天智にいたる皇統の操作
2019.06.15
先回の記事で、欽明天皇(29代)から天智天皇(38代)にいたる皇統(王統)は、操作されていると書きました。

理由は、合併による「九州倭国」と「畿内大和国」の王統を一つにつなげたためで、また、7世紀前半、蘇我氏三代が実質の大王(天皇)だったことを糊塗して、王統をつなげたためです。

今回、さらに提起したいのは、天智天皇こと中大兄を「万世一系」に組み込むために、王統を操作した可能性があることです。

そのいちばんの大きな理由は、『日本書紀』には“中大兄皇子”とは書かれておらず、すべて「中大兄」と記されているからです。

『日本書紀』は、“レトリック”を駆使して、「中大兄」と「大海人皇子」が実の兄弟かのように錯誤させ、中大兄を“皇子”だと勘違いさせるように記しています。

先回、「中大兄」と「大海人皇子」の母親とされる「宝皇女」(たからの ひめみこ)が“皇極天皇”(35代)として即位したかのように記されているのは、蘇我入鹿が実質の大王(天皇)だったことを隠すためだと書きました。

「斉明天皇」(37代)は、皇極天皇の“重祚”として記されていますが、「皇極紀」には簡単な系譜しか記されていないのに対して、のちの「斉明紀」には、宝皇女が最初、高向王に嫁つぎ漢皇子を生み、その後、「舒明天皇」(34代)に再嫁して二男一女を生んだといった、詳しいいきさつが記されています。

また、皇極紀と斉明紀を読むかぎり、二人が同一人物とは思えないという指摘は、案外となされているのです。

そういうこともあって、“皇極天皇”は創作で、斉明天皇こそが実際の宝皇女です。

さらに、「舒明天皇紀」には、「葛城皇子」「間人皇女」「大海皇子」の二男一女がいたことが記されています。

間人皇女(はしひとの ひめみこ)は、孝徳天皇(36代)の妃になりますが、中大兄の愛人だと言われるのも、ほんとうの兄妹ではなかったからでしょう。

つまり、大海人皇子は「大海皇子」と同一人物だと理解できるものの、中大兄は舒明の皇子とも「葛城皇子」だとも、どこにも記されていないのです。

にもかかわらず、『日本書紀』の現代語訳者は、葛城皇子をかってに「中大兄」と注記し、また過去に藤原氏が、“望月の世”をつうじて中大兄を「中大兄皇子」かのように喧伝したために、だれもが皇位継承権をもった「中大兄皇子」と信じ込んでいるのです。

実際は、皇位継承権をもたない単に「中大兄」でした。

次に、欽明天皇(29代)から天智天皇(38代)にいたる下記系図(図左)をご覧ください。

世代関係がわかるように、蘇我氏三代と呼応させてみました。すると、おかしなことがみえてきます。



中大兄が“弑逆”した蘇我入鹿は、中大兄の世代からみると三世代も前の“曽祖父”の世代にあたり不自然です。

婚姻関係は、1世代ほどズレることがありますので、それを考慮したとしても、これだと「孫と祖父」の世代関係にしかなりません。

さらに、蘇我蝦夷と姉妹の「河上姫、刀自古郎女、法提郎女」は、世代の異なる「祟峻天皇」「厩戸皇子」「舒明天皇」の三世代にわたって嫁ついでいます。

祖母(または母)の世代が、舒明天皇(田村皇子)に嫁ついだというのは、いくら政略結婚だとしても限度を超えています。

結論的にいえば、『日本書紀』は、実際は蘇我氏が大王(天皇)だった時期の“舒明天皇”と“皇極天皇”を「敏達天皇」(30代)の皇子「押坂彦人大兄皇子」(おしさかの ひこひとの おおえの みこ)につなげて、畿内大和国の「万世一系」としたのです。

用明天皇(31代)と推古女帝(33代)は、和風諡号に「豊」がつくことから、「九州倭国」系の王統だと考えられますので、両帝の皇子(皇統)を隠蔽して、「押坂彦人大兄皇子」につなげたために、1世代ズレてしまったようです。

さらに、大海人皇子(天武天皇)が舒明天皇の皇子で、中大兄(天智天皇)が宝皇女(のちの斉明天皇)の「連れ子」だとすれば、たしかに父親違いながら“兄弟”にはなります。

ただし、宝皇女の初婚の相手と記される「高向王」が用明天皇の孫だというのは疑問で、ここでも1世代ズレて繰り上がる可能性が高いのです。

ちなみに、「押坂彦人大兄皇子」に関して『日本書紀』は、なにも記していません。
名前だけが使われていて、実在かどうかも怪しいのです。

いずれにしても、「中大兄」が中臣鎌子(藤原鎌足)とともに蘇我入鹿を殺害した「乙巳の変」(645年)のとき、「ひ孫」(または「孫」)の世代だったとする上記左側の系図は、どうみてもムリ筋です。

結局、中大兄は、上述いたしましたように『日本書紀』の系図より「2世代上」が妥当で、詳細は省略いたしますが皇子ではなかったことがわかれば、いろいろとつじつまがあってきます。

正統である弟の大海人皇子に、長女と次女の2人もの娘を嫁つがせていることも、その一つです。

もし、中大兄が皇子であれば、“臣下”のはずの蘇我入鹿を、これまた“臣下”の中臣鎌子(藤原鎌足)にそそのかされて、“皇子自ら”が手にかけるような暴挙にはでません。

皇子ではなく、傍系だったからこそ、できたのです。

実際的にも、『日本書紀』が“大逆者”と記す「蘇我本宗家」を滅ぼした“英雄”かのように中大兄を記しながら、「乙巳の変」ののち、23年間も即位できなかったのは、中大兄が皇子ではなかったからで、また人望がなく、次々とライバルの皇子たちを殺害しているからです。

結局、中大兄は、年老いた母親を「斉明天皇」として即位させ、“皇子”の立場を手にしたのち、正統の大海人皇子に次期王位(皇位)を譲るという了解をえたうえで、ようやく王位(皇位)に就いたというのが実際のところです。

さらにいえば、藤原不比等が関与した『日本書紀』は、中大兄(天智天皇)を“英雄”かのように描きながら、実のところ最大の“功労者”を「藤原氏」と読めるように描くことに成功し、もくろみどおり、『日本書紀』上奏後の後年、蘇我氏にとってかわり、天皇家をしのぐ権勢を手に入れていくことになりました。

そんな一面が隠されていることも見逃すことはできないのです。







欽明天皇後の皇統問題
2019.05.31
今回は、「補足」のための裏付け記事です。
一般的ではないお話と思いますので、ご興味のないかたはスルーされてください。

「『日本書紀』と万世一系」の記事でふれましたように、「欽明天皇」(第29代)~「天智天皇」(第38代)の皇統には“操作”がなされています。

理由は次の2点です。

第1の理由は、この時期、「九州倭国」と「畿内大和国」が統一合併して“統一独立国家大和”「日本」が誕生していますが、そのことを記せない『日本書紀』は、両方の皇統(王統)を一つにつなげたからです。

第2の理由は、統一後の7世紀前半は、実質は「蘇我氏三代」が大王に就いていたのですが、これも記すことができないために、“天皇”(大王)でなかった皇族(王族)を“万世一系”として記したからです。

『日本書紀』によると「欽明天皇」(第29代)の皇子4人が、6世紀後半に次々と皇位に就いています。

敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)、祟峻天皇(第32代)、推古天皇(第33代)がそうです。

しかし、次の4つの疑問がわいてきます。

1、
欽明天皇が本当に4人の天皇を生んだ父親なのか。
『日本書紀』は、欽明天皇の「即位年」も「崩御年」も明らかにしていません。
…4人の皇子の父親とするために、欽明天皇の年齢を記せなかったようです。

●『日本書紀』 「欽明天皇」紀より抜粋
「欽明天皇は即位された。年はまだ若干(そこばく)であった。」
「天皇はついに大殿に崩御された。時に年、若干。」

2、
『神皇正統記』などほかの記録をみると、欽明天皇の4人の皇子は年齢の幅がひらきすぎており、それぞれの記録で出生の順番さえ異なります。

3、
敏達天皇と推古女帝は“兄妹”で、しかも“夫婦”、なぜか中2代をおいて即位しています。
…[参考] 舒明(夫)皇極(妻)、天武(夫)持統(妻)の夫婦天皇の場合は、連続しています。

4、
皇子が4人も即位されながら、その子どもたちがだれ一人として皇位に就いていないことです。

これらは何を意味しているのでしょうか。

用明天皇と推古女帝は、(本来の)和風諡号(しごう)を「橘豊日天皇」(たちばなの とよひの すめらみこと)と「豊御食炊屋姫天皇」(とよみけ かしきやひめの すめらみこと)と申し上げます。

いずれも、“豊”がつくことから九州倭国系の天皇(大王)また出自です。

敏達天皇は、「渟中倉太珠敷天皇」(ぬなくらの ふとまたしきの すめらみこと)と申し上げることから、畿内大和国系の天皇(大王)です。

祟峻天皇は、「泊瀬部天皇」(はつせべの すめらみこと)と申し上げますが、“合併に反対した”ことから馬子に殺された大王です。

祟峻のあとをついだ推古女帝は、天皇(大王)らしくない諡号(おくりな)から、馬子の傀儡(かいらい)か名ばかりの“天皇”です。

推古の和風諡号は上述いたしましたように、“豊御食炊屋姫 天皇”なのですが、まるで“飯炊き女”相当で、天皇号としては軽すぎるのです。

『日本書紀』は、4人の天皇を欽明天皇の皇子として一つにつなげたために、“聖徳太子”と誤解される厩戸皇子の父「用明天皇」の在位は、わずか2年半、「祟峻天皇」もわずか5年で、しかも蘇我馬子に殺されているわけです。

ところが、「天皇(大王)を殺した」にもかかわらず、馬子がお咎めをうけた記録はありません。

それどころか、次の推古女帝の御世に「大臣」(おおおみ=首相)に就いたと記されています。

なぜかといいますと、蘇我馬子は「九州倭国」と「畿内大和国」を合併させ、統一独立国家大和「日本」を誕生させた功労者で、統一後、大和において実権をにぎっていた実質の大王だったからです。

そのため、祟峻を殺しても、お咎めをうけることはなく、必然的に、祟峻後、即位したと記される“推古女帝”は、権力者蘇我馬子の傀儡(かいらい)にすぎず、もしくは馬子が大王だったことを隠すために、『日本書紀』がつくりあげた“天皇”です。

推古の出自は、用命天皇の同母妹、額田部皇女(ぬかたべの ひめみこ)です。

ということから、推古女帝が蘇我馬子を“大臣”(おおおみ=首相)に就けたと記していることも、19歳になったばかりの厩戸皇子に“国政”をすべてを任せられた(摂政)というのも、さらには厩戸を“皇太子”(ひつぎのみこ)に定められたいうのも、この時代に「皇太子」という制度はまだなったということをふくめて、ありえないお話です。

結論的に書きますと、推古女帝の御世というのは、「蘇我馬子」が大王でした。

次の舒明天皇の御世は、馬子の子「蘇我蝦夷」が大王です。

さらに、最後の皇極天皇の御世は、蝦夷の子「蘇我入鹿」が実際の大王でした。

ですが、そうとは書けない『日本書紀』は、この事実を糊塗(こと)して、乙巳の変(645年)による“大化の改新”を創作し、中大兄(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)の功績としたのです。

それゆえ、『日本書紀』上奏後は、藤原氏が「望月の世」を迎えていきます。

次回に書きますが、上述の「舒明天皇」(第34代)と「皇極天皇」(第35代)というのは“叔父と姪”で、また“夫婦”と記されています。

この2代の天皇(大王)を、敏達天皇の皇子でまったく詳細が『日本書紀』に記されていない「押坂彦人大兄皇子」(おしさかの ひこひとの おおえの みこ)につなげたために、天智天皇(第38代)にいたる蘇我氏との世代関係が合わなくなっています。

平安時代になって、淡海三舟(おうみの みふね)が、現在使われているように漢字2文字の漢風諡号を定めました。

その際に、宝皇女(たからの ひめみこ)こと「天豊財重日足姫天皇」(あめとよ たからいかしひ たらしひめの すめらみこと)を、“皇極天皇”としました。

“極”には、月極(つきぎめ)駐車場といったように月ごとに“終わる”という意味があります。

ゆえに「皇極」というのは、“皇位が終わった”ことをあらわす諡号です。

事実、“皇極天皇”をもって、馬子、蝦夷、入鹿の「蘇我三代天皇」(大王)は終わりをむかえ、“九州倭国王家”と言い換えてもいいのですが、蘇我本宗家は滅んでいます。

『古事記』が「推古女帝」で終わっているのも、このような理由があるからです。





怨霊「聖徳太子」の真相
2019.05.23
「聖徳太子」は、実在か、それとも架空か?

結論的にいえば、「聖徳太子」そのものは意図ある“創作”です。

『日本書紀』は、その偉大な功績を「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)かのように描き、実在の“功労者”を秘匿したというのが、複雑ですがことの真相です。

ご説明してまいります。

「聖徳太子」をどのように定義するかにもよりますが、一般に言われている聖徳太子は、『日本書紀』に記された厩戸皇子のイメージの拡大像なのですが、それが“間違い”で真の“聖徳太子”とされるべき人物は、別にいるということです。

『日本書紀』によって、「厩戸皇子」は“聖人”かのように脚色されました。

推古紀には「生まれてすぐに喋った、聖なる知恵があった」(原文:生而能言、有聖智)などとありますが、生まれてすぐに言葉を話すなど、脳科学的にありえないことです。

これらは、厩戸皇子のお話が「ウソ」であるとわかるように、『日本書紀』が“意図的”に掲載したエピソードで、『日本書紀』にはよくみられます。

別の意図としては、すでに後世の作(改ざん)として知られている「十七条憲法」を、“素晴らしい人がつくったもの”として信じ込ませるものともいえなくもありません。

聖徳太子が“架空”である絶対的な根拠は、『日本書紀』のなかに「聖徳太子」という名称が1度も出てこないことです。

もっとも、市販されている現代語訳『日本書紀』のなかには、原文は「厩戸豊聡耳皇子命」としか書いていないにもかかわらず、かってに「聖徳太子」と訳している書籍があります。

それはともかく、厩戸皇子が生存したとされるのは、574年~622年です。
一方、『日本書紀』の上奏は720年で、没後、100年ほどが経っています。

100年も経っていれば、歴代天皇が「諡号」(しごう、おくりな)で記されているように、『日本書紀』も同じように「聖徳太子として知られている」など、諡号で紹介された一文があってもおかしくないのです。

ちなみに、「諡号」というのは、「貴人や高徳の人に死後おくる名前」のことです。

それがないというのは、『日本書紀』ののちに「聖徳太子」ができたということです。

「万世一系」や「蘇我氏」に関すること以外は、なるべく史実にそって記そうとしている『日本書紀』ゆえに、聖徳太子がいたのなら、「聖徳太子」と明記しているはずです。

ですが、さすがに『日本書紀』も、架空ゆえに厩戸皇子と記すのが精一杯でした。

ちなみに、推古女帝の時代に、隋に国書をおくった男王「アメノタリシヒコ大王」を聖徳太子とする説がありますが、たいていは勘違いで、厩戸皇子でもありません。

なぜなら、アメノタリシヒコ大王は「筑紫」(北部九州)にいたからです。

『隋書』には、アメノタリシヒコ大王の国を「阿蘇山あり」と書いています。
『新唐書』にいたっては、ハッキリと「筑紫城に居す」とまで記しているのです。

なので、「アメノタリシヒコ大王」というのは、大和王権と合併する“直前直後”の「九州倭国王」にほかなりません。

では、『日本書紀』は、なぜ厩戸皇子なる人物を偉人に仕立てあげる必要があったのでしょうか。

それは、『日本書紀』の目的と編集方針をみれば明らかです。

『日本書紀』は、紀元前の初代「神武天皇」の東征以来、“大和一国王朝”として描いてきました。

それゆえ、3世紀の「卑弥呼」も「邪馬台国」も大和ではないので記されていません。

当然、卑弥呼由来の「九州倭国」や「九州倭国王」の存在も、またその功績も記すことはしません。

『隋書』に記されているアメノタリシヒコ大王の「冠位十二階」も、大和王朝が定めたものにする必要があったのです。(結果論)

それゆえ、厩戸皇子の名を借用し、または創作し、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定した聖人として描いたのです。

つまり、あえて書きますと、「聖徳太子」と称えられるべきは、1世紀の奴国、また3世紀の女王国以来の「九州倭国」を、シナ大陸の冊封体制から離脱させ、“日出る”とともに“弟”の「畿内国」(大和)に“政務を委ね”、「統一独立国家日本」を誕生させた天孫「アメノタリシヒコ大王」こと九州倭国王なのです。

ちなみに、「アメノタリシヒコ」という呼称は、“天より垂(降)りし日子”という意味で、天孫降臨した一族の子孫をあらわします。

紀元前(『日本書紀』の記述)に九州から「神武」が東征し、饒速日命(にぎはやひのみこと)から禅譲された「畿内国」(大和)からみれば“兄”にあたるわけです。

そのように、7世紀初頭に「九州倭国」と「畿内大和王権」を併合させて、“日出る国”(日本)が誕生しますが、その直後は「主導権争い」がくすぶっていました。

それが、のちの天智天皇こと「中大兄」と、のちの藤原鎌足こと「中臣鎌子」が、主導権を取り戻すべく実質上の大王家だった「蘇我本宗家」を滅ぼした「乙巳の変」(645年)です。

しかし、因果は巡ります。

政権奪取に成功した天智天皇の子 大友皇子(追諡:弘文天皇)は、政権基盤を確立すべく、のちの天武天皇こと「大海人皇子」と「壬申の乱」(672年)を戦いますが、負けて、結局は、天武天皇による古来の皇統が復活します。

その詳しいお話をここで書く余地はありません。

いずれにしても、藤原鎌足の子で『日本書紀』編纂にもかかわった藤原不比等(ふじわらのふひと)は、父と中大兄が弑逆した「蘇我本宗家」の偉大な功績を記すことはできず、「推古女帝」と摂政「厩戸皇子」による功績に書き換えたわけです。

ですが、後世のなかには、蘇我一族の功績だと知っている人もいますので、当時の風潮のなか、厩戸皇子ならぬ「聖徳太子」と命名して、その遺徳をたたえ、さらには鎮魂を行なったのです。

これが真実の「聖徳太子」です。

聖徳太子ゆかりの法隆寺で行なわれる「聖霊会」(しょうりょうえ)では、そのクライマックスに突如、“怨霊”としての「蘇莫者」(そばくしゃ)が登場し、これを厩戸皇子が笛を吹いて慰めるという演目が、いつからか行なわれています。

これは、ゆえなく滅ぼされた蘇我氏の御魂を鎮めるためのものです。

蘇莫者というのは、“蘇(よみがえ)る莫(な)き者”すなわち“蘇我氏”をあらわしています。








『日本書紀』と万世一系
2019.05.21
今回は、信じられないかたには、“疑義”提起になると存じます。

『日本書紀』は、統一独立国家「大和」を出発するための“万世一系”を記したものです。

超ロングスパンでみれば、相応の紆余曲折はあったものの、令和の今上天皇にいたるまで、最初に日本の大半に影響をおよぼし、ゆるやかな“大国主連合”を築いた大王につづく万世一系で間違いはありません。

もともと『日本書紀』は、すべての豪族や氏族を大王(天皇)からの分家として“大和一民族”による独立をうたっているからです。

その象徴は、明治天皇以降、「天照大神」が皇祖とされますが、『日本書紀』に記されている(本来の)皇祖は、神代紀(下巻)の冒頭にあるように「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)です。

それは、天孫降臨の記述をみても明らかです。

『日本書紀』の本文には、高皇産霊尊による瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されています。

一方、今日、一般に信じられている天照大神による瓊瓊杵尊の“三種の神器”をともなった天孫降臨は、一書(あるふみ=異説)のうちの1つの説として記されているにすぎません。

このあたりは、『日本書紀』編纂責任者(舎人親王:天武天皇の皇子)の真摯な姿勢が垣間見えます。

ちなみに、一書の「天孫降臨神話」は、持統天皇(第41代)の御世に藤原不比等のアイデアで付加したもののようです。

持統天皇こと「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)から、“孫”の文武天皇(第42代)こと「倭根子豊祖父天皇」(やまとねこ とよおほぢの すめらみこと:25歳で崩御)への譲位をスムーズにはかるために、『日本書紀』は、高天原の天照大神から、“孫”の瓊瓊杵尊への天孫降臨神話を創作したのです。

明治以降、皇祖が「天照大神」に定められるとともに、この一書のお話は本文のように思わされています。

ここでは長くなるので、その経緯にはふれません。

万世一系を定めた天武天皇(第40代)以降、ほどなく天智系天皇の御世に変わったとはいえ、万世一系が連綿と続いてきたのは事実です。この詳細にもふれません。

問題は、6世紀から7世紀にかけてです。

継体天皇(第26代)にはじまり、安閑、宣化の2代をへて、欽明天皇(第29代)以降、天智天皇(第38代)にいたるまでの皇統は、かなりの操作がなされています。

理由は、次の2点からです。

第1点、宣化天皇(第28代)において、蘇我氏が登場し、いきなり今でいう“首相”に相当する大臣(おおおみ)に就きました。

第2点は、7世紀がはじまる前後、九州倭国(兄)は、畿内大和王権(弟)に政務を委ね、実質の「統一国家」を誕生させたことです。

この直後、『隋書』に記されるように、アメノタリシヒコから煬帝に「日出処の天子、書を日没処の天子にいたす…」と国書が送られました。

つまり、卑弥呼由来の九州倭国は、シナ大陸からの冊封体制からはなれ、「日本」という日出る国とともに統一独立国家として新生したのです。

これが欽明天皇の皇子ら4人が次々と皇位に就いた、と記述されるウラの事情です。

皇位に就いた4人の皇子のうち、敏達天皇(第30代)と推古天皇(第33代)は“兄妹”であり“夫婦”だと記されています。

ありえません。

なぜ、このように記されたのかというと、九州倭国の「大王」と大和王権の「大王」を“万世一系”として直列につなげたためです。

また、推古以降も7世紀前半、実質の大王家となった蘇我三代王家(馬子、蝦夷、入鹿)を、「皇子」ではなかった中大兄が、「乙巳の変」(645年)で弑逆しましたが、この前後の皇統も万世一系にするために作為がみられます。

蘇我氏三代王権を「天皇」として記すことはできないからです。

これらが、本来の皇統にもどったのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと「天武天皇」からです。

大海人皇子は、古来からの正統で、中大兄は天皇の皇子ではありません。

宝皇女(たからのひめみこ:日本書紀では“皇極天皇”と記されている)の連れ子なので、『日本書紀』には「皇子」とは記されていません。

天武天皇は、それゆえ天智天皇の皇子(追諡:弘文天皇 第39代)と「壬申の乱」(672年)を戦い、勝利したのち、自らの皇位の正統性を残すとともに、二度と皇位争いを起こさないように『日本書紀』の編纂を命じたのです。

日本史の真相がここにあります。

詳細は、いずれ書くことがあるかもしれませんが、今回はここまでです。





持統天皇 御製歌の意味
2019.05.18
だれもが知っている有名な「万葉集」の御製歌です。


春過ぎて夏来(きた)るらし白たへの衣(ころも)乾(ほ)したり天(あめ)の香具山 (万1-28)


詠み人は、万世一系を定めた天武天皇(第40代)の妃、持統天皇(第41代)です。

歌の解釈は人それぞれにあります。
基本的に自身の“器”にあわせて解釈をしますので、ヘタに解釈すると底が知れてしまいます。

いくつか解釈例をご紹介します。

1、
一般的には、持統天皇が帝都藤原京のすぐ近くにある香具山を臨んで、新しい季節の到来を詠んだ歌だとされ、香具山は高さ百メートル余りの低い山なので、山腹に白い衣が干されているのが、すぐにそれと理解できたのであろうと解釈されます。

2、
また、謀略的な解釈としては、詳細は省きますが、「政権奪取に成功した、してやったり」と詠んだ一首であるというのも目にしたことがあります。

3、
さらには、凡庸な解釈ですが、持統天皇自らが女官らとともに洗濯をして、夏になって水がひんやりして…と愛が感じられる歌であるというのもありました。

いずれでもいいのですが、「万葉集」を単なる歌集ととらえると間違います。

とくに天皇クラスになると、そこには歴史や当時の政治色が秘められているのです。

編者とされる大伴家持らも、その歌意を見抜いて選出しています。

持統天皇のこの御製は、字面のまま受けとると、当たり前すぎて“歌”になりません。

そうではなく、当時を映した深い意味が込められています。

今でこそ万世一系は当たり前ですが、完全に定着をさせたのは、知る人ぞ知る持統天皇の功績です。

皇太子草壁皇子が若くして薨御されたため、のちの持統天皇こと鸕野讚良(うののさらら)皇后は、自ら皇位に就いて、孫(草壁皇子の皇子)に譲位し何がなんでも皇位を継承させることによって、万世一系を根づかせようとしました。

それゆえ、神代からの“万世一系”を記した『日本書紀』は、持統天皇から文武天皇への譲位で終わっています。

この一首は、孫の文武天皇へのスムーズな譲位を願って詠んだものです。

「春」から「夏」に当たり前のように季節が変わるように、持統天皇(春)から孫の文武天皇(夏)へ、即位のときの麻の麁服(白妙の衣)を着せたいものだ(ほしたり)という歌意です。

それゆえ単なる香具山ではなく、山頂に国常立神を祀る天孫由縁の「天の香具山」と詠んだわけです。

持統天皇が異常なほど珂瑠皇子(かるのみこ)こと「文武天皇」(第42代)への譲位にこだわったのは、当時の人であれば常識的なお話です。

夫、天武天皇の遺志を実現して、二度と皇位争いを起こさないよう「日本の礎」(万世一系)を築きたいという願いと決意が込められた一首です。

「春過ぎて夏来るらし白たへの衣乾(欲)したり天の香具山」





宝満山「竈門神社」
2019.04.18
先の「高祖山」(たかすやま:クシフル岳)につづき、宝満山は「竈門神社」(かまど じんじゃ:上宮)に参拝登山をしてきました。

高祖山のふもとにある「高祖神社」(たかす じんじゃ)のご祭神は、彦火火出見命(ひこほほでみ のみこと)を主座に、玉依姫命(たまよりひめ のみこと)と、息長足姫命(おきながたらしひめ のみこと:神功皇后)です。


一方、竈門神社は、「玉依姫命」をご祭神とします。
玉依姫は、ご存じのとおり『日本書紀』では、神武天皇こと彦火火出見命の母親とされています。

宝満宮竈門神社の交通安全祈願には、次のように記されていました。

ご祭神玉依姫の命は、御子神武天皇の御東征に当り、この宝満山に陸路航海の安全をお祈りになったと伝えられています。(以下、略)


また、宝満山の山頂付近の「馬蹄石」(ばていせき)には、次のように縁起が記されていました。

玉姫(ぎょっき)降神すれば則(すなわ)ち山谷(さんこく)鳴りて震動す。
心蓮(しんれん)座に登れば則ち天華(てんげ)飛びて繽粉(ひんぷん)たり。
天武天皇白鳳(はくほう)2年(673)2月10日の辰の刻に法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、この山の開山である心蓮上人が宝満山に籠(こも)り、樒閼伽(しきみあか)の水を持って修行していたところ、俄(にわ)かに山谷が震動し、何ともいえない香りが漂い、忽然(こつぜん)と貴婦人が現われ、「我は玉依姫なり。現国(うつしくに)を守り、民を鎮護(ちんご)するためにこの山に居ること年久し……」と告げたかと思うと、たちまち雲霧がおこり、貴婦人は姿を変じて金剛神となり、九頭の龍馬(りゅうめ)に駕(が)して飛行した。
その時の龍馬の蹄(ひづめ)のあとが、大岩の上のくぼみであると言い伝えている。


さらに、「竃門神社の由来」は次のとおりです。

第40代天武天皇の御代白鳳2年(紀元673年)法相宗の心蓮という僧が宝満山に篭り、常にシキミアカの水をもち修業しでいた2月10日の朝、俄に山谷が震動し何ともいえない香が漂い忽然として貴婦人が現れて
「我は玉依姫の霊、現国を守り民を鎮護せんためにこの山中に居すること年久し異賊国を傾けんとすること甚だし吾、皇紀を守る神としてこの山の上より海内を塞(ふさ)き、ある時は山の形、水に映り岩の如く波を起こし、ある時は神風を吹かせて賊の船を覆し、神光を飛ばせで船中を迷動す。これによって異賊来るを得ず」
と心蓮に告げたかと思うと、たちまち雲霧が起こり貴婦人は姿を変じで金剛神となり、手に錫杖を携え九頭の龍馬に駕して飛行した。
(その時の龍馬の蹄(ひずめ)の跡が竃門神社上宮の少し下に馬蹄岩として残っている)
さて心蓮は玉依姫命の示現に大変感激し、このことを天皇に奏聞すると、天皇は有司に宣下して社を建立した。
これが宝満山山頂(829m)に建っでいる竃門神社の起元であると伝えられている。


真偽はともかく、『日本書紀』の「神代」(下)に記されている一般に紀元前660年以前とされる神武生誕の母として、玉依姫は登場します。

ほかの地域の神社はよくわかりませんが、九州北部では「玉依姫」「応神天皇」「神功皇后」が、案外と一緒に祀られていることが多いのです。

応神天皇というのは、『日本書紀』で唯一、出生地が記されている天皇で、その場所が、宝満山のすぐ北の宇美町(うみまち:宇美八幡宮)の地とされています。

ですが、「応神天皇」と「神功皇后」の母子神は、『日本書紀』では3世紀のお話です。
なぜ、紀元前7世紀の「神代」に出てくる「玉依姫」とともに祀られているのでしょうか。

ここには、『日本書紀』(古代史)の秘密が隠されています。


実は、「神武天皇」の東征モデルの一つとなった出来事が、いずれも四男である「応神天皇」なのです。
一方、「神功皇后」は、「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国の2代目女王「台与」(とよ)と重なります。

つまり、機会があれば詳述いたしますが、宝満山奈辺が「邪馬台国」に比定できるのです。

邪馬台国を有する「九州倭国連合」は、3世紀末に“台与”こと神功皇后を旗頭に、『日本書紀』でいう“大和帰還”、実質的に「東征」を男王ともくされる武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに行なっています。

いわゆる「邪馬台国東遷説」ですが、九州倭国連合(邪馬台国=やまと)が東征し、より全国規模の初期「大和(やまと)連合」を築くことになります。



 

[画像左] 山頂のご神体とされる「岩」。“えんむすび”をうたっている竈門神社ゆえか、それとも先にこの二枚岩があったゆえに“えんむすび”の神社にしたのか。写真内の白フチ画像は、ご神体を横から見たもの。ひとつ岩にしか見えない。

[画像右] 山頂に建つコンクリートの神明造りの竈門神社(上宮:白フチ画像)の真後ろにある岩。二枚岩より高い位置にあり、社の真後ろにあることから、こちらがほんとうの“ご神体”ではないでしょうか。岩には「寶満山上宮」と印刻されているようです。







高祖山・クシフル岳に登頂
2019.03.23
邪馬台国が記された“魏志倭人伝”(倭人条)に出てくる古代倭国の王都「伊都国」(いとこく、現福岡県糸島市)にある「高祖山」(たかす やま)に登ってきました。

標高は416メートル。

神楽が年2回奉納される由緒あるふもとの「高祖神社」(たかす じんじゃ)から、直登コースを選び、後半、急な斜面をふくめて、約1時間ほどの山頂を目指す登山です。

天気予報では当日のみ100%の降水率でしたが、朝の出発までにはあがり、登頂は曇りときどき晴れに恵まれました。

実は、高祖山の南東に連なる「クシフル山」(クシフル岳、槵触峯)が“目的”です。

記紀に詳しいかたならご存じのように、瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)が“天孫降臨”したと記述されている山です。

●『日本書紀』神代(下)一書より抜粋

皇孫(瓊瓊杵尊)を筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)にお届けした。

●『古事記』(上)より抜粋

(邇邇芸命:ににぎのみこと) 竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂のくしふるたけに天降(あまくだ)りましき。(中略) 
「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来(まき)通りて、朝日の直(ただ)さす国、夕日の日照る国なり、かれ、此地はいと吉(よ)き地(ところ)」と詔りたまひ…。
(以下略)

天孫降臨の地は、一般に宮崎県の高千穂とされますが、それは理由あって、記紀編纂後、今の宮崎県を「日向」とのちに命名し、筑紫の日向の伊都国が実際の“天孫降臨”の地だと知られないようにしたためです。

その理由は、宝瓶宮占星学サイトにも書いた記憶がありますので、ここでは省略いたします。

誰もがわかる理由を書きますと、宮崎の高千穂からだと、上述の『古事記』に記されているような「韓国」(からくに:唐国、半島や大陸)は臨めません。
(霧島山群の最高峰「韓国岳」では何の意味もありません)

しかし、標高416メートルの高祖山(くしふる山)からは、北に玄界灘を臨み、天気がよければ壱岐や対馬を見ることができますし、近くの背振山であれば、韓半島南部の山頂部をぎりぎりながら臨めます。

さらに、「笠沙の御前」(かささのみさき)というのは、現在の「糸島半島」のことで、当時は半島の付け根両脇が糸島水道(入江、港)になっていたので、高祖山(くしふる山)から見ると、ちょうどキノコの“かさ”のように見えることから、“笠沙のみさき”と呼んだようです。

大陸方面(韓国)と糸島半島(笠沙の岬)の延長線上の南に高祖山(くしふる山)がありますので(下図ご参照)、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて…」という表現はピッタリです。

また、高祖山連峰の東西は平野部なので、「朝日の直さす国、夕日の日照る国」というのも納得です。

補足しておきますと、高祖山連峰の南端に「日向峠」の地名が今も残ります。

さらには、旧「伊都国」(糸島市、高祖山をふくめ西方面)には、天孫降臨した「瓊瓊杵尊」を祀る神社が10社ほどもあり、その子「彦火火出見命」(ひこほほでみの みこと=山幸彦)を祀る神社も6社ほど、さらに孫の「鵜茸草茸不合命」(うがやふきあえずの みこと)を祀る神社も同数ほどあるなど、10km圏内に密集しています。

高祖神社もまた山幸彦こと「彦火火出見命」(妻は豊玉姫)を主祭神に、玉依姫と息長足姫命(神功皇后)の三柱をお祀りしています。

ちなみに、「鵜茸草茸不合命」というのは、初代「神武天皇」の父親です。

神武天皇の実在はともかく、そのモデルとなった人物や出来事があったのは事実で、三種の神器「八咫鏡」(やたの かがみ)と同類ではないかとされる日本最大、直径46.5cmの「内行花文鏡」(ないこう かもん きょう)が発掘された「平原古墳」は、高祖山(くしふる山)の眼下、西の平野部で発見されました。

地図に「高祖山」は掲載されていますが、現在、「くしふる山」の名称は、地元の伝承に残るのみです。


●高祖山連峰


いちばん高い峰が「高祖山」(たかすやま)です。
その右側が「くしふる山」(クシフル岳)と呼ばれていました。


●高祖山と糸島半島の位置関係(古図)


標高416mの高祖山(くしふる山)から見ると、糸島半島は古代、付け根に入り江(湾)が両脇にあったために、高祖山(くしふる山)からだと「笠」のように見えます。
その先に“韓国”(からくに=大陸と半島)が位置しますので、「この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来(真っ直ぐ)とおりて」という表現はぴったりときます。





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