「革命」のない日本
2018.07.17
NHKの大河ドラマ「西郷どん」が、いよいよ舞台を本格的に京に移し、「明治維新」に向けた幕末動乱期を描きはじめました。
とはいっても、“ドラマ”なので、史実どおりではない部分が多くあります。

それはともかく、今年2018年は、明治維新からちょうど150年です。

150前の1868年、江戸は「東京」と改められ、「明治」に改元されました。
同年、明治天皇も東京に移り、翌1869年には明治新政府も京から東京に移っています。

結局、国王(国家元首)である天皇は存続したままなので、“革命”ではなく、「明治維新」と呼ばれるわけです。

つまり、7世紀の「天武天皇」以来、日本に革命は起きておらず、世界最古の国家となっています。

もし、天皇と呼ばれる以前の“大王”の時代を含めれば、3世紀末以降からそうですし、正史の『日本書紀』によれば、紀元前660年の「神武天皇」のご即位以来、女性天皇がリリーフに立つことはありましたが、男系天皇による“万世一系”が2600年以上も続いていることになります。

もっとも、明治維新には“ウラ”事情があります。

天皇を最も崇敬していたのは、徳川慶喜をはじめとした幕府側のほうです。

なぜなら、慶喜は徳川御三家の筆頭「水戸藩」の出身で、水戸藩は“水戸黄門”こと徳川光圀が編纂した『大日本史』によって、日本国は本来、「天皇」の国家であることを歴史的に証拠づけました。

このことが、本居宣長らによる江戸時代の「国学」の発揚と、幕末志士の「尊皇思想」につながっていくわけです。

水戸藩に生まれた慶喜は、一橋家の養子となったことから「一橋慶喜」と呼ばれます。

慶喜は、1868年正月の「鳥羽・伏見の戦い」において、仁和寺宮嘉彰親王を“征夷大将軍”とする長州ら新政府軍が、“錦の御旗”(天皇の旗)を掲げたために、“逆賊”(朝敵)になるのをおそれて、旧幕府軍をおいて真っ先に逃げ出したほどです。

約15,000人の旧幕府軍に、約5,000人の新政府軍が勝ったのも、幕府軍の多くが“錦の御旗”をみて戦意喪失したからです。

これによって同年、明治がはじまります。

逆に新政府軍、とくに長州藩は天皇を崇拝していたわけではありません。

慶喜や旧幕府軍が天皇には楯突けないことを見抜き、戦略上、急きょ“錦の御旗”なるものを製作して、天皇の権威を利用しつづけたというのが本当のところです。

これらを策謀したのは、朝廷で薩長側にいた公卿の岩倉具視(いわくら・ともみ)でした。

事実、幕末期の孝明天皇は、自分を利用するだけの長州を嫌っていました。
それゆえ、一説によると孝明天皇の急変による崩御は、長州藩による“暗殺”ではないかとさえいわれています。

“過激革命思想”の吉田松陰“松下村塾”があった長州ならやりかねません。

ですが、薩長ら明治新政府は、「鳥羽・伏見の戦い」で“天皇”の利用価値を実感すると、若き”明治天皇”を新政府の権威づけに利用するために推戴し、まだ天皇が若かったとはいえ、当初、明治天皇に発言権も実権も与えませんでした。

しかし、“立場は人をつくる”というと畏れ多いのですが、日本の近代化の成功とともに、日清・日露戦争の勝利もあって、明治天皇は世界から畏敬される偉大な天皇になっていきます。





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