「聖徳太子」は創作された 2
2017.04.14
表題「1」の続きです。

では、なぜ推古女帝の当時、蘇我馬子が実質上、大王として実権を握り、いわゆる“天皇”だったことを『日本書紀』は書けないのでしょうか。

当時の歴史をご存じのかたなら、すぐにご賢察できるはずです。

後日、「天智天皇」となった中大兄が、乙巳の変において馬子の孫の蘇我入鹿を殺害し、蘇我本宗家は途絶えました。

蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代は、実質上の“大王”(天皇)だったにもかかわらずです。

もし、『日本書紀』が、正直にこのことを記せば、隋の冊封体制から日本を独立させ、統一国家の礎を築いた阿毎多利思比狐(あまの たりしひこ)大王(おおきみ)こと蘇我大王家を、中臣鎌子(後の藤原鎌足)とともに中大兄(後の天智天皇)が滅ぼし、いわば後年の天皇が現天皇を殺害して「皇位争い」をしたことになります。

『日本書紀』は、「二度と皇位争いは起こさない」という天武天皇の強い意志のもと、万世一系の天皇の正統性を記すのが骨子(主旨、編集目的)です。

ほかにも理由はありますが、この点からも、蘇我一族が“大王”(天皇)だったことは、『日本書紀』は書くことができません。

しかし、蘇我馬子は、日本の独立と統一の礎を築いた立役者であるばかりではなく、「冠位12階」を定めるなど仏教(学問)の導入と律令国家としての近代化を図り、遣隋使を派遣するなど、隋との対等な関係を築いた功績者です。

そういった功労者の蘇我氏を、権力に執着した中大兄が滅ぼしてしまった以上、正しく記せば、いわゆる臣下が実質上の天皇を「弑逆」し、途絶えさせたことになりますので、けっして『日本書紀』に歴史として残すことはできません。

そこで「聖徳太子」を創作します。
蘇我馬子の功績は「聖徳太子」、すなわち“厩戸皇子”の功績かのように『日本書紀』に記すことで、歴史的事実とのつじつま合わせが可能になります。

推古政権を“厩戸皇子”(皇太子)と“蘇我馬子”(大臣)の2人の総理大臣が仕切ったと書かれているのはそのためです。
実はこの2人、同一人物なので当然です。

「厩戸」というのは“うまやこ”とも読めるように、蘇我馬子“うまこ”を示唆したネーミングになっています。

後世の人は、彼の遺徳を称えたのか、それとも蘇我氏の怨念を鎮めようと美称を奉ったのか、または仏教を日本に根づかせた功績ゆえか、死後50年ほどたって「聖徳太子」と別称するようになりました。

ただし、『日本書紀』に「聖徳太子」という名称は一度も出てきません。
あくまでも「厩戸皇子」または「上宮厩戸豊聡耳太子」(かみつみやの うまやどの とよとみみの ひつぎのみこ)です。


※注)
講談社学術文庫『日本書紀』(下)では、「推古天皇紀」に著者もしくは編集者が立てた小見出しに「聖徳太子の死」とあります。直後の本文にも、たしかに「夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された」とあります。ですが、これは間違いです。
『日本書紀』の原文では、「半夜 厩戸豐聰耳皇子命薨于」となっていて“聖徳太子”とはどこにも記されていません。ほかにも、原文に「中大兄」としか書かれていないのに、かってに「中大兄皇子」と書き改めるなど、一般書ならともかく、“学術文庫”としてはおそまつな一面があります。





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