古代史の秘密を解くカギ6
2017.07.25
『日本書紀』は、6世紀までの九州「倭国」の王をメインとした歴史を、神武東征以降、最初からの「統一大和」(畿内)の天皇(大王)の歴史として記しています。

そのため、とくに「地域」や「場所」の記述は、史実とは異なる点が多々ありますので、事実を究明しようとするときには注意が必要です。

ただし、「万世一系」の天皇として読むぶんには、多少異なる点はあっても、天皇(大王)政権はブレながらも、結局は元に戻っていますので、まだ許容範囲です。

つまり、『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じた大海人皇子こと海人族に連なる「天武天皇」は、ご本人はともかくその先祖は九州「倭国」を出自とします。

それゆえに、壬申の乱に勝利して「天皇」になったとき、自らの正統性を示し、皇位の安定による世の平和を図るべく、記紀によって「万世一系」を証明しようとしたわけです。

もちろん、7世紀初頭に九州「倭国」と畿内「日本国」が吸収合併し、統一大和の礎を築くまで、畿内国にも王がいました。

『日本書紀』は、本州畿内国の大王を、九州倭国の大王の皇統に「万世一系」かのようにつなげます。
そのキーパーソンが第29代「欽明天皇」で、両国の大王を欽明天皇の息子や娘とし、あげく第30代「敏達天皇」と第33代「推古天皇」を夫婦にしています。

この間、蘇我氏の娘を母にもつ第31代「用明天皇」と、同じく第32代「祟峻天皇」が即位し、いずれも欽明天皇の皇子とされますが、少なくとも推古天皇は大和(畿内国)の天皇で、実質的には九州倭国からきた蘇我馬子の傀儡政権になっています。

そんなことも、「3つのカギ」によって見えてくる史実の一つです。


お話は変わりますが、半島に九州「倭国」の領土があったことは、日韓中の史書にハッキリと書かれています。

戦前戦後の「日韓併合」にこだわらずに、この事実を認めないと、古代史の事実は見えてきません。
『後漢書』には、“狗邪韓国”が倭国の北西界(境界)ということが書かれていますし、『三国志』「魏志倭人伝」には、“狗邪韓国”が倭国の北岸ということが書かれています。

今回はもう一つ『三国志』「韓」の条をご紹介します。

●『三国志』韓条より抜粋
韓は帯方の南にあり、東西は海をもってかぎりとなし、南は倭と接す。
方四千里ばかり。三種あり。一に馬韓といい、二に辰韓といい、三に弁韓という。
(中略、弁韓の)涜盧国は倭と境を接す。

「韓」は今の韓国界隈ですが、その南は海ではなく「倭と接す」と記されています。
なので、半島の南端部すなわち狗邪韓国は、卑弥呼の邪馬台国の3世紀、「倭」であったことがわかります。

その後、もろもろの史書や今の北朝鮮にあたるかつての高句麗の「好太王碑」の碑文からは、「倭の五王」に連なる4世紀~5世紀はじめに、ほぼ半島全土を「倭」が席巻していたことが記されています。

もっとも、韓国人学者は例によって、「日本軍」が碑文を改ざんしたとか、読み方(主語)が違うとか、いわゆる難クセをつけて史実を捻じ曲げようとしますが、すでに改ざんはなかったことが明らかになっています。

要は、宋から“安東(大)将軍”や“倭国王”に除された「倭の五王」は、必ずしも『日本書紀』に記された天皇(大王)とはかぎらず、九州「倭国」王やもしくは出先の半島の「倭」の王だった可能性などが、「3つのカギ」をもって古代史をひもとくことでみえてくるわけです。


【付記】つい最近、2011年に発見された梁の時代の『職貢図』には、新羅が「或るときは韓に属し、あるときは倭に属した…」と書かれています。


※この項、「終わり」。




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