大分に残る西郷の肖像画
2018.08.14
生前、西郷隆盛が写真を残さなかったのは、有名なお話です。

幕府側の「京都見廻り組」や「新撰組」から、いつ命を狙われてもおかしくない時代。

また、「西郷隆盛」というのは、実は父親の名前で、通名は「吉之助」(吉之介)ですが、本名は「隆永」だったというくらいです。

それくらい用心深かったので、幕末はもちろん明治時代も西郷の本当の顔は残されていませんでした。

ということで、ツン(犬)を連れた上野の西郷さんの銅像も、明治31年の除幕式のさいに、妻のイト(糸子)は一目見りなり「んだもしたん。宿んしは、こげな人じゃなかったこてえ」と言ったもんだ。

この銅像は、イタリア人画家のキヨッソーネが、西郷の縁者だった得能良介の助言をえて、西郷の実弟「西郷従道」の顔をベースに、西郷の従弟「大山巌」の体格などをモデルにして描いた「西郷隆盛」とされる肖像画をもとに製作されたようです。

西郷の盟友だった大久保利通(一蔵)も、西南戦争で西郷が自刃した明治10年の翌年に暗殺されています。

なので、上野に銅像が建てられた明治31年はもちろん、キヨッソーネが肖像画を描いた明治16年に、明治新政府内に生前の西郷を知る人物が身近にいなかったことはもちろん、得能良介も同年には亡くなっていますので、アドバイスはしたものの、作品にまでは関与はできなかったことになります。

ということで、キヨッソーネの肖像画や上野の西郷さん以降、西郷のイメージは定着し、真似て描かれた「西郷」とされる肖像画などがあってもおかしくありません。

ところが、今から15年前の2003年に、西南戦争直前の明治9年に実際に西郷に会った現大分県日田市の文人画家が西郷の没後10年ほど経ったころに描いた肖像画が発見されました。

かつて、日田は江戸幕府の直轄地「天領」で、九州一円を管轄する代官所が置かれていました。

そのため、豪商のいる商都であったことはもちろん、松下村塾に先駆けて、身分を問わずにだれでも入塾できる「咸宜園」(かんぎえん、塾主:広瀬淡窓)が開かれ、入門者4,800名を数える江戸時代最大級の私塾があるなど文化都市でもあったわけです。

そういったことから、当時は中央との縁も深く、大久保利通は僧でもあり文人画家でもあった平野五岳に、西郷と会って蜂起をとどまるように説得することを依頼したわけです。

後日、肖像画に描かれている薩摩の丸に十字の紋が入った紋付き羽織が、「西郷南州顕彰館」に保存されている遺品と同じであることから、本物の西郷ではないかとみられています。




「西郷隆盛」晩年の肖像画(左)、右は肖像画を描いた明治の文人画家・平野五岳。




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