古代史の秘密を解くカギ5
2017.07.24
細かなことはいずれ機会をみて書くとして、古代史の秘密を解く3つのカギから何がみえてくるか、ということです。

『日本書紀』では、紀元前7世紀に神武天皇が東征してのち、畿内大和に万世一系の「天皇政権」ができたことになっています。

しかし、大和に名実ともの万世一系の天皇政権ができたのは、7世紀以降のことです。
つまり、それ(統一)までは、畿内に政権がなくはなかったのですが、結論的にいえば、九州「倭国」王の皇統(王統)がベースとなっています。

「阿毎多利思比狐大王」(あめの たりしひこ おおきみ)が九州「倭国」の政務を弟国の畿内「日本国」にゆずるまで、『日本書紀』に記される歴代天皇(大王)の大半は、九州「倭国」王のお話でした。

なぜなら、『古事記』には、ご存じのように「出雲建国」のお話が最初の1/3を占めます。
しかし、大和政権が編纂した『日本書紀』は、出雲のお話を割愛し、その後の歴代天皇記と一部に差異はあるもののほぼそのまま掲載しています。
このことは、次のようなことを示します。

1、出雲は、統一大和の天皇とは別系統。
2、九州「倭国」の大王は統一大和の天皇に連なる。

7世紀、統一大和の皇位の正統性を示すために、誰が『日本書紀』を編纂したのかという「第1のカギ」と、『古事記』との相違という「第2のカギ」から、上述のようにいえます。

つまり、阿毎多利思比狐によって、7世紀初頭に九州「倭国」と畿内「日本国」が合併します。
そののち、7世紀末から8世紀初頭にかけて、統一大和の「天皇政権」の正統性が『日本書紀』によって編纂されていくわけです。
その内容が、紀元前7世紀における“神武天皇”の当初から、統一大和の“天皇政権”だったというストーリーです。

結果的に間違っているとまではいいませんが、ことは単純ではなく、『新唐書』「日本伝」には、次のように記されています。

●『新唐書』「日本伝」より抜粋
1、その王の姓は阿毎(あめ)氏。あるいは自らいう。(中略)筑紫城に居す。
2、使者自ら(中略)あるいはいう「日本は小国にして、倭の合わす(合併する)ところとなる」と。

「筑紫城」というのは、日本でいえば“筑紫の都(街)”のことです。
そこに九州「倭国」王がいました。
今でいう太宰府天満宮のある「筑紫野市」あたりで、かつての邪馬台国に含まれる地域です。

『新唐書』では、また「日本」というネーミングについて、「日の出ずるところに近い」(九州からみて東の意)や「倭を日本が併合した」からだと述べています。
かつては倭(九州)からの使いだったのが、今は日本(大和)からの使いだというので、なぜかを問うと上述のように、倭国(九州)はその東にある日本(畿内大和)に併合された(つまり隋の時代に冊封から離れたという意)からだというわけです。

その後の一文がふるっています。
『新唐書』が記すに「これを疑った」。
すなわち、ほんとうに併合されたの? 日本国への合併は、倭国が隋の冊封体制から離れる方便だったのではないの? というわけです。

使者は言葉を濁します。
いずれにしても、7世紀はじめに日本(九州倭国を含む)は独立しました。

それゆえ7~8世紀に編纂された『日本書紀』は、「神代」(上)一書において、伊弉諾尊が日本に帰って悔いていうに「私は先にひどく汚いところに行ってきた」といって筑紫で祓(みそ)ぎはらいをされて、天照大神と素戔嗚尊と月読を生み、ここから独立日本のエピソードがはじまっていきます。

以上は「3つのカギ」から見えてくる一例で、ほかにも書くべき事実は多くあります。

要は、7世紀の統一大和までの『日本書紀』の記述は、事実とは異なり最初からの統一大和(畿内史)として編纂されていますので、とくに地域や場所に史実とは異なる点が多々あります。
それらを検証しないまま、すべてを信じると、“邪馬台国畿内説”のような勘違いはもちろん、“箸墓古墳は卑弥呼と墓”だといった誤まった歴史観を信じることになってしまいます。




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