阿蘇神社の“ナゾ”
2019.01.11
熊本大地震で重要文化財の「楼門」と拝殿が倒壊した阿蘇神社は、本神殿のみが残り、はだか同然になっていました。

「楼門」の復興には10年がかかるといわれ、お正月は参拝者で賑わっていたものの、全国に約450社もある阿蘇神社の総本社、肥後第一宮としては、どこかさびしげでした。

もっとも、地元の人は、一説によれば、阿蘇神社の“元宮”ではないかとされる北宮こと「国造神社」のほうが古いと語っています。

タクシーの運転手さんも「定かではないけど…」と前置きしつつ、似たようなことを推測まじりで言っていました。

ただ、阿蘇神社の歴史は古く、阿蘇山のカルデラが湖だったころ、その半分ほどを占める大ナマズを退治した「武磐龍命」(たけいわたつのみこと)をご祭神とします。

大ナマズ退治で思い出すのは、『日本書紀』に記される国譲りを迫った武甕槌神(たけみかづちのかみ)も同じように大ナマズを御していますので、同一神か、もしくは同族いわゆる「天孫族」です。

一方、武甕槌神(『古事記』では建御雷神)に敗れた「建御名方命」(たけみなかたのみこと)は、諏訪に逃れたとき、大ナマズが背に乗せて諏訪湖を渡ったとされています。

とはいえ、実際に阿蘇カルデラ(外輪山)の半分ほどを占める“大ナマズ”などいるはずもなく、縄文時代に珍宝や鉱物をもとめて日本にやってきた古代オリエントの一族が、阿蘇のカルデラ内に根づいていたということです。

阿蘇神社の創建は、武磐龍命とともに大ナマズを退治した第一御子の「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)が、両親を祀るために建立したとされています。

三つ並んだ本神殿の“一の神殿”には、父親の「武磐龍命」(神武天皇の孫神とされる)が祀られ、右側の“二の神殿”には、母親の「阿蘇都比咩命」(あそつひめのみこと)が祀られています。

中央奥の小さめの諸神殿には、「速瓶玉命」(阿蘇初代国造:時代が合わない)自身が祀られています。

え? 国造神社の主祭神も「速瓶玉命」ですが、2箇所とも…?

どうも、そこにはカラクリがあるようで、実は北宮こと「国造神社」の脇には、「大鯰の霊」を祭神とする小さな「鯰社」があります。

なので本来は、阿蘇を治めていた“大ナマズ一族”の神社だったと考えられます。

新しい支配者が、前の支配者の一族の神を脇に押しやって、自分たちの神を祀るのはよくある歴史上の出来事だからです。

その証拠は、阿蘇山のカルデラが湖だったころ、北の山麓に現在でいう「国造神社」の前身(名称不明)が建てられていて、水が引いたのちに平地部に、阿蘇神社が建立されたと考えられるからです。

そんな元湖だった地盤の弱いところに頭の重たい不安定な楼門を建てたら、地震で壊れる可能性が高いのは当然です。

それはともかく、功績のある父親の「武磐龍命」よりも、地理的に高い山麓の位置で、方角的にも貴い北に御子の「速瓶玉命」を祀る神社を新たに建てたとは考えられません。

なので、もともとあった神社に後世になって祀られるようになり、名称を「国造神社」と改めたといえます。

現名称「国造神社」は、正面に阿蘇の中岳(火口)を望みます。

その中間ほどの場所に阿蘇神社があるのですが、阿蘇神社の参道は、国造神社と中岳(火口)のライン上にまっすぐに伸びています。

かといって、国造神社と阿蘇神社は対峙しているわけではなく、この参道、実は全国でも珍しい横参道なのです。

つまり、国造神社は北極星を背に、南に向いて中岳を望む位置にあります。

これに対して阿蘇神社は、東を向いていて、北の国造神社方向からはじまった参道は、倒壊した楼門の後ろで右に阿蘇神社の正面の拝殿になるといういびつなかたちになっています。

2年前の熊本大地震では、参道をはさんで左の「楼門」と右の正面となる「拝殿」の両方が倒壊し、その奥の「本神殿」3つだけが残りました。(画像左参照)

熊本城も大きく損傷する大地震に見舞われ、楼門と拝殿は倒壊(画像右参照)したにもかかわらず、「本神殿」だけは壊れなかったところに、まだ“御神護”が残っているようです。


 

●拝殿が倒壊したため更地に整地中で、阿蘇神社の本神殿を眼前に望める2019年1月現在の画像(左)と、2年前の地震で倒壊したときの楼門と拝殿の空中写真(右)。奥が壊れずに残った写真左の本神殿になります。







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