『日本書紀』と万世一系
2019.05.21
今回は、信じられないかたには、“疑義”提起になると存じます。

『日本書紀』は、統一独立国家「大和」を出発するための“万世一系”を記したものです。

超ロングスパンでみれば、相応の紆余曲折はあったものの、令和の今上天皇にいたるまで、最初に日本の大半に影響をおよぼし、ゆるやかな“大国主連合”を築いた大王につづく万世一系で間違いはありません。

もともと『日本書紀』は、すべての豪族や氏族を大王(天皇)からの分家として“大和一民族”による独立をうたっているからです。

その象徴は、明治天皇以降、「天照大神」が皇祖とされますが、『日本書紀』に記されている(本来の)皇祖は、神代紀(下巻)の冒頭にあるように「高皇産霊尊」(たかみむすひのみこと)です。

それは、天孫降臨の記述をみても明らかです。

『日本書紀』の本文には、高皇産霊尊による瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨が記されています。

一方、今日、一般に信じられている天照大神による瓊瓊杵尊の“三種の神器”をともなった天孫降臨は、一書(あるふみ=異説)のうちの1つの説として記されているにすぎません。

このあたりは、『日本書紀』編纂責任者(舎人親王:天武天皇の皇子)の真摯な姿勢が垣間見えます。

ちなみに、一書の「天孫降臨神話」は、持統天皇(第41代)の御世に藤原不比等のアイデアで付加したもののようです。

持統天皇こと「高天原広野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)から、“孫”の文武天皇(第42代)こと「倭根子豊祖父天皇」(やまとねこ とよおほぢの すめらみこと:25歳で崩御)への譲位をスムーズにはかるために、『日本書紀』は、高天原の天照大神から、“孫”の瓊瓊杵尊への天孫降臨神話を創作したのです。

明治以降、皇祖が「天照大神」に定められるとともに、この一書のお話は本文のように思わされています。

ここでは長くなるので、その経緯にはふれません。

万世一系を定めた天武天皇(第40代)以降、ほどなく天智系天皇の御世に変わったとはいえ、万世一系が連綿と続いてきたのは事実です。この詳細にもふれません。

問題は、6世紀から7世紀にかけてです。

継体天皇(第26代)にはじまり、安閑、宣化の2代をへて、欽明天皇(第29代)以降、天智天皇(第38代)にいたるまでの皇統は、かなりの操作がなされています。

理由は、次の2点からです。

第1点、宣化天皇(第28代)において、蘇我氏が登場し、いきなり今でいう“首相”に相当する大臣(おおおみ)に就きました。

第2点は、7世紀がはじまる前後、九州倭国(兄)は、畿内大和王権(弟)に政務を委ね、実質の「統一国家」を誕生させたことです。

この直後、『隋書』に記されるように、アメノタリシヒコから煬帝に「日出処の天子、書を日没処の天子にいたす…」と国書が送られました。

つまり、卑弥呼由来の九州倭国は、シナ大陸からの冊封体制からはなれ、「日本」という日出る国とともに統一独立国家として新生したのです。

これが欽明天皇の皇子ら4人が次々と皇位に就いた、と記述されるウラの事情です。

皇位に就いた4人の皇子のうち、敏達天皇(第30代)と推古天皇(第33代)は“兄妹”であり“夫婦”だと記されています。

ありえません。

なぜ、このように記されたのかというと、九州倭国の「大王」と大和王権の「大王」を“万世一系”として直列につなげたためです。

また、推古以降も7世紀前半、実質の大王家となった蘇我三代王家(馬子、蝦夷、入鹿)を、「皇子」ではなかった中大兄が、「乙巳の変」(645年)で弑逆しましたが、この前後の皇統も万世一系にするために作為がみられます。

蘇我氏三代王権を「天皇」として記すことはできないからです。

これらが、本来の皇統にもどったのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)こと「天武天皇」からです。

大海人皇子は、古来からの正統で、中大兄は天皇の皇子ではありません。

宝皇女(たからのひめみこ:日本書紀では“皇極天皇”と記されている)の連れ子なので、『日本書紀』には「皇子」とは記されていません。

天武天皇は、それゆえ天智天皇の皇子(追諡:弘文天皇 第39代)と「壬申の乱」(672年)を戦い、勝利したのち、自らの皇位の正統性を残すとともに、二度と皇位争いを起こさないように『日本書紀』の編纂を命じたのです。

日本史の真相がここにあります。

詳細は、いずれ書くことがあるかもしれませんが、今回はここまでです。





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