「本能寺」黒幕説の誤謬
2018.06.16
歴史の結末を知った立場から見ると、「本能寺の変」は“ヘン”だそうです。

以前、宝瓶宮占星学サイトで「本能寺の変」を「新ホラリー占星学」からリーディングしました。
結論は、明智光秀の「単独犯」です。

事件が起きた天正10年6月2日は、当時のユリウス暦では1582年6月21日、現在のグレゴリウス暦になおすと7月1日になります。まもなく436年目です。

「黒幕説」の多くは、“実行犯”を明智光秀ととらえたものです。

その場合、“黒幕”が真犯人ということですが、当時、天下を掌中にしつつある織田家ナンバー2の光秀に指示できる立場は、朝廷しかありません。

だいたい世間で“黒幕説”とはいうものの、四国の長宗我部説にしても単に“原因説”にすぎず、“黒幕”と呼べるほどではありません。

“黒幕”というからには、光秀に命令できる立場でなくてはならず、室町幕府の将軍だった足利義昭は、すでに信長から追放されて実権はありませんので、唯一、正親町(おおぎまち)天皇の“朝廷”しか黒幕の可能性はありません。

ですが、光秀は事件後、細川氏に「いずれ天下は忠興に譲る」と書いていますので、もし朝廷や足利義昭が黒幕なら、そんな勝手なことはできません。

むしろ、「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ、討ち果たし候」と光秀自身が書いているように、天下国家の主体的な立場(意思)から信長を“誅”したものです。

イエズス会黒幕説にしても、娘の細川ガラシャはキリシタンなのでともかく、光秀本人はキリスト教には批判的だったため、その可能性はありません。

そもそも“黒幕説”の勘違いは、光秀を“無能”かのように思い込んでいるための間違いです。

歴史的に“敗者”となってしまった光秀は、勝者の秀吉によって貶められ、歴史は都合よく書き換えられるのが常で、“謀反人”にされましたし、江戸時代には家康の“忠孝”を重んじる儒教政策によって、主人を裏切った“極悪人”にされてしまいました。

現代人は、そういった観点から光秀をみているわけです。

そうではなく、戦国時代は下克上は悪ではありません。勝つことが“正義”です。
「本能寺の変」直前まで、光秀は天下布武をすすめる織田家臣団のトップであり、信長の片腕ナンバー2の地位にある最実力者でした。

それが秀吉に敗れてのち、「三日天下」だの「主殺しの謀反人」だの、まるで「無能」かのように貶められたわけで、光秀は“オーナー社長”の信長につぐ、唯一の“副社長”だったのです。

むしろ、秀吉は“専務”の一人にすぎず、格下ゆえに、必死で光秀に立ち向かったことが、結果的に功を奏しました。

高松攻めからの大返しの途中、居城の姫路城で金銭のすべてを兵卒に分け与えたことから、その必死さが分かります。
勝つ余裕があるなら、そんなことはしません。
負けるかも知れないので“大バクチ”に出たわけで、ここに光秀を上回った秀吉の器量が読みとれます。

ということで、「本能寺の変」は、最も天下取りに貢献し、“副社長”の地位にあり、プライドも高かった光秀が、天下取りのメドがたった信長から、次第にうとましく思われはじめ、光秀の“権勢”をそぐために、格下の秀吉につくよう命じたばかりか、信長“本部”畿内の所領「丹波」から、まだ敵方にある「出雲・石見」への国替えを指示されるなど、地方の“所長”へ、大幅降格と左遷を言い渡されたことが遠因です。

信長の行動原理を知る光秀は、次はこのまま一族もろとも抹殺されると考えて、わずかな供回りで本能寺に宿泊していた“好機”を逃さず、兵には「家康を討つ」との名目で京(本能寺)に進路を変更したわけです。

昨今、光秀の子孫のかたが、信長は家康を殺害するために光秀を京に呼んで、逆に本能寺で謀反に遭ったと解釈していますが、絶対にありえません。

強敵、東の武田は、「本能寺の変」の50日ほど前に滅ぼしましたが、まだ無敵の小田原城を抱える北条氏がいる以上、東のおさえとして家康は必要です。

そんな家康を信長が謀って殺せば、勇猛果敢で知られる徳川家臣団は北条氏と組むかどうかはともかくとして、全滅覚悟で隣国の信長領「尾張」に攻め込んできます。
今、敵を増やすのは得策ではないし、対徳川の布陣を敷いたうえでないと、家康殺害はありえません。

手薄な本能寺に信長がいるときにそんな暴挙に出ることはなく、もし本当にそうなら、安土城での饗応の際に殺せば済むことなので、一見、理がとおっているようにみえても、彼の解釈には無理があります。




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