「三種の神器」のルーツ 3
2017.05.29
今回は「三種の神器」のうち「草薙の剣」のルーツについてです。

草薙の剣は、ご存じのように、もともとは一書にいう「天の叢雲剣」(あまの むらくもの つるぎ)でした。
記紀によれば、素戔嗚尊(すさのおの みこと)が、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、その尾から出てきたとされています。

ここで「素戔嗚尊」は誰なのか、また「八岐大蛇」とは何かのご紹介は、煩雑になりますので、ご説明は省略いたします。
神話でいう「八岐大蛇」なる大ヘビが実在するわけではありませんし、その体内から「剣」が出てくることもありません。

それはともかく、天の叢雲剣は、『日本書紀』の「神代紀」(上)では、草薙の剣と名を変えて、今では尾張国にあるとしか書かれていません。しかし、「景行天皇紀」をよむと、日本武尊(やまとたけるの みこと)が焼津で草をはらったことによって、草薙の剣というようになったことが書かれています。

このあたりは、『日本書紀』のロジックで、「神代」と「景行天皇」の時代が錯綜しているのですが、むずかしく考える必要はなく、実は同じ時代のことを、わけあって神武東征以前の「神代」と東征以降の「景行天皇」(架空の天皇)の時代が、あたかも異なるかのように記録しているだけです。

このことがわかると、結局、天の叢雲剣こと「草薙の剣」は、出雲国が国譲りをしたさいに天孫族の天皇(大王)に国を治める“みしるし”として差し出したものであることがわかります。

ただ、ことは単純ではないのです。

なぜなら、出雲国の大国主神(おおくにぬしの かみ)の勢力は、出雲にとどまっていたのではなく、実は“神武東征”以前の畿内国こと大和をはじめ本州国の大半をすでに治めていたからです。

「大国主」という意味は、そのような日本国の国主であったことを象わします。
その豪族たちの集会地が中間に位置する畿内国(現在の奈良)であって、台与を旗頭にした北部九州連合「倭国」の勢力が3世紀末に東征し、記紀にいう「国譲り」が成立します。

その国譲りに際して差し出したのが、天の叢雲剣こと「草薙の剣」です。

なので「草薙の剣」は日本国(本州国)を治める象徴なのです。
ですが、『古事記』や『日本書紀』には、国を治める正統性が最初から天皇にあったという論旨にしていますので、そうとは書けないために出雲国のお話にして、もともとの大和の支配者をあいまいにしています。

つまりところ、でなければ大和の三輪山に出雲の神とされる「大物主神」を祀る必要がないのです。
ちなみに、男性神である元祖「天照大御神」は、大物主神(大国主神)側の大王で、最初に大和を治めていた物部氏の祖神「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてる ひこ あめのほかあり くしたま にぎはやひの みこと)だといったら驚かれるでしょうか。

一時、今でいう伊勢の内宮に祀られていたのですが、今は外宮の別宮(わけのみや)に遷祇されています。

それはともかく、三種の神器のひとつ「草薙の剣」は、本来、出雲国はもちろん、畿内国をはじめとした本州国を治めていた大国主神(大物主神、大已貴神、大国玉神 etc.)が所有していました。

国譲りに際して、その“みしるし”として天孫族の大王(俗に「神武天皇」)に差し出したものです。

それゆえ、「八咫の鏡」と「草薙の剣」を所有するものは、統一大和(日本国)を治めるものとしての“みしるし”になっています。

その後、7~8世紀になって「八尺瓊の勾玉」が三種の神器に加わりますが、こちらも同じ意味をもちます。

では、勾玉が象徴する国は、どこなのでしょうか。



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