「天孫降臨」の虚実
2018.07.28
『日本書紀』のお話です。

初代「神武天皇」の曽祖父にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、「高天原」から地上に降臨されます。
いわゆる「天孫降臨」です。

ここでご質問です。
では、瓊瓊杵尊を降臨させたのは、だれでしょうか?

「天照大神!」

ブブーッ! 違います。
『日本書紀』が正史と定めた「本文」には、次のように記されています。

●『日本書紀』神代(下)「本文」より抜粋

「さて、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で瓊瓊杵尊を包んで降らせられた」

なので正解は、『日本書紀』が「皇祖」と記す「高皇産霊尊」です。

もっとも、『日本書紀』には正史と定められた「本文」のほかに、「一書」(あるふみ)が併載されています。
一書(あるふみ)というのは「別伝」や「異伝」のことで、“こういう伝えもあるよ”という諸説です。

当該「一書」(第一)には、次のように記されています。

●『日本書紀』神代(下)「一書」より抜粋

「そこで天照大神は、瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)および八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を賜った。
また中臣の遠祖、天児屋命(あめのこやねのみこと)、忌部の遠祖の太玉命(ふとたまのみこと)、猿女の遠祖の天鈿女命(あめのうずめのみこと) ―中略― をつき従わされた」

本文(正史)にはありませんが、一書には、「三種の神器」や、瓊瓊杵尊の天孫降臨につき従った「五部神」(いつとものおのかみ)が記されています。
これらは、天照大神の「天岩戸隠れ」にも出てくる随神です。

なぜこのような一書が付記されたのか、事情をご説明いたします。

『日本書紀』が編纂された7~8世紀に、当時の「持統天皇」、孫の「文武天皇」、そして『日本書紀』編纂にたずさわった「藤原不比等」(中臣氏)らになぞらえたものです。

持統天皇は、和楓諡号を「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)と申し上げ、高天原の天照大神を想起させようとしているのはだれにでもわかります。

つまり一書の記述は、「持統天皇」を“天照大神”になぞらえ、「文武天皇」を“瓊瓊杵尊”になぞらえて、万世一系を確立するために、持統から孫の文武天皇への「皇位継承」を正統なものとするための前例として創作した神話なのです。

同時に、随神の“五部神”も中臣氏らの遠祖として付記することで、中臣鎌足にはじまる「藤原氏」の権威と正当性をはかったわけです。

ちなみに、「本文」に五部神は記されていません。

結局、“天照大神の天孫降臨”は、当時の事情から創作されたもので、まさに“神話”というのが実情です。

それでも天武天皇の皇子「舎人親王」を総裁とする『日本書紀』編纂者が良心的なのは、歴史をねつ造することなく、あくまでも別伝として「一書」にとどめたことです。

ということで、“天岩戸隠れ”も“天照大神による天孫降臨”も、また“三種の神器”のお話も、創作されたお話です。

史実は、高皇産霊尊による(三種の神器なしの)天孫降臨で、「三種の神器」は実は7~8世紀からはじまったものです。それ以前は宝鏡「八咫鏡」と神剣「草薙剣」の「二種の神器」でした。

事実、神武天皇にはじまる「歴代天皇紀」(人代)には、「二種の神器」と神璽(しんじ、天皇の印)による王位継承しか記されていません。

天岩戸隠れにしても、岩戸に隠れたからといって、世の中が真っ暗闇になるわけではありません。
また、高千穂(宮崎)をはじめ、そんな天岩戸があること自体が、まったくのナンセンスなお話です。

ではなぜ、天照大神による天孫降臨が人口に膾炙(かいしゃ)されたのかと申し上げますと、古くは藤原氏(中臣氏)が喧伝したこともそうですが、明治維新が起きたからです。

維新後、国家神道にまとめるさいに、「素戔嗚尊」と「天照大神」のどちらを“皇祖”として祀るのか、神道会議が開かれました。しかし、紛糾して結論が出ません。

そこで、明治天皇の御裁可をあおぐことになり、天照大神が「皇祖」と決まったのです。

ということで、天孫降臨のお話も、本文の「高皇産霊尊」ではなく、一書の「天照大神」のほうが引用されるようになったというのが事実です





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