注目される「縄文時代」1
2017.08.28


「縄文時代」、一般的な印象としては、多分、「縄」の字や「縄文土器」のイメージがつきまとうため、古臭くあか抜けしない“文明以前”で、日々の生活にも困った時代といったところでしょうか。

なかには、「はじめ人間 ギャートルズ」で描かれたように、石斧を手にもち、毛皮の衣装を片方の肩にかけて、マンモスを追い回しているような時代を想像しておられるかもしれません。

ちなみに、マンモスが生存したのは、一般的には約400万年前から1万年ほどとされています。
ちょうど新石器時代がはじまるあたりまでです。

「新石器時代」と「縄文時代」は、規定する概念がことなるのですが、ヨーロッパなどで旧石器時代が終わるのが紀元前14,000年頃で、そのあたりから日本では縄文時代がはじまっています。
なので、縄文時代には、マンモスは寒冷地などのごく一部に個体をとどめていたかもしれませんが、ほぼ存在していません。

狩猟を中心とした原始生活のヨーロッパなどはともかく、海で魚介や森林の木の実などを採集して生活していた日本の縄文人とは生活スタイル自体が異なるのです。

というのも、世界最古といわれる中近東のメソポタミア文明が栄えたのは、チグリス川やユーフラテス川の雪解け水による氾濫などで、小麦など豊かな穀物が獲れるようになり、生活が安定しはじめたためです。

「文明」というのは、“衣食たりて礼節を知る”ではありませんが、食生活の安定による“定住”が必要です。
要は、けものを求めて山々や大地を駆け巡り、移動していく生活は「文明」とはいいません。
世界最古のメソポタミア文明でも食生活の安定による定住が可能になったのは、紀元前3,500年あたりからです。

これがヨーロッパの学者たちのいわば「文明観」でした。
なので、大河がない島国の日本には、「文明」などないと考えられていたのです。

ところが、世界でもレア・ケースといえるほど周囲を海に囲まれ、細長い列島の中心部には山々が連なるために、水量が豊富で四季の変化が大きい日本は、山の豊富な栄養素が近海に流れ込み、さらには寒流の親潮と暖流の黒潮が交わる海域に位置することから、海の幸、山の幸が豊富で、小麦などの穀物がとれなくても豊かな食生活を営むことができ相応の生活と定住が可能でした。

三内丸山遺跡などはその一例で、その採掘調査からは縄文時代にすでに1,000年以上もの定住生活をしていたことが明らかになっています。

もちろん当時は海のすぐそばにありましたし、栗の遺伝子調査からは人為による栽培が行なわれていたことも明白になっています。

これまでの世界における「文明」の概念が、三内丸山遺跡をはじめとした日本には当てはまらず、「縄文文明」という新たな文明のカタチが世界の学者から注目されはじめています。

縄文時代は、すでに15,000年前からはじまりましたが、いつの時点からかは今後の調査が必要ですが、仮に5,000年ほど前からだとしても「縄文文明」が世界最古の文明ということになってしまいます。

ちなみに、「数理法則とクオリアル・ワールド」また「宝瓶宮占星学」の人類進化や歴史パラダイムから申し上げますと、約6,500年ほど前からはじまった「金牛宮時代」の約2,160年間(計算値)には、豊かな日常生活が可能になっています。

つまり、近々でも4,500年ほど前までには日本に「縄文文明」が花開いたというリーディングが可能です。

それはともかくとして、文頭に書いた「縄文時代」のイメージを見直すべき、宝瓶宮時代がはじまっています。


※「宝瓶宮時代」…占星学上の時代区分。近代科学がはじまったあたりの1630年(日本は江戸時代初期)から宝瓶宮時代の影響圏にはいり、昭和天皇が崩御された1989年から正式に「宝瓶宮時代」がはじまります。大自然とともにあった「縄文時代」は、宇宙自然波動による「宝瓶宮時代」とも共通点をもちます。




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