「江島神社」の紆余曲折
2018.05.15
「弁財天」(弁才天)こと、弁天さま。

ご存じ、「七福神」で唯一の女神として知られています。
弁天さまは、もとはヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」(Sarasvatī)で、その女神さまが仏教に取り込まれて、弁天さまとなりました。

湘南、江ノ島の「江島神社」は、神社なのに「日本三大弁天」として有名です。
ほかは琵琶湖の竹生島にある宝厳寺「竹生島神社」を筆頭に、瀬戸内海の「厳島神社」。

なんでも「江島神社」をひもとくと、創建は欽明天皇の13年(552年)に、神宣に基づいて江ノ島の南の洞窟に「宮」を建てたのがはじまりと伝えられています。

この「552年」という年は、仏教公伝(ぶっきょうこうでん)の年なのですが、その年が弁天さまをまつる神社の“創建”というのは、できすぎたお話で、どうもマユツバです。

むしろ、地元民が、漁業や海上交通の安全を願っていた祠(ほこら)が、いつしか海路の神「道中貴」(ちぬしのむち)の「宗像三女神」の代表格、田心姫(たごりひめ:古事記では「多紀理毘売命」たぎりひめのみこと)を祀るようになったといえそうです。

そののち仏教の隆盛とともに、日本の「八百万の神々」は、さまざまな「仏」が化身となって現われたものとする「本地垂迹説」(ほんじすいじゃくせつ)によって、“田心姫”をはじめ宗像三女神は、水の神でもある「弁天さま」の権現だとされはじめました。

江ノ島の「弁財天女」信仰は、江戸時代まで続きますが、明治維新後の「廃仏毀釈」によって、もとの田心姫をはじめとした「宗像三女神」、今の「奥津宮」=多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)や、「中津宮」=市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、また「辺津宮」=田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)を正式に祀るようになったわけです。

結局、弁天さまは、辺津宮の境内にある八角形のお堂「奉安殿」(ほうあんでん)に“秘仏”としてまつられています。

この「弁天さま」(弁財天)をまつる社(やしろ)は、必ずといっていいほど、池や湖や海の中の「島」にあります。

それらは、“板子一枚下は地獄”といわれる舟による漁業や海運の安全を願って、仏教信仰とともに水の女神「弁天さま」を、周囲を水で囲まれた「島」にまつるようになったと考えられます。

ちなみに、江ノ島は「地震」とも関係があって、「関東大震災」のときに1mほど隆起したといいます。

江ノ島の縁起をみても、欽明13年(522年)に大地震が起きて、10日後に揺れがおさまると海底の大爆発によって岩が吹き飛ばされてできたのが、「江ノ島」だとされています。

地震は、津波をともなうことがありますが、そういった災害や海難から安全を祈願して祀ったのが、江ノ島の南の洞窟の「宮」であり、海人族の神「田心姫」(たぎりひめのみこと)をはじめとした「宗像三女神」でした。
それが仏教信仰の時代に、「弁天さま」に習合したわけです。

下の画像は、 視覚障害者の自立のために多くの弟子を育てるなど尽力した、江戸時代の杉山検校(すぎやまけんぎょう)の命日にちなんだ5月13日「杉山検校祭」の日の「江島神社」辺津宮です。

この日は、多紀理比賣命を祀る「奥津宮」の内部が開放されるなど、特別な1日でした。






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