注目される「縄文時代」3
2017.09.08
これまでの学校教育やマスコミ報道は、敗戦の影響を受けて、日本という国家そのものを認めず、逆に貶める方向で行なわれてきました。

歴史的には、戦前の「皇国史観」を否定する一方で、日本の文化はすべて大陸や半島から渡ってきたとするものです。
要は、大陸や半島のほうが先進的で優れているといった教育や報道で、これは戦後一世を風靡した共産主義者(マルキスト)の歴史観とも方向を同じくする反日教育でした。

そこでは、当然のことながら、“大陸から渡ってきた稲作(水耕栽培)文化による弥生時代の前の日本に文化はなく、縄文時代は未開の原始人のような生活だった”とする先入観を戦後の日本人に植え付けたのです。

しかし、学術的にも縄文遺跡の発掘から、一部の例外を除いて、世界でも特殊な縄文文明の存在が明らかになりつつあります。

ちなみに、大陸文化の影響を受けた“弥生時代”は、紀元前300年ごろにはじまったとされていました。

ところが、九州北部の弥生式土器に炭素同位体による年代測定によると、紀元前8世紀頃の遺物が付着していたとして、“国立民族歴史博物館”は、弥生時代のはじまりを前8世紀~前10世紀にまで繰り上げようとしています。
ですが、“同館”の研究発表には“意図”があって、信憑性に疑問の声があがっているのも事実です。

要は、大陸からの影響とされる弥生時代のはじまりを古くすればするほど、日本独自の縄文文化を隠蔽し、反日歴史学者の狙いどおりにもっていくことができるためです。

まず、稲作について申し上げますと、かつては半島を渡ってきたと教えられていました。
しかし、今では、大陸と半島と日本のイネのDNAなどから半島経由ではないことは、ふつうに研究している人にとっては常識です。

当然です。
半島では、つい最近の朝鮮時代まで、庶民の食卓に白米はあがってきませんでした。
ひるがえって日本では、陸稲の可能性がありますが、約6,000年前の岡山の朝寝鼻貝塚(あさねばかいづか)の地層からイネのプラントオパールが検出されるなど、半島よりもはるかに早く稲が栽培されていました。

また、大陸では、戦国時代の紀元前400年~前200年頃に鉄の鋳造技術がはじまったとされています。
しかし、日本では福岡で紀元前8世紀頃の製鉄跡が発見されたり、紀元前7世紀頃と推定される大分での製鉄跡などがあって、大陸から製鉄が伝わったとするにはつじつまがあいません。

それは木造建築においても同様です。
これまで大陸から渡ってきたとされていた木造の軸組工法が、1,000年以上さかのぼる石川県の真脇遺跡で発見されたことから、縄文時代における日本独自の技術であることが明らかになりました。

ちなみに真脇遺跡というのは、縄文前期から縄文晩期まで数千年以上にわたって定住生活が行なわれ、そこには明らかになった一部だけでも200頭以上のイルカの骨が発見されています。

さらに申し上げますと、世界最古の土器は約1万6,500年前の日本の大平山元I遺跡の縄文土器だったのですが、それを知った中国は、さほど時をおかずウソかマコトか湖南省で約1万8,000年前の土器が発掘されたと発表しました。
ですがこれ、日本チームが確認しようとしたら“盗まれてない”という返事だったとか…。

まあ、どちらでもいいのですが、要は少なくとも約1万6,500年前の縄文時代に、土器を使った文化が日本にあったということです。

そういった日本に、紀元前10世紀のソロモン王(古代イスラエルの第3代の王)の時代に、古代オリエントから珍物や鉱物を探しに、西は地中海方面をはじめ、東はインドや日本にも、ソロモンの依頼を受けたフェニキア人らの船団が来ています。

なぜ、日本なのかというと、火山地帯でもある日本列島には狭い国土に巨大断層地帯である「構造線」がいくつも地表にむき出しになっていて、容易に鉄鉱石や金銀などが採れたからです。

その代表が「糸魚川-静岡構造線」と、伊勢や四国をつらぬく「中央構造線」です。

この2つの構造線が交わる諏訪地方には、多くの縄文遺跡が残ることで有名ですが、旧約聖書に出てくる聖地「モリヤ山」と同名の“守屋山”があったり、モリヤ山で行なわれた信仰の証「イサク献祭」に似た“御頭祭”があったり、またイスラエルの神殿の四隅に使うご神木を想起させる“御柱祭”が行なわれるなど、いつの時代からか定かではないのですが無関係とはいえない状況が色濃く残っています。

フェニキア人の船に乗ったイスラエル人やヘテ人をはじめとした古代オリエントチームは、砂鉄や鉄鉱石のままでは持って帰れませんので、適所で製鉄を行ない、その技術は大陸から伝わる以前に、日本独自の「たたら製鉄」として行なわれていたと考えられます。

人類初の鉄器文明を築いたヒッタイトが滅びたのち、彼らの子孫であるヘテ人(びと)は、古代イスラエルの王にも仕え、その妻だった女性からソロモン王が生まれていることからも、それは明らかです。

さらにいえば、砂漠や荒地での生活を続けていた彼らにとって、キレイで豊富な水をはじめ、山の幸や海の幸が豊かな日本列島は、まさに東方の“約束の地”に思われたかもしれません。

日本での体験は、紀元前8世紀に北イスラエル王国が滅びたとき、東方の海中に理想の地があるといった伝承となって、彼らが日本をめざしたとしてもおかしくはありません。

要は、排他的で戦争を繰り返す大陸由来の民族と、四方の海から海流に乗ってきた人々を受け入れる海人族(あまぞく)との違いが、豊かな縄文文明を育む一つの要因になっています。


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