「邪馬台国」の誤解4
2017.03.09
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その4」です。


多くの日本人のなかに古代史における一つの“誤解”があります。

それは、7世紀の統一大和にいたるまで日本はずっと一つの歴史を営んできたという思いです。

江戸時代とくには明治以降は、『日本書紀』や「万世一系」といった歴史観が、なかば強制的に学校教育や社会マスコミの風潮となりましたので、だれもがそのように無意識のうちに思い込んでいます。

つまり、日本は当初から一つの国だったという“刷り込み”です。

それが100%間違いだとはいいません。
日本という国の精神史からみれば、『日本書紀』に流れるバックボーンは、卑弥呼の時代にもつうじ、和を重んじた一つの国を志向していたことに間違いはないからです。

しかし、実際の歴史をみていくと、最後は一つの国に収斂されていく“国体”をもつとはいえ、そのプロセスにおいては、ずっと古代日本が一つの歴史であったとはいえない事実があります。

要は、日本は当初から一つの国だったという“観念”があるために、7世紀の統一大和の源流は2~3世紀の卑弥呼の「倭国」(女王の都「邪馬台国」)しかないと思い込んでいるのです。

そのため、古代の環濠集落跡や宮殿跡または楼観跡など、「魏志倭人伝」に記された可能性のある遺構がみつかると、すぐ「邪馬台国か」とマスコミをはじめ歴史学者の一部や歴史マニアが騒ぎ立てます。

違うのです。

当時、日本にあった卑弥呼の「倭国」(女王の都「邪馬台国」)は、ワン・オブ・ゼムにすぎません。
たとえば「魏志倭人伝」をみても、卑弥呼の「倭国」と争う「狗奴国」という国があったことが記されていますし、海をへだてた東には、同じ「倭種」とよばれた人々がいて、名称は不明ながらいくつかの“国々”が営まれていたことは当然です。

このことがわかると、畿内国(のちの大和)に宮殿跡や前方後円墳などが残るとしても、それが卑弥呼の「邪馬台国」だったということにはなりません。

実際にも、ほかの“国”だったことがわかります。

※ただし、のちには九州(倭国)勢力が大和にも移動しています。




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