古代史の秘密を解くカギ2
2017.07.18
『日本書紀』は、なんの目的も意図もなく記された「歴史書」ではありません。

逆に、あまりにも明確な意図と目的があって、史実をベースとしながらも相応に「虚実」とりまぜて記録されています。
まずは、その意図や目的を知ることが、古代史の秘密をとく最大のカギになります。

『日本書紀』は、第40代「天武天皇」によって発案されました。

ご存じのように天武天皇は、はじめて「天皇」と号し(名乗り)、「二度と皇位争いを繰り返さない」と誓います。
そのために天皇の地位と正統性を明白にすることを考えて、「万世一系」を創出し、『古事記』や『日本書紀』に残そうとされたわけです。

それ以前にも、各豪族また蘇我氏などが、古代史を記録していました。
しかし、天武天皇はその記述に間違いが多いとして『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じます。

その編纂は、天武天皇の皇子で「舎人親王」(とねり しんのう)が総裁をつとめます。
人の好い歌人の舎人親王ですが、同時に当代随一の知恵者「藤原不比等」も、陰に陽に編纂にかかわり、持統天皇を含めた3人でもって『日本書紀』のベースがつくられていきます。

ここからが本題です。

持統天皇の父でもあり、藤原不比等の父「鎌足」を片腕として重用した第38代「天智天皇」をふくめてもいいのですが、彼らは、『日本書紀』編纂の発案者であり、持統天皇の夫でもある第40代「天武天皇」の皇統を、歴史的に正統化し“神聖不可侵”な天皇の地位を定めることを目的としました。

なぜなら、日本国内に混乱を招く“皇位争い”を二度と起こさないようにし、「千年の大計」をもって安定をはかることが、天武天皇の遺志でもあったからです。

それゆえ、藤原不比等は、天皇の“みしるし”に八尺瓊勾玉(やさかにの まがたま)を加えて「三種の神器」とし、『日本書紀』の神代の一書ながら「天孫降臨」に“三種の神器”の相続神話を創作することで、万世一系の皇統は歴史以前の神代から定まった絶対的で不変なものとして、それまでの“二種の神器”以上に、“みしるし”を強固なものとします。

では、そのような意図をもった『日本書紀』は、どのようにすれば、過去の記録を取捨選択し、うまく皇統をつなげて、「万世一系」となるように歴史を編纂していけるのでしょうか。

この視点がもっとも重要な「古代史の秘密を解く」第一のカギになります。

具体例は、後日お届けする予定です。

ここでは、当時の歴史の解説をしておきます。

うがった見方をされる方は、天武こと大海人皇子が、天智天皇の大友皇子(追諡:第39代「弘文天皇」)から、「壬申の乱」によって皇位を簒奪したとみます。

しかし、真相は、ほぼ『日本書紀』どおりで、大友皇子(弘文天皇)側が自らの政権を確固とするために、大海人皇子を亡き者にしようとしたものです。

なぜなら、天智・大友が、もし正統な天皇(大王)の血統であれば、すでに皇位に就いていますし、吉野に出家し隠棲していた大海人皇子をわざわざ殺す必要はありません。
なぜ殺そうとしたのかというと、実は大海人皇子のほうが歴史的に「正統」だったからです。
大友皇子(弘文天皇)側は、そこに一抹の不安を抱えていたといえます。

それはともかく、天武天皇(大海人皇子)こそが正統の立場にあったために、自らの正統性を歴史的に証明すべく、『古事記』や『日本書紀』の編纂を容易に発案することができました。

一方、天智こと“中大兄”は、蘇我氏をはじめ、自らのライバルの皇子たちを次々と殺しています。
要は、権力亡者の側面をもち、その血が大友皇子(弘文天皇)にも流れていたわけです。

逆に、大海人皇子は正統で育ちが良く、権力に執着せずに天文(占い)に興味をもつタイプなので、中大兄もさほど警戒せず、むしろ娘たちを嫁がせて“仲良く”していますし、中大兄が皇位(大王)に就くことに賛成はしても反対はせず先に皇位をゆずったわけです。

そういった人の好さは、元祖日本人(海人族)の血を引く天武の血統の特徴で、一方の天智の血統はどこか凄まじさをもちます。
もっとも、藤原氏が台頭した平安時代は、天智の血統はカタチばかりの天皇に骨抜きにされます。
そんな“天皇”に天運など働くはずもなく、結果、平家から源氏へと武家政権が誕生していきます。


※注) 『日本書紀』では、天智(中大兄)と天武(大海人皇子)は兄弟として記されています。そうしなければ「万世一系」にならないためです。しかし史実は、“義理の兄弟”だとしても、両親を同じとする実の兄弟ではなく、赤の他人ではないにしても、天智(中大兄)のほうが、いわゆる父親違いの連れ子でした。









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