『日本書紀』まで「二種の神器」
2017.01.10
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第9弾です。


まずは、昨日アップした「三種の神器は“創作”だった」をご参照ください。

「三種の神器」は、後世の創作で、690年即位の「持統天皇」までは「二種の神器」でした。

『日本書紀』の最後を飾る「持統天皇紀」には、次のように記されています。

●『日本書紀』「持統天皇紀」より抜粋
「忌部宿禰色夫知が神璽の剣と鏡を皇后にたてまつり、皇后は皇位に即かれた」
原文:「忌部宿禰色夫知 奉上神璽劒鏡於皇后 皇后卽天皇位」

学者の中には、「三種の神器」は神話(神代)の時代から「実在した」と思っている人がいます。

ですが、実際には、天武天皇と持統天皇の孫「文武天皇」のときに「八尺瓊勾玉」が加わり、「三種の神器」となったとするのが妥当です。

「瓊瓊杵尊」の時代から「三種の神器」があったと考える学者らは、天皇の即位にさいして『日本書紀』には「鏡」と「剣」は出てくるものの、「玉」が出てこないので「璽」を「玉」のことだと解釈します。

しかし、「璽」というのは、「印」(しるし)のことで、印鑑と同様に自分を証明するものです。
天皇の場合、それを「神璽」(みしるし)といい、「八咫鏡」と「草薙剣」であったわけです。

もし「璽」が、「八尺瓊勾玉」のことであれば、「神璽」または「璽符」と書かずに、「玉璽」と書いたはずです。

天皇の即位に際して、「鏡」(みかがみ)と「剣」(みはかし)をたてまつった記録は、『日本書紀』には3か所しか記されていません。
くだんの「継体天皇」の即位(507年)のさいがその一つで、次のように記されています。

●『日本書紀』「継体天皇紀」より抜粋
「大伴金村連はひざまづいて、天子の璽符の鏡と剣をたてまつって拝礼した」
原文:「大伴金村大連 乃跪 上天子鏡劒璽符 再拜」

ここでは「神璽」ではなく「璽符」と記されているのが、どこか意味深です。
その2代後の「宣化天皇」の即位にさいしては、「神璽」も「璽符」もなく、ただ「鏡」と「剣」と記されるのみです。

それも当然で、720年に『日本書紀』が奏上されてのち、「三種の神器」は神話(神代)の時代からあったかのように既成事実化されたからです。

実際には、697年に即位した「文武天皇」から「八尺瓊勾玉」が加わり、「三種の神器」となったものです。

※この項、さらに続く。

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