阿蘇神社の“ナゾ”
2019.01.11
熊本大地震で重要文化財の「楼門」と拝殿が倒壊した阿蘇神社は、本神殿のみが残り、はだか同然になっていました。

「楼門」の復興には10年がかかるといわれ、お正月は参拝者で賑わっていたものの、全国に約450社もある阿蘇神社の総本社、肥後第一宮としては、どこかさびしげでした。

もっとも、地元の人は、一説によれば、阿蘇神社の“元宮”ではないかとされる北宮こと「国造神社」のほうが古いと語っています。

タクシーの運転手さんも「定かではないけど…」と前置きしつつ、似たようなことを推測まじりで言っていました。

ただ、阿蘇神社の歴史は古く、阿蘇山のカルデラが湖だったころ、その半分ほどを占める大ナマズを退治した「武磐龍命」(たけいわたつのみこと)をご祭神とします。

大ナマズ退治で思い出すのは、『日本書紀』に記される国譲りを迫った武甕槌神(たけみかづちのかみ)も同じように大ナマズを御していますので、同一神か、もしくは同族いわゆる「天孫族」です。

一方、武甕槌神(『古事記』では建御雷神)に敗れた「建御名方命」(たけみなかたのみこと)は、諏訪に逃れたとき、大ナマズが背に乗せて諏訪湖を渡ったとされています。

とはいえ、実際に阿蘇カルデラ(外輪山)の半分ほどを占める“大ナマズ”などいるはずもなく、縄文時代に珍宝や鉱物をもとめて日本にやってきた古代オリエントの一族が、阿蘇のカルデラ内に根づいていたということです。

阿蘇神社の創建は、武磐龍命とともに大ナマズを退治した第一御子の「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)が、両親を祀るために建立したとされています。

三つ並んだ本神殿の“一の神殿”には、父親の「武磐龍命」(神武天皇の孫神とされる)が祀られ、右側の“二の神殿”には、母親の「阿蘇都比咩命」(あそつひめのみこと)が祀られています。

中央奥の小さめの諸神殿には、「速瓶玉命」(阿蘇初代国造:時代が合わない)自身が祀られています。

え? 国造神社の主祭神も「速瓶玉命」ですが、2箇所とも…?

どうも、そこにはカラクリがあるようで、実は北宮こと「国造神社」の脇には、「大鯰の霊」を祭神とする小さな「鯰社」があります。

なので本来は、阿蘇を治めていた“大ナマズ一族”の神社だったと考えられます。

新しい支配者が、前の支配者の一族の神を脇に押しやって、自分たちの神を祀るのはよくある歴史上の出来事だからです。

その証拠は、阿蘇山のカルデラが湖だったころ、北の山麓に現在でいう「国造神社」の前身(名称不明)が建てられていて、水が引いたのちに平地部に、阿蘇神社が建立されたと考えられるからです。

そんな元湖だった地盤の弱いところに頭の重たい不安定な楼門を建てたら、地震で壊れる可能性が高いのは当然です。

それはともかく、功績のある父親の「武磐龍命」よりも、地理的に高い山麓の位置で、方角的にも貴い北に御子の「速瓶玉命」を祀る神社を新たに建てたとは考えられません。

なので、もともとあった神社に後世になって祀られるようになり、名称を「国造神社」と改めたといえます。

現名称「国造神社」は、正面に阿蘇の中岳(火口)を望みます。

その中間ほどの場所に阿蘇神社があるのですが、阿蘇神社の参道は、国造神社と中岳(火口)のライン上にまっすぐに伸びています。

かといって、国造神社と阿蘇神社は対峙しているわけではなく、この参道、実は全国でも珍しい横参道なのです。

つまり、国造神社は北極星を背に、南に向いて中岳を望む位置にあります。

これに対して阿蘇神社は、東を向いていて、北の国造神社方向からはじまった参道は、倒壊した楼門の後ろで右に阿蘇神社の正面の拝殿になるといういびつなかたちになっています。

2年前の熊本大地震では、参道をはさんで左の「楼門」と右の正面となる「拝殿」の両方が倒壊し、その奥の「本神殿」3つだけが残りました。(画像左参照)

熊本城も大きく損傷する大地震に見舞われ、楼門と拝殿は倒壊(画像右参照)したにもかかわらず、「本神殿」だけは壊れなかったところに、まだ“御神護”が残っているようです。


 

●拝殿が倒壊したため更地に整地中で、阿蘇神社の本神殿を眼前に望める2019年1月現在の画像(左)と、2年前の地震で倒壊したときの楼門と拝殿の空中写真(右)。奥が壊れずに残った写真左の本神殿になります。







日本古来の「かんながら」
2018.11.21
一般に「かんながら」(かむながら)といえば、次のように言われます。

●惟神の道(かんながらのみち)
神道の別名。
随神道とも書き、神意のまま、すなわち、人の私心を加えない本来の道のことをいう。
神代より続いてきた清く明るく直き正しき道に、いささかも手を加えることなく、そのままに従って行動する道を意味する。
『日本大百科全書』(ニッポニカ)「神道用語集」

本当でしょうか?

漢字では、「随神」や「惟神」などと書きますが、すべて当て字です。

なぜなら、漢字が日本に入ってきて「神」といったワケのわからない文字をあてたのであって、それ以前から「かんながら」(かむながら)ということばがありました。

漢字で「神」と書いてしまうと、どうしても一神教の「神」(The GOD)といった、“創造神”や“全知全能の神”また“唯一の神”といったニュアンスが混じってしまいます。

そうではなく、「かみ」という古代日本語は、「おかみ」(お上)や「おかみさん」(女将さん)と共通した、もっと身近な意味をもっていました。

つまり、「おかみ」(お上)といえば、指示を出す“おおもと”の江戸幕府だったり、官庁などお役所のことをさします。

また、川がはじまる“おおもと”に近い上流を、川上というのも「かみ」なのです。

それと類似で、「おかみさん」(女将さん)といえば、料亭や旅館の経営者だったり、切り盛りする指示を出す「女性」のことをいいますが、もっと身近に「母親」も、「うちのかみさんが…」というように「おかみさん」なのです。

では、なぜ、「おかみ」なのでしょうか。

土偶「縄文のビーナス」などをみても、縄文時代は“妊婦像”が多いことに気づきます。
なぜなら、古代、妊婦(女性)は「かみ」だったからです。

なぜ「かみ」かといえば、女性(母親)から人が生まれ出てくるからです。

つまり、「かみ」という日本語は、本来、何事かが出ずる“おおもと”のことだったのです。

なので、『古事記』や『日本書紀』でいう、たとえば「天照大御神」などというとき、「かみ」(神)という尊称で、“おおもと”となるご先祖(始祖)さまのことをあらわしました。

ちなみに、さまざまな「かみ」(神)のなかで、さらに最初のご先祖さまを「おおみかみ」(大神、大御神)といいます。

「おお」(大)ということばもまた、“長男長女”などのように、順番で最初を意味しました。

ということから、「かんながら」というとき、本来はご先祖(かみ)さまとともにあるということを意味します。

重要なのは、その「かみ」が必ずしも人間とはかぎらず、大自然の「かみ」をも意味していたことです。

なぜなら、人は死して大自然にかえりますが、同じように人は大自然にから生まれ大自然によって生かされていることを縄文人(日本原住民)は実感していたからです。

なぜなら、縄文時代の日本列島は、大自然の環境や食物に恵まれていたからです。

なので、「かんながら」というとき、大自然など八百万の神々とともにある「自然崇拝」や「祖先崇拝」といったことを意味し、“共存共生”の精神や、“おかげまさてといったことも意味していました。

ひるがえって、砂漠の民だった古代イスラエル民族や、16世紀にジャガイモが南米から入ってくるまで食糧事情に乏しかった西洋は、大自然は克服するもととらえていましたので、古代日本は異なっていたのです。

大自然のキレイで豊富な水や山海の食料に恵まれた「縄文時代」の日本人は、しぜんと「かみ」(大自然、八百万)とともにある「かんながら」の精神(日本的霊性)をつちかっていたわけです。





古代日本の黎明 feat.占星学
2018.10.04
新連載「古代日本の黎明 feat.占星学 ―古代オリエントの影響―」に、ご参考の「序:明治維新と星の動き」に続き、正式な記事として、「その1:DNAからみた「日本原住民」と、「その2:縄文時代の日本列島」をアップしました。

これまで明かされてこなかった日本人とその独自の文化のルーツを、占星学のリーディングを交えて解き明かしてご紹介してまいります。

これまで「縄文時代」は、偏向した“歴史学者”らによって隠匿されてきました。

彼らが信条とする「マルクス史観」によって、日本のすべては「大陸」(中国)や「半島」(朝鮮)から来たと“信じ”また“思い込み、”研究発表してきたために、それと異なる事実が明らかになると都合が悪く、「理解不能」とばかりに闇に葬ってきたのです。

その反面、自らの“信条”に都合がいいように、歴史事実を捻じ曲げ“ねつ造”してきた戦後の「歴史学会」や「マスコミ」、また学校で教えてきた「日教組」などの組織的な“国民洗脳”の過去があります。

しかし、近年、科学的なDNA研究や考古学の発見によって、彼らが作り上げてきた“大陸や半島のほうが進歩的”とする“日本劣等”の歴史のウソが、暴かれつつあります。

ただ、それらは現状では、断片的にしか発表されていません。
まだまだ隠された事実があります。

そのため、宝瓶宮占星学の「星のディレクション」をまじえた歴史認識から、“一本の糸”として白日のもとにさらしていく試みです。


上記の2つの記事は、それぞれ次のようにアップしています。

●新連載「古代日本の黎明 feat.占星学 ―古代オリエントの影響―」

序:明治維新と星の動き」……2018年9月10日アップ

その1:DNAからみた「日本原住民」」……2018年9月20日アップ

その2:縄文時代の日本列島」……2018年10月2日アップ

※次回予定「古代オリエントの影響」(仮題)


お気が向きましたらご高覧をたまわりたく存じます。






宇佐神宮「ご神紋」の誤解
2018.09.04
数日前、ネットで画像検索をしていたんですよ。

そしたら、「宇佐神宮の神紋と琉球王国の紋章が同じ」という一文があって、ビックリしました。

もし、そうであれば「古代日本成立の原点」が異なってきます。

宇佐神宮といえば、古代では「宇佐八幡宮神託事件」が有名です。

日本で最初に「天皇」と号した天武天皇の皇統で皇子がいなくて最後となった称徳天皇の代に、「道鏡が皇位に就くべし」というご神託があったというお話です。

なぜ、宇佐神宮(宇佐八幡宮)のご神託が、それほど当時の皇位継承に重要だったのかといえば、いろいろ説はあると存じますが、天武天皇のルーツにかかわっていたからです。

ここでの詳しいご説明は省きますが、天武天皇と“海人族”また“大分君”(おおきだのきみ)の関係は、天武天皇の本来の諡号が、「天渟中原瀛真人天皇」(あまのぬなはら おきの まひとの すめらみこと)というくらい、実は深い関係があります。

現在の大分県は国東半島(くにさきはんとう)の付け根にある「宇佐神宮」が、紋章を通じてとはいえ、琉球王国とかかわりがあるというのであれば、歴史がひっくり返るくらいサプライズなのです。

で、結論です。

間違いです。

「宇佐神宮の神紋と琉球王国の紋章が同じ」というのは、どうやら「三つ巴紋」をゴッチャに理解しているからです。





三つ巴にもいろんな種類があって、上図には省きましたが、重なった「重ね三つ巴」がありますし、上図の左下に掲載した少し離れた「琉球王家の三つ巴」、そして上図下中央のふつうの「三つ巴」、さらには右下の少し尾を長くした「有馬三つ巴」、そして渦巻きを象わす、さらに長い「尾長三つ巴」などがあります。

宇佐神宮は、三柱の神を祀っています。
第二御殿の「比売大神」(ひめ おおかみ)の紋章が、宇佐神宮を代表する神紋で、単なる「三つ巴」ではなく「尾長三つ巴」に近いものです。

実際、宇佐神宮のお賽銭箱に「神紋」が飾られていますが、それをみても「琉球王家の紋章」とは異なる“尾長三つ巴”に近いものになっています。

ちなみに、宇佐神宮に祀られる三柱の神のうち、第一御殿の「八幡大神」(誉田別尊:応神天皇)と、第三御殿の「神功皇后」(息長帯姫命)は、実をいえば、あとから祀られたご祭神です。

もっとも、由緒では、宇佐神宮の裏山にある大元山(おもとやま)にある元宮の「比売大神」のほうが、あとから祀られたとされています。

いずれにしても、八幡大神(応神天皇)の紋章とされる「十六(弁)八重菊紋」も、神功皇后の「五七桐紋」(ごしちのきり もん)も、3世紀または5世紀にはありませんでした。

日本に菊が伝わったのはその後ですし、「五七桐紋」のような複雑な紋章が3~5世紀の当時にあったとは思われず、実際、数世紀を経たあとの天皇の時代にはじまったものとされています。

現在、天皇紋として知られる「十六(弁)八重菊紋」が正式に天皇家の紋章として定められたのは、「明治維新」直後の明治2年8月25日「太政官布告第802号」によって、天皇家以外に使ってはならないと定められてからです。

「十六(弁)八重菊紋」は、それ以前の12世紀の後醍醐天皇が愛用したことで知られていますが、「五七桐紋」と同様に、さほど古い紋ではないというのが実状です。

ということもあって、「菊紋」が似ているなどといった理由から「天皇シュメール起源説」などが語られていますが、ほかにも理由があって完全な間違いです。




国東半島の「ケベス祭り」
2018.08.26
大分県の国東半島(くにさき はんとう)に奇祭と呼ばれる「ケベス祭り」があります。

毎年、10月14日に行なわれますが、祭りの起源も由来も意味も不明の“火祭り”なのです。

祭りの概要は、まず祭りを行なう前に、“トウバ”(当場)の男たちが素っ裸で海に入りみぞぎを行ないます。
このあたりは、宗像大社で、かつて女人禁制(今年からは男子も禁制)だった「沖ノ島」に上陸する際に、男たちが素っ裸で海に入り、みそぎをするのと同じです。

ケベス祭りの次第は、2メートルほどの木の棒をもち、木のお面をかぶった“ケベス”とされる白装束の男が、神社の広場で燃やされているいくつかに束ねたシダの“庭火”に向かって、棒を槍のように構えて突進し、燃え盛る“庭火”をまき散らそうとするものです。

ですが、幾度となく(8回)同じく白装束の男たちに拒まれます。

この絡みは、ある程度は演技なのですが、どうやら本気の力比べでもあり真剣なようです。

ついには9回めにケベスは“庭火”に達し、木の棒でかき回します。
すると炎は5メートルほどにものぼり、火の粉がハデに舞い散ります。

これを機に、今までケベスの邪魔をしていた白装束の男たちは、木の棒の先に“庭火”をさして、なんと観客たちの頭上に次々と振りかざしていくのです。

舞い散る火の粉は、遠慮なく観客たちを襲い、あちこちで悲鳴があがります。

ですが男たちは、さほどお構いなしに観客に火の粉をふらせ、中には棒の先の燃え盛る“庭火”を観客たちのなかに放り投げることさえあります。

では、なぜ、このような“ケベス祭り”が、国東半島で1,000年以上にもわたって毎年行なわれているのでしょうか。

真相は定かではないのですが、個人的には次のように考えています。

国東半島といえば、紀元前7~8世紀ころに、古代オリエントの人々が赤土(酸化鉄)による製鉄を行なっていた場所です。

“ケベス祭り”が、内陸ではなく国東半島の東端の海岸沿いの岩倉社(いわくら しゃ)で行なわれるというのも、世界に先駆けて航海術をもった「フェニキア人」が、世界ではじめて鉄器文化を築いた「ヒッタイト人」を母に持つ古代イスラエルのソロモン王の依頼を受けて、金銀や珍宝また鉱物資源をもとめて「古代イスラエル人」とともに世界を航海し、日本にも来ておだやかな内つ海に面した国東半島付近を拠点のひとつにしていたからです。

事実、“ケベス”というのは、古代ヘブライ語(旧約聖書)で「子羊」(כבש:ケベス、ケヴェス)を意味します。

なので、火を用いた「ケベス祭り」というのは、古代イスラエル人が神への燔祭(はんさい)の「子羊」(ケベス)を捧げた祭りで、観客たちが火の粉を浴びるのも、また観客たちに火の粉を浴びせて当然としているのも、要は神への燔祭の子羊であることを意味し、“信仰”の証なのです。

「ケベス祭り」の長い歴史において、いろんな解釈を勝手に付加した一面がないとはいえませんが、木のお面をかぶっている以上、“ケベス”とされる白装束は何かの化身であり、人間ではないことは確かです。

一方、同じく白装束のトウバたちは、お面をかぶっていないので人間です。

ということで、どうみても日本語とは思えない「ケベス」という言葉が、古代ヘブライ語で燔祭の「子羊」をさすのであれば、『旧約聖書』から祭りの内容も推測できてしまいます。

詳しいご説明は、機会があれば「宝瓶宮占星学」サイトにアップすることがあるかもしれません。





中津宮と沖ノ島への参拝
2018.08.09
福岡県北岸にある宗像大社。

ご存じ天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれたとされる「宗像三女神」こと「田心姫神」(たごりひめのかみ)、「湍津姫神」(たぎつひめのかみ)、「市杵島姫神」(いちきしまひめのかみ)がまつられています。

『日本書紀』の一書(あるふみ、別伝)には、これら三柱の女神は、「道主貴」(みちぬしむち)といわれ、筑紫の水沼君(みぬまのきみ)らの祭神であると記されています。

詳しいご説明はともかく、“三貴子”(みはしらのうずのみこ)というのは、本来、「大日霎貴」(おおひるめのむち)、「大已貴神」(おおあなむち、おおなむち)、そして「道主貴」(宗像三女神)であるはずですが、一般的には「天照大神」、「月の神(月読命)」、「素戔嗚尊」を三貴子と呼びます。

つまり、大日霎貴は「天照大神」に、道主貴は「月の神(月読命)」に、大已貴神は「素戔嗚尊」の系統として『日本書紀』に描かれているわけです。

また、「宗像三女神」の一人、沖ノ島に祀られる「田心姫神」は、『古事記』では多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、また『日本書紀』では別名を「奥津島比売命」(おきつしまひめ)と記され、一書(あるふみ)では、辺津宮(宗像大社)に祀られている「市杵嶋姫神」(いちきしまひめ、市寸島比売)の別名ともされていています。

多分、本来は同一神です。

宗像海人族が、海路の安全を願う“守り神”としての三柱の女神なので、実態はなく、強いていえば大国主神に嫁いだ「多紀理毘売命」が、田心姫神をはじめとした市杵嶋姫など“海の女神”として祀られるようになったといえます。

沖ノ島は、島全体が“ご神体”とされ、これまで「女人禁制」として知られてきました。

ですが、今年2018年からは男子も立ち入り禁止と定められ、10日交代で祭祀をつとめる神官のみが常駐しています。

ただし、江戸時代には福岡藩が防人をおいたという記録が残っています。

一説では、沖ノ島が本格的に“神域化”されたのは、明治になってからという説があったり、「女人禁制」の記録は17世紀までしかさかのぼれないともいわれますが、これらは間違った理解です。

なぜなら、明治になってからも人が渡っていた反面、信長秀吉の安土桃山時代の軍船ならともかく、17世紀以前に手漕ぎの舟でもって、庶民が荒れることで知られる玄界灘を、約60km近く離れた「沖ノ島」に出入りすることは無理だったからです。

潮の流れもあって、時速2~3ノットの手漕ぎの舟だと、夜明けから日没まで半日間、休まずに漕ぎつづけても着きません。

17世紀以降、平和な江戸時代になって海運が発達し、物資輸送に従事する廻船が全国的になって以降、「女人禁制」の禁忌が一般にも知られるようになったといえます。

事実、今回、中津宮のある「大島」から、航海速力27ノット(時速50km)の動力船でも1時間強かかりました。

眼前に見る沖ノ島は、たしかに人を寄せつけないような“神々しさ”を秘めていて、“ご神体”(神の島)と呼ばれるのも納得です。

2600年以上昔の古代フェニキアの世界最先端の帆付きの二段櫂船でも、見渡すかぎり水平線しか見えない大海原を、どれくらい進んでいるのかもわからず、航海し続けていくわけです。

ましてや、古代海人族の船で、周囲4km、標高243mの沖ノ島が見えれば、板子一枚底は地獄の海のなかに、まるで“神”を見出すような体験をもたらした沖ノ島だったはずです。

島面積のわりに高い最高峰の「一の岳」にのぼれば、天候次第ですが、大島や九州・山口が見え、位置や方向を確定できます。

実際、立地をみればわかりますが、玄界灘を進む船にとって、対馬からも、また壱岐からも、九州北岸からも、また本州西端の山口沿岸からも、いずれも50km~70kmといった大海原の真ん中に沖ノ島は位置します。

そんな「沖ノ島」は、宗像海人族にとって、中継拠点であることはもちろん、“守り神”となる要衝の島だったのです。




「湍津姫神」を祀る中津宮。神湊(こうのみなと)から7kmほど離れた大島あります。


沖ノ島近影。手前のテトラポッドに囲まれた港内に上陸用の桟橋が設けられています。


一の岳。沖ノ島の最高峰 標高243m、灯台があり、神官が日本海海戦を目撃しています。

※九州北岸、宗像市の隣にある福津市の「対馬見山」の標高も243mです。なので、同じ高さで対馬に近い沖ノ島の「一の岳」から「対馬」が見えることになります。
また、243mあれば比較的平らな「壱岐」も望める計算です。当然、高い山がある「九州」や「本州西端」は指呼の範囲です。実は、沖ノ島の“秘密”がここにあります。




「天孫降臨」の虚実
2018.07.28
『日本書紀』のお話です。

初代「神武天皇」の曽祖父にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、「高天原」から地上に降臨されます。
いわゆる「天孫降臨」です。

ここでご質問です。
では、瓊瓊杵尊を降臨させたのは、だれでしょうか?

「天照大神!」

ブブーッ! 違います。
『日本書紀』が正史と定めた「本文」には、次のように記されています。

●『日本書紀』神代(下)「本文」より抜粋

「さて、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で瓊瓊杵尊を包んで降らせられた」

なので正解は、『日本書紀』が「皇祖」と記す「高皇産霊尊」です。

もっとも、『日本書紀』には正史と定められた「本文」のほかに、「一書」(あるふみ)が併載されています。
一書(あるふみ)というのは「別伝」や「異伝」のことで、“こういう伝えもあるよ”という諸説です。

当該「一書」(第一)には、次のように記されています。

●『日本書紀』神代(下)「一書」より抜粋

「そこで天照大神は、瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)および八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を賜った。
また中臣の遠祖、天児屋命(あめのこやねのみこと)、忌部の遠祖の太玉命(ふとたまのみこと)、猿女の遠祖の天鈿女命(あめのうずめのみこと) ―中略― をつき従わされた」

本文(正史)にはありませんが、一書には、「三種の神器」や、瓊瓊杵尊の天孫降臨につき従った「五部神」(いつとものおのかみ)が記されています。
これらは、天照大神の「天岩戸隠れ」にも出てくる随神です。

なぜこのような一書が付記されたのか、事情をご説明いたします。

『日本書紀』が編纂された7~8世紀に、当時の「持統天皇」、孫の「文武天皇」、そして『日本書紀』編纂にたずさわった「藤原不比等」(中臣氏)らになぞらえたものです。

持統天皇は、和楓諡号を「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)と申し上げ、高天原の天照大神を想起させようとしているのはだれにでもわかります。

つまり一書の記述は、「持統天皇」を“天照大神”になぞらえ、「文武天皇」を“瓊瓊杵尊”になぞらえて、万世一系を確立するために、持統から孫の文武天皇への「皇位継承」を正統なものとするための前例として創作した神話なのです。

同時に、随神の“五部神”も中臣氏らの遠祖として付記することで、中臣鎌足にはじまる「藤原氏」の権威と正当性をはかったわけです。

ちなみに、「本文」に五部神は記されていません。

結局、“天照大神の天孫降臨”は、当時の事情から創作されたもので、まさに“神話”というのが実情です。

それでも天武天皇の皇子「舎人親王」を総裁とする『日本書紀』編纂者が良心的なのは、歴史をねつ造することなく、あくまでも別伝として「一書」にとどめたことです。

ということで、“天岩戸隠れ”も“天照大神による天孫降臨”も、また“三種の神器”のお話も、創作されたお話です。

史実は、高皇産霊尊による(三種の神器なしの)天孫降臨で、「三種の神器」は実は7~8世紀からはじまったものです。それ以前は宝鏡「八咫鏡」と神剣「草薙剣」の「二種の神器」でした。

事実、神武天皇にはじまる「歴代天皇紀」(人代)には、「二種の神器」と神璽(しんじ、天皇の印)による王位継承しか記されていません。

天岩戸隠れにしても、岩戸に隠れたからといって、世の中が真っ暗闇になるわけではありません。
また、高千穂(宮崎)をはじめ、そんな天岩戸があること自体が、まったくのナンセンスなお話です。

ではなぜ、天照大神による天孫降臨が人口に膾炙(かいしゃ)されたのかと申し上げますと、古くは藤原氏(中臣氏)が喧伝したこともそうですが、明治維新が起きたからです。

維新後、国家神道にまとめるさいに、「素戔嗚尊」と「天照大神」のどちらを“皇祖”として祀るのか、神道会議が開かれました。しかし、紛糾して結論が出ません。

そこで、明治天皇の御裁可をあおぐことになり、天照大神が「皇祖」と決まったのです。

ということで、天孫降臨のお話も、本文の「高皇産霊尊」ではなく、一書の「天照大神」のほうが引用されるようになったというのが事実です





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