立した倭国です。

同じく、『隋書』の「日本伝」の冒頭には、「日本国は、倭国の別種なり」と記されています。

つまり、倭国と日本国は別もので、古代には九州「倭国」と、本州「日本国」(大和州畿内国)とがありました。

いつごろまでかというと、7世紀に入る頃までです。

7世紀初頭には、阿毎多利思比孤大王の九州「倭国」は、隋の高祖文帝に“仁義”をきったうえで冊封下から離れ、政権を日本国に“禅譲”するかたちで統一されます。

両州は、もともと関門海峡や周防灘にへだてられていますので、治は別の国でした。

それがわかれば、「倭国はいにしえの奴国なり」、すなわち、「漢委奴国王」の金印が出土した北部九州が奴国(なこく)の地なので、奈辺が卑弥呼がいた“倭国”です。

そして、魏志倭人伝には、邪馬台国は「女王の都する所なり」と記されています。

結局、「邪馬台国」は北部九州以外にはありえません。


さらに、続けます。

『隋書』「倭国伝」のなかに、「阿蘇山あり」と記されています。

倭国が日本国とは別の国で、「倭国」に阿蘇山があったというこの一節も、九州「倭国」を裏付けています。

まだあります。

両国が統合されたのちの『新唐書』には、倭国の時代の記述として、倭国王は「筑紫城に居す」と記されています。

筑紫は、だれもが知る現在の北部九州“福岡”界隈のことで、広くみても筑紫のある「筑紫嶋」(ちくしのしま)なので、九州です。

続けて、『新唐書』には「天皇をもって号となし、治を大和州にうつす」と記されているのです。

この記述は、倭国王はかつて「筑紫」にいて、「大和」に東征し、“天皇”と号したということです。

これは、『日本書紀』に記される「神武東征」に重なる記述なのですが、その出発点は、南九州の宮崎(日向)ではなく、実は北部九州「倭国」の“筑紫城”だったという意味です。


少し、日本史から謎解きをします。

宮崎が「日向」と定められたのは、大和朝廷ができた7~8世紀頃のことです。

それ以前には、日向は北部九州にありました。

なぜ、7世紀後半から編纂をはじめ、8世紀(720年)に上奏された『日本書紀』に相前後して、急遽、宮崎の地を「日向」と定めたのでしょうか。

それは、次のような理由からです。

古代の記録には、“神武天皇”が日向(高千穂、瑞穂の国)から出発したことが記されていました。

そのままだと「北部九州」から出発したことがバレるので、まずいからです。

なぜなら、国生みの古来から「統一独立国家」日本(大和)をコンセプトとして記した『日本書紀』は、もし、北部九州が神武天皇の出身地だとわかれば、当該地「倭国」は、6世紀まで支那の「冊封下」にあったからです。

結局、記録は変えず、『古事記』や『日本書紀』の編纂にさいして、日向などの地名を南九州(宮崎)に移して、北部九州「倭国」だとはわからなくしたのです。

もうひとつの理由は、大和の政権が九州「倭国」系から、ときの「大和朝廷」に移っていたため北部九州だとわからなくしたためです。

ちなみに、「筑紫」(ちくし)というのは、現在のほぼ福岡県で、「筑紫嶋」(ちくしのしま)というのは、筑紫のある嶋(九州)という意味で、「筑紫」そのものは、筑紫の地名が残る北部九州の福岡界隈です。


では、筑紫城は、どこにあったのでしょうか。

ここは私見になりますが、3世紀の場合、伊都国の可能性を捨てきれませんが、6世紀には「歴史的経緯」や「地政学的見地」から太宰府市近辺にあったと考えられます。

ほかの候補地を強いてあげれば、王国は、『隋書』に記される「竹斯国」(ちくしこく=筑紫国)でなければ、その東にあった「秦王国」(現在の嘉麻市もしくは飯塚市か田川市)になります。

ですが、北部九州を治めるには、地政学からみても、やはり「大宰府政庁」近辺が最適地です。

ちなみに、3世紀の邪馬台国もその近辺にありました。


なぜなら、この地は、太宰府から御笠川を北にくだれば、邪馬台国以北にあったとされる「奴国」や「不弥国」に容易に行けます。

一大卒の「伊都国」は、そこから平野部を西にすすむだけです。

一方、反対方向に、宝満川を南にくだれば、筑後川に合流し、筑後川をくだれば「吉野ヶ里遺跡」があり、逆にのぼれば朝倉市の「平塚川添遺跡」という、2~3世紀の2大環濠集落を版図とする広大な地域です。

この筑後川流域(筑後平野)が、邪馬台国の南にあったと魏志倭人伝に記される“21か国の旁国”(ぼうこく)の地域です。

魏志倭人伝には、旁国の南端が「女王(国)の境界の尽くる所なり」と記されていて、続けて「その南には狗奴国あり」と記されています。


狗奴国(くなこく)というのは、卑弥呼(女王国、倭国)に属せず、敵対し戦った国です。

3世紀の「鉄鏃」(てつぞく=鉄のやじり)の出土が、福岡県と争う全国でもダントツの多さから、狗奴国は熊本県にあたります。

福岡県南端部の大牟田市あたりが、その国境でしょう。


実は、これが何を意味するのかは重要です。

一部で、邪馬台国に比定される「山門」(旧山門郡、現みやま市)は、大牟田市に隣接し、福岡県の南端部に位置します。

つまり、狗奴国とほぼ接するために、その南に21か国の旁国が存在する余地がありません。

さらには、もう一つ、地理からみても筑後川河口域の「山門」は、船で直接行けるほどの近さなので、「陸行1月」の邪馬台国に該当しないのです。


さて、最後の結論です。

“魏志倭人伝”の著者、陳寿は、「倭国」に行ったことがありません。

そのため、過去のいくつかの記録“倭国偵察記”をもとに“魏志倭人伝”を記しました。

つまり、陳寿は、邪馬台国の位置を知らなかったのです。


ということから、魏の使節が留まる「伊都国」までは、明確に直列で行程を記すことができました。

しかし、そこから先は使節の聞き書きを写したものなので、伊都国から放射状に「奴国」と「不弥国」を記しています。

問題は、不弥国に続いて記される「水行20日」の投馬国(つまこく)と、「水行10日、陸行1月」の邪馬台国への行程の記録です。

これらは、もう一つの別の記録からもってきて、付記されたものです。

その証拠は、不弥国の南には“水行”などできる“海”がありません。


とはいえ、陳寿は、女王が都する「邪馬台国」を記さないわけにはいきません。

なので、別の倭国偵察記に記されていた、帯方郡からの行程記録によって、「南して投馬国にいたる。水行20日なり」や「南して邪馬台国に至る。水行10日、陸行1月なり」と付記したのです。

そのため、行程をすべて直列で読むと、邪馬台国の位置は、とんでない場所にあったことになってしまいます。


結局、邪馬台国は、水行のみで行ける“有明海沿岸部”や、“瀬戸内海地域”にあったのではなく、河川沿いを船を引っ張りながら遡行することを含めて、当時の“道なき道”を野営をしながら進んだ路程で「陸行1月」の内陸部にありました。

北部九州で、魏志倭人伝に記されるように、北の「奴国」や「不弥国」に通じ、南の21の旁国に通じる内陸部の「要衝の地」は、後世の「大宰府政庁」もそうですが、近隣にほぼ一つしかありません。

太宰府をふくめてもいいのですが、太宰府だけだと狭いので、その近辺で平野部が広がり、河川の上流域で、山を背に防御にも適した奈辺(あたり)の地が、古代からの「邪馬台国」です。


《 参考図 》



要するに、女王卑弥呼を共立した「倭」(国)は、6世紀には“筑紫城”があったと推測される「筑紫野市」の朝倉街道駅付近を分水嶺として博多湾に流れ込む北の「御笠川水系」と、南の有明海に流れ込む「宝満川・築後川水系」の国々を一つにたばねた“北部九州連合”をさします。

古代は、河川が交通路だったので、海や水系によって国はまとまったと考えるのが合理的です。


※ご参考:

不弥国(ふみこく)は海に面していたので“海国”(うみこく)、奴国(なこく)はかつては湿地帯で今も沼が多いことから“沼国”(ぬまこく)。

そう考えれば、陸行1月の邪馬台国(やまたいこく)は、山間部付近にあって女王が都していた古い国でもあることから“山大国”(やまたいこく)です。

もしくは、後述する伊都国と同様に、女王がいたことから“山統王国”(やまとおうこく)と呼んでいた考えてみるのも面白いかと存じます。

古代は、必ずしも固有名詞で国が呼ばれていたとはかぎらず、地形の特徴などから呼んでいた可能性が高いからです。

さらに書いておきますと、末盧国(まつらこく)は、伊都国からみて“虹の松原”の先にあるので松裏国(まつうらこく)です。

魏に使節を送っていた伊都国(いとこく)自身は、王がいて一大卒がおかれ諸国を検察し統べていたので、自らを“一統王国”(いとおうこく)と称して、魏に伝えていたというのはいかがでしょうか。

♪ 知らんけどね。









                   ※6月2日:地図を追加、6月7日:一部を最終リライト。
ついでに「邪馬台国」を問う
2020.05.26
先の「消された九州『邪馬台国』」と「補足:阿毎多利思比孤」のついでに、邪馬台国そのものに触れておきます。


◆ 邪馬台国の“遺跡”

古代支那の歴史書『三国志』(魏志)や、『隋書』、また『旧唐書』を読んでいくと、くだんの「邪馬台国」は、北部九州にあったことがハッキリとわかります。

畿内大和を“邪馬台国”にしたい学者は、よほど読解力がないか、意図的に日本を中国の冊封国家にしたい“曲学阿世”(きょくがくあせい)の徒としか思えません。

かつて、金印が発見された「奴国」をふくむ地域が卑弥呼を和の象徴として共立した「女王国」だったと容易に読めるからです。

なので、卑弥呼が都した「邪馬台国」は、奴国があった北部九州でしかなく、いわゆる“北部九州連合”「倭国」が3世紀に築かれていたのです。

ちなみに、「邪馬台国」の“遺跡”が、吉野ヶ里などのようにみつかることを期待してもムリで、防御にも優れた土地にあったために、その後の歴史においても相応ながら要所として発展し、遺跡のうえに数々の建築物が建てられたり、市街地などとして今日では発展しているためです。


◆ 日本列島の当時の国

「邪馬台国」の比定で注意すべきは、邪馬台国が栄えた3世紀当時、“玄関”である九州からは遠かったために支那の記録には残らなかっただけで、同様に繁栄した国家は、日本列島の各地にありました。

それを、支那の文献に残っているからといって、「邪馬台国」だけしか当時の日本に繁栄した国家がなかったと考えると、とんでもない間違いをします。

そのような視野狭窄におちいると、古代に栄えた遺物や遺跡また記録などが発見されると、「すわ! 邪馬台国か」となんでも錯誤してしまうことが起こります。

そうではないのです。

3世紀前後の当時、邪馬台国以外に栄えた国は、だれでも知っている一例をあげれば、出雲、丹後、阿波、諏訪など、かなりの数の国がありました。

そのなかでも、出雲や阿波は特別で、出雲は独自文化なので「邪馬台国」だと主張する人は少ないのですが、阿波をはじめ四国の場合、「邪馬台国は四国にあった」とかたくなに信じ込む人が多いのです。

それは、阿波には古代ユダヤ支族にもかかわる遺物などがあり、天皇家にもかかわる忌部氏がいるなど、“特別”な国なのですが、それゆえ逆に、「支那の冊封下」にあった「邪馬台国」などでは決してありえません。



◆ “邪馬壱国”(やまいこく)

いまだに「邪馬台国」を“邪馬壱国”(やまいこく)とよぶ人がいます。

結論をいえば、“邪馬壱国”は間違いで「邪馬台国」(やまたいこく)が正しいのですが、俗称“魏志倭人伝”こと『魏志』(倭人条)には、たしかに“邪馬壱国”(やまいこく)と記されています。

それをもって、「邪馬台国はなかった」というのは、歴史の事実を知らない短絡思考です。

日本や支那の学者たちが、『魏志』(倭人条)には“邪馬壱国”(やまいこく)と記されていることを知りながら、なぜ今日に至るまで「邪馬台国」(やまたいこく)と呼び、語り継いできたのかを考えなければなりません。

カンタンです。

当時の学者は誰でも知っていましたが、『魏志』(倭人条)の“邪馬壱国”(やまいこく)こそが例外で、ほかの文献は“魏志倭人伝”のタネ本となった記録もすべてふくめて、「邪馬台国」(やまたいこく)と正しく記されていたからです。

では、それをなぜ“魏志倭人伝”のみ、“邪馬壱国”(やまいこく)と記したのでしょうか。

それは、曲学阿世とまでは申しませんが、“TOP”におもねて史実を曲げて記すことでも知られている著者「陳寿」(233‐297)が、「臺(台)」(たい)という字は、皇帝の“玉座”やその直属の“政務庁”をさすことがあることから、東夷の国(日本)に使うことをはばかり、意図的によく似た「壹(壱)」(い)に変えて記したからだといえます。

もっとも、「臺(台)」であっても、“しもべ”を象わしますので気の回しすぎだったです。

それを知っている当時の学者たちは、ちゃんと「邪馬台国」(やまたいこく)と表記してきました。

そういうことがありまして、二代目女王「台与」(とよ)も、“壱与”(いよ)ではないために、四国と邪馬台国は関係がありません。



◆ 水行20日、水行10日陸行1月

半島の付け根付近にあった「帯方郡」から、邪馬台国」にいたる行程をどのように読むかで所在地が異なります。

平和ボケしてしまうと、「南は東の間違い」だとか、「1月は1日の間違い」だとか、かってな解釈をはじめます。

しかし、昨今の旅行記とは異なり、当時の記録は「軍事偵察」なので、少なくとも重要な方角を東を南に間違えたり、行軍に必要な日数を意図せずに間違えるということはありません。

俗称“魏志倭人伝”に記される行程を、「帯方郡」や一大卒がおかれた「伊都国」から直列に読むか放射状に読むかということですが、直列とともに総括的に併記されています。

帯方郡から女王国(北部九州)の「伊都国」までの前半は行程を直列で記し、諸国を検察する伊都国から国内を紹介する奴国と不弥国までは同様ですが、その後に記される投馬国と邪馬台国は、日数による併記になっています。

つまり、不弥国までは「里程」で記したあと、南に海はないにもかかわらず、急に水行に変わり「日数」で「投馬国まで水行20日、邪馬台国まで水行10日陸行1月」と記されるのは、再度「帯方郡」から何日ほどかかるかを述べなおしたものです。

なので、「水行」のみで行ける投馬国は海に接した海岸沿いにあり、「陸行」が必要な邪馬台国は、河川の上流域でありながらもかなりの内陸部にあります。

この「陸行1月」を、現代人の感覚でとらえると間違います。

当時は、整った道路や照明灯はなく、河川を流れに逆らって遡上したり、草木が生い茂る山道や獣道をとおったり、さらには安全や食料を確保したり、日が暮れないうちに野営の準備をしながら進むことが多いために、港に到着後、直線で60~70kmの距離であったとしても、曲がりくねった道や川沿いを高低さを経ながら進めば、1か月近い日数を要します。

北部九州で、河川の上流域に位置し、防御にも優れ、近隣にひらけた土地がある場所で、“魏志倭人伝”に記されるように北にも南にも接することができ、さらに申し上げますと、徐福などにも由来して支那語が残る可能性が高い地域といえば、「邪馬台国」に比定できる場所は、ほぼ1つしかありません。

比較的に有名な場所の近辺なので、皆さまにもお考えいただきたいのですが、奈辺がありし日の「邪馬台国」です。







補足:阿毎多利思比孤
2020.05.24
戦後日本のマルクス史観に片寄った似非歴史学者の古代日本史また半島や大陸第一主義の近代歴史観は、意図された間違いがあります。

そういった先入観を捨てて、客観的に歴史の事実をみてみましょう。

現代の共産中国が、文化大革命で否定した「古代支那」の文化や歴史書には、両面性がありますが、まだまともな部分もありました。

“中国4000年の歴史”というとき、現代の共産中国(中共)は70年の歴史しかなく、中共はことごとく「古代支那」の文化文明を共産主義思想のもと否定したままなのです。

なので「中国」をどう定義するかにもよりますが、“中国4000年の歴史”というのは真っ赤なウソで、現在の中共と、「古代支那」は大半が異なる民族国家であり文化的にも連続性がありません。

「古代支那」には、まだ正しい歴史を残そうとした「真実」がみられますが、現代の中共は、今般の“武漢ウイルス”の一件をみてもおわかりのとおり、マルクス・レーニン主義(共産主義思想)に毒された“ウソ”の歴史でいろどられています。

戦後、日本の歴史学界も類似で、共産主義思想による“色メガネ”でみた学説にもとづいた歴史教育が行なわれてきました。

ちょうど朝日新聞などの反日マスコミが、半島や中国の“悪どい”側面は報道せずに、日本やアメリカを“批判的”にでっち上げて報道するのと、まったく同じ思想的心理があります。

意図的にそれを行なっているのですが、彼らは共産主義思想による“正義”という誤まったバックボーンを“信仰信条”のようにもつために、その過ちに気づいていません。


以上をご理解いただいたうえで、まだ一面の歴史的真実があった「古代支那」の歴史書を見ていきましょう。


◆『旧唐書』より抜粋

【倭国伝】
倭国は、いにしえの奴国なり。(中略)世々中国と通ず。(中略)その王の姓は阿毎(あめ)氏。

【日本伝】
日本国は倭国の別種なり。
(中略)あるいはいわく、倭国自らその名の雅やからざるをにくみ、改めて、日本となすと。
あるいはいう、日本、ふるくは小国なれども、倭国の地を併せたりと。

※『旧唐書』=618年~907年の唐の記録、945年に奏上。


いかがでしょう。

「倭国」と「日本」は別の国だったと書かれ、事実「倭国伝」と「日本伝」が『旧唐書』には併記されています。

また、倭国は、有名な「漢委奴国王」の金印が福岡(志賀島)から出たことでも知られるように、福岡県北西部に位置した、いにしえの「奴国」だと記録されています。

要は、九州「倭国」が存在したのです。


もうひとつ、時代をさかのぼりますが『隋書』を見てみましょう。

◆『隋書』より抜粋

【倭国伝】
倭国は、(中略)『魏志』にいうところの邪馬台(国に都す)なるものなり。
(中略)名は卑弥呼、よく鬼道をもって衆を惑わす。

開皇20年(600年)、倭王の姓は阿毎、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩雞弥(あほけみ:大王=おおきみ)というもの、使いを遣わし(中略)
「(中略)日出ずれば、理務をとめ、わが弟に委ねんという」

高祖いわく、「これ、はなはだ義理なし」


この7年後、阿毎多利思比孤大王は、再び隋に使いを遣わし、有名な言葉を伝えたことが『隋書』に記されています。

「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子にいたす。つつがなきや云々」

※『隋書』=隋 581年~618年の記録。文帝と煬帝の2代で滅亡。


日本をおとしめたい歴史学者が、意図的に間違えて教えてきたことは、「日出ずれば、理務をとめ、わが弟に委ねん」をそのまま非文明的な日本だったので、大化の改新が必要だったというマヌケな解釈です。

なぜなら、次の使者による「日出ずる処の天子」という一文は、“すでに日が昇った”ということからメッセージされたものだからです。

その意味は、九州「倭国」は、“すでに理務(政権)を“弟”にゆずったよ、ごきげんはいかが”という上から目線の「独立宣言」なのです。

それゆえ煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者あり」と怒ります。

ここでいう“弟”というのは、本州「日本国」のことなのです。


前文の高祖文帝が「はなはだ義理なし」と言ったのは、古くから支那の「冊封下」にあって邪馬台国の卑弥呼などさんざん世話になっておきながら、いまさら「日本国」(弟)に政権をゆずるから冊封下から抜けるというのは、「義理がないではないか」と言っていたのです。


このへんの記述は、隋(支那)は、倭国が自分の代で冊封下から抜けるのは不名誉なので、「日出ずれば、わが弟に委ねる」などとワケのわからないことを倭国が言ってきたかのように、ボカした表現で記録していることに気づかなければなりません。

結局、九州倭国王の阿毎多利思比孤は、実の“弟”が本州畿内国「日本」にいたかはともかく、禅譲基盤ができたので、九州「倭国」を小国の畿内「日本国」に“吸収合併”させるカタチで、支那の冊封下から抜け、「統一独立国家大和」を7世紀初期に築くことに成功します。


なぜ、このような外交交渉ができたのかというと、当時の隋は他国との戦いで倭国にまで手がまわらず、実際的にも“滅亡”寸前だったので、日本に攻め入ることはできないと、阿毎多利思比孤は完全に読んでいたからです。

もちろん、かつての“東征”による成果が出て、本州畿内国に「政権基盤」が整ったからでもあります。

それは、『日本書紀』でいう「推古天皇」の御世で、推古女帝はまだ若く傀儡政権で、実質の権力を握っていた「蘇我馬子」の時代なのです。


つまり、蘇我馬子が、九州倭国王、阿毎多利思比孤の実際の“弟”なのか、それとも多利思比孤“本人”なのかはともかく、九州倭国の「歴史書」は、吸収合併後の「蘇我本宗家」に移されていたのです。

『日本書紀』には、蘇我入鹿が中大兄らに弑逆されたクーデター「乙巳の変」のさいに、蘇我氏自身が「歴史書」を燃やしたとしていますが、実際は燃やされたことにして“証拠隠滅”を図り、九州「倭国」の歴史を消し去ったのです。

しかし、九州「倭国」の歴史の一部は、『古事記』や『日本書紀』のなかに、九州「倭国」の出来事としてではなく、古代“大和の歴史”かのように書き換えられて、断片的に残されています。








消された九州「邪馬台国」
2020.05.21
文献などに直接の証拠は記されていません。

ですが、支那の歴史書『三国志』に記される“いにしえの倭国”こと「邪馬台国」が、日本の正史『日本書紀』に記されていないのは事実です。

なぜでしょうか?

宝瓶宮占星学サイトでは、『日本書紀』の“編集方針”の解明から、次のように結論しました。

1、当初からの統一独立国家「日本」とするため。
2、有史以来の万世一系の皇統を記すため。

結果、

3、統一大和政権以外の“国”は記さない。


『日本書紀』は、天武天皇(てんむ てんのう)によって編纂が命じられ、天武崩御後の720年に完成し上奏されます。

その経緯は、天武天皇即位のわずか10年前に、天智天皇(てんじ てんのう)こと中大兄(なかのおおえ)が、朝鮮半島で唐羅連合と戦った「白村江の戦い」(663年)で敗北し、いつ玄界灘を越えて唐が攻め込んでくるかもしれなかった時代があったからです。

敗戦の翌年、急遽、太宰府に「水城」(みずき)を築き、瀬戸内海沿岸に「山城」(やまじろ)を築きます。

しかし、さいわいにして、唐と新羅は仲間割れをし、戦さをはじめたために、唐は逆に日本に使節を送って新羅と組まないようにけん制したこともあって、ことなきをえました。


さらにさかのぼる、512年のことです。

継体天皇は、朝鮮半島南部にあった領土「任那4県」を、仲間内だった「百済」に割譲します。

その百済も、約120年後の630年に滅ぼされて、日本は半島への足場を完全に失いました。

その百済復興をかけて、中大兄が「白村江の戦い」を起こしたわけです。

敗戦後の日本の国内はバラバラで、信望のなかった天智天皇(中大兄)に代わり、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと天武天皇による挙国一致の国づくりがはじまります。

その“バックボーン”として、1000年後も皇位争いを起こさないように編纂を命じたのが『日本書紀』です。


その「編集方針」は、有史以来、当初からの統一独立国家「日本」(大和)であり、神武天皇以来、万世一系の皇統による臣民国家であることを明文化して意識統一をはかることでした。

そういった事情があるため、当時からすでに400年以上も前のことながら、魏の冊封下にあった北部九州連合こと「倭国」や「卑弥呼」はもちろん、女王が都する「邪馬台国」のことを記録に残すことはしなかったのです。

もし、記してしまえば、正当性をもった当初からの「統一大和」にならないし、天皇のもと「卑弥呼」のあつかいにも困ってしまいます。

そのため、倭国の名称を消し去り、支那に対しては、“倭”(わ)の音を流用した「大和」と改名したわけです。


一方、北部九州連合「倭国」は、3世紀の卑弥呼以降、一部が東征したものの九州で存続し、俗にいう“九州王朝”こと後期「倭国」として存続していました。

しかし、600年、当時の阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)倭国大王(おおきみ)は、隋に使いをおくって支那の冊封下から離れる旨を告げ、事実上の「独立宣言」をします。

このときの髙祖文帝の言葉が「はなはだ義理なし」でした。

九州倭国大王は、自国を小国だった本州畿内国(大和)に吸収合併させるかたちで、「大和王朝」を7世紀初頭に築きます。

これが名実ともの「統一大和」のはじまりです。

この時点で、冊封下にあった北部九州連合「倭国」も、むろん卑弥呼や「邪馬台国」も、のちの“九州王朝”こと後期「倭国」も、吸収されて消えたのです。


ついでに書くと、『日本書紀』の上奏にあたって消されたものがあります。

7世紀の統一大和の立役者「蘇我本宗家」も、中大兄らによってでっち上げられたクーデター「乙巳の変」(いっしのへん:645年)によって、九州倭国の数々の「歴史書」とともに消されてしまいました。

“聖徳太子”がつくったとされる「冠位十二階」は、倭国の阿毎多利思比孤大王が定めたものであることが、『隋書』を読めばみえてきます。

その意味は、九州倭国大王また蘇我本宗家の功績は、すべて“聖徳太子”という名のもとに置き換えられて記録されていることを物語っています。









白山比咩大神と菊理媛
2019.12.13
石川県は、大きくわけて、北の「能登地方」と、南の「加賀地方」があります。

北の能登国一之宮は「氣多大社」(けたたいしゃ)で、ご祭神は「大国主命」です。

一方、南の加賀国一ノ宮は「白山比咩神社」(しらやまひめじんじゃ)で、ご祭神は「白山比咩大神」(しらやまひめおおかみ)と「伊邪那岐尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)の三柱です。

今回、年末のリーディング等が忙しいなか、まことに申し訳ないのですが、ワケあって両宮にご参拝してきました。

両宮の最大の特徴は、伊勢神宮や熱田神宮など代表的な神社とは異なり、屋根に「千木」(ちぎ)や「鰹木」(かつおぎ)がないことです。

それはともかく、今回は「白山比咩神社」に祀られる「白山比咩大神」(しらやまひめおおかみ)と、一般に同一視されている「菊理媛神」(くくりひめのかみ)について書いてみます。


結論を先に書きますと、神社の由緒からみて「白山比咩大神」と「菊理媛神」は異なります。

ただ昨今は、“両エネルギー”が併存しているとのことです。

菊理媛神をご参拝に多くの方が訪れますので、当然、そうなっていきます。

ご存じのように、古神道は山や岩など「大自然」をご神体とします。

富士山や立山とともに「日本三霊山」のひとつに数えられる「白山」は、ご神体山で、その厳しくもなだらかな山容から、古来よりご祭神を「白山比咩大神」としていました。

崇神天皇7年(紀元前71年)には、遥拝所(まつりのにわ)が現在の「白山比咩神社」があるふもとの手取川そばの「古宮跡」(かつての白山比咩神社)に創建されていました。

そののち、修験者「泰澄」が718年(養老2年)に“白山妙理大権現”を奉祀して開山し、白山修験が中世に隆盛するとともに、白山神社は全国に勧請され広まっていきます。

現在のように、「菊理媛神」を白山のご祭神、すなわち「白山比咩大神」と同一視するようになったのは、何を根拠にしたのか不明ながら平安時代後期、正二位権中納言で歌人の「大江匡房」(おおえのふさふさ:1041年~1111年)が最初だとされています。

熊野三山の奥の宮「玉置神社」の磐座(いわくら)に白山社があって、「菊理媛」が祀られており、さらには三重県側にある「花の窟神社」(ご祭神:伊弉冉尊)に菊理姫も祀られているといいます。

大江匡房がこれらを参考にしたのか、それとも大江匡房が「白山比咩大神=菊理媛神」と同一視することによって、全国に白山比咩大神は菊理媛神だと誤まって広まっていったのかはわかりません。

いずれにしても、『日本書紀』(神代上)の一書(ある書物:異本)には、黄泉の国に帰った伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追って、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)が訪ね、その別れに際してもめたとき、菊理媛神(くくりひめのかみ)が何ごとかを申し上げると、伊邪那岐尊はほめて、未練を残すことなく去っていったことが記されています。

こののち伊邪那岐尊は、「私はひどく汚いところに行ってきた」といって中の瀬で禊ぎ祓いをされ、日本を治めることになる「天照大神」と「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)さらには「月読尊」(つくよみのみこと)など九柱の重要な神々をお生みになります。

ここから実際的な日本がはじまっていったわけです。

つまり、菊理媛神の“働き”(パワー)は、「伊邪那岐尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)を“縁結び”させたのではなく、逆に“ストーカー”と化した黄泉の国に帰った「伊弉冉尊」と、日本の祖「伊邪那岐尊」の腐れ縁を、上手に切るアドバイスをされた“守り神”だったのです。

昨今の半島と日本の関係をみるとき、まさに伊弉冉尊と伊邪那岐尊の訣別のときのように、「菊理媛神」の働き(パワー)が必要な今日になっています。



※雪の白山連峰と柴山潟(ネットより)








会所山、景行天皇と久津媛
2019.12.02
物心ついたときから見慣れた小高い山(画像ご参照)。


<実家近くの高台から撮影 2019.12.01>

「会所山」と書いて「よそやま」と読みます。

海抜164.3mながらふもとからの実際の高さは60mほどです。

幅約200mほどの川をはさんで実家の目の前に「会所山」がありますので、子どもの頃から毎朝毎夕、気にもとめず目にしてきた山です。

30代の頃に撮影で山頂に登ったことがありますが、会所山(よそやま)が歴史的に由緒のある山だと知ったのは、案外と最近のことで多分10数年ほど前のことです。


『豊後国風土記』には、次のように記されていました。

《原文》
「大足彦天皇 征伐球磨贈於 凱旋之時 (中略) 有神名曰津媛 化而為人参迎 (中略) 久津媛之郡 今謂日田郡者訛也」

《概訳》
大足彦天皇(景行天皇)が球磨贈(くまそ:熊襲)を征伐して凱旋したとき、(中略) 久津媛(ひさつひめ)という神が人の姿で迎えられた。(中略) 久津媛之郡(ひさつひめのこほり)が、今にいう日田郡(ひたのこほり)に訛った」

久津媛(比佐津媛とも)が景行天皇を迎えたのは、景行18年8月(西暦87年)とされています。

この「会所山」のふもとには、応神天皇、比売神、神功皇后の「八幡三神」と、景行天皇また比佐津媛(久津媛)を合祀する「会所宮」(よそみや:会所山神社)があります。

山頂には小さな祠ながら「久津媛神社」があって、弥生時代の甕棺(かめかん)などが出土していることや、山肌が石でおおわれていた痕跡があることなどから、古墳代わりに埋葬されたようです。

地元の歴史家のなかには、「久津媛こそ卑弥呼だ」という人も多く、その傍証とされるのが、会所山のすぐ東の日高(ダンワラ古墳)から出土したとされる重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)です。

ただし、当地は筑後川の上流なので、卑弥呼の時代に「一大率」がおかれた伊都国とは川筋が異なります。

そのため、個人的には、直線距離でも80km近く伊都国から離れていることもあって、当時、交流は困難なので卑弥呼ではありえません。

さはさりながら、この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、卑弥呼がつかいを送り、鏡をもらったとされる3世紀「魏」の時代の製作であることが確認されています。

それどころか、10年前の2009年に魏の「曹操」の墓が発見され、研究の結果、そこに埋葬されていた「曹操の鏡」と「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が酷似していることが、今年2019年夏に明らかになりました。

鉄鏡は、銅鏡とは格が異なります。

魏の時代、「皇帝」しか金をあしらった鉄鏡は持てず、そのような金の「鉄鏡」が伝世だと考えられるとはいえ、なぜ筑後川のはるか上流の「西国筋郡代」(江戸幕府の4つの郡代の1つ)がおかれた地から発見されたのか。

当地は、古代最古の(ヤマト系)豪族の舘跡が発見されるなど、相応の歴史があるとはいえ、何しろ予算がつかないのか、それとも大陸系の遺物が出ない“纒向(主流)派”の力が働いているのか、なかなか研究の対象にならず、いろんなことが定かになっていません。



● 画像は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)









伊勢を遥拝した天武天皇
2019.11.30
今日につづく“万世一系”の天皇の系譜について重要な役割を果たしたのが第40代「天武天皇」(てんむ てんのう)とその正妃である第41代「持統天皇」(じとう てんのう)です。

里中満知子の「天上の虹」は、読んだことはありませんが持統天皇について書かれたもので、副題には「持統天皇物語」と書かれています。

事実、「数理法則」から「天皇史」をみても、『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じ、“万世一系”の皇統を明示した天武天皇は、「1数=意志」の立場です。

それを夫「天武天皇」の遺志を継ぎ、2度と皇位争いが起きないように「男系嫡系」を天皇として実現させ、孫の珂瑠皇子(かるの みこ)を居並ぶ天皇候補を排して第42代「文武天皇」として即位させた持統天皇は、「万世一系の定着」からみたとき「2数=実体」にあたります。

ちなみに、「3数=関係」は第42代「文武天皇」(父:草壁皇子)です。

それはともかく、ほかにも持統天皇は「万葉集」(第1巻)を編纂したり、伊勢神宮を今日のように立派に建造するなど、歴史上、重要な業績を残した女帝なのですが、正鵠を射た文献が少ないのも事実です。

最近、『持統天皇』(副題:壬申の乱の「真の勝者」)と題する新書判を書店で見つけました。

これだけだったら手にとらなかったと思いますが、オビに「この国のかたちを決めた女帝」と書かれていたために購入してしまいました。

本文は、ときに著者の情緒的な主観が入るのが気になったのですが、相応に資料を調べておられるようで、そこが参考になると考えました。

実際、資料にもとづく客観的な記述の部分は参考になりました。

ただ、最大の問題は次の解釈です。

壬申の乱にさいして、大海人皇子(天武天皇)は、隠棲していた吉野から、わずかな供を連れて挙兵のために東国(桑名また不破:関ヶ原方面)にいたる途中、「朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)のほとりで天照大神を遥拝された」と『日本書紀』(現代語訳)にあります。

著者は、これを否定し、拝んだのは伊勢や天照大神ではなく、朝日(太陽)だと記すのです。

『日本書紀』の原典となった書籍「安斗知徳日記」をあげて、東国に向かう途中、雷がなり雨も激しく黒雲におおわれたことから、辰の時の朝8時ころ大海人皇子は天候が回復して太陽が現われ、朝日を拝んだのだと解釈しています。

この解釈によほど自信があるのか、何度(3~4度)も記しているのです。

当時の伊勢は、立派なお社があるわけではなく、小さな祠(ほこら)でした。
それを、壬申の乱に勝利した天武天皇と持統天皇が、戦勝祈願成就のお礼に今のように立派に建造し、“天照大神”を祀ったというのが事実です。

補記しておきますと、そのころの“天照大神”は1柱にすぎず「皇祖」ではありませんでした。

なぜなら、『日本書紀』には、「皇祖の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は」と、皇祖は男性神であることが明確に記されているからです。

天照が素戔嗚尊をおしのけて天皇家の「皇祖」とされたのは、維新後、明治天皇からで、実際、明治天皇は持統天皇以来、約1,500年ぶりにのちの天皇としては初めて伊勢をご親拝しています。

大海人皇子(天武天皇)が遥拝し戦勝祈願をしたのは、伊勢(天照大神)に間違いはないのですが、女性神ではなく「男性神」としての“天照大御神”です。

それを著者は、そうではなく大海人皇子が拝んだんのは太陽(朝日)だと主張するのですが、これは明らかに間違いです。

なぜなら、客観的にみればわかりますが、大海人皇子が遥拝した「朝明郡の迹太川」からみて「伊勢」は、ほぼ真南にあたるためです。

辰の時(午前8時ころ)なので、太陽はまだ南にはありません。

それでも著者は、何度も太陽を拝んだのだと記していますが、その場合、伊勢方面ではなく東の知多半島方面もしくは、現在、草薙の剣が祀られている熱田神宮の方向になります。

それだと戦に勝った大海人皇子こと「天武天皇」と「持統天皇」が、熱田神宮ではなく「伊勢神宮」を今日のように立派に建造して当時の天皇として唯一、ご親拝した理由がみえてきません。




●天武天皇(大海人皇子)御遥拝の地と伊勢の位置関係







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