欽明天皇後の皇統問題
2019.05.31
今回は、「補足」のための裏付け記事です。
一般的ではないお話と思いますので、ご興味のないかたはスルーされてください。

「『日本書紀』と万世一系」の記事でふれましたように、「欽明天皇」(第29代)~「天智天皇」(第38代)の皇統には“操作”がなされています。

理由は次の2点です。

第1の理由は、この時期、「九州倭国」と「畿内大和国」が統一合併して“統一独立国家大和”「日本」が誕生していますが、そのことを記せない『日本書紀』は、両方の皇統(王統)を一つにつなげたからです。

第2の理由は、統一後の7世紀前半は、実質は「蘇我氏三代」が大王に就いていたのですが、これも記すことができないために、“天皇”(大王)でなかった皇族(王族)を“万世一系”として記したからです。

『日本書紀』によると「欽明天皇」(第29代)の皇子4人が、6世紀後半に次々と皇位に就いています。

敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)、祟峻天皇(第32代)、推古天皇(第33代)がそうです。

しかし、次の4つの疑問がわいてきます。

1、
欽明天皇が本当に4人の天皇を生んだ父親なのか。
『日本書紀』は、欽明天皇の「即位年」も「崩御年」も明らかにしていません。
…4人の皇子の父親とするために、欽明天皇の年齢を記せなかったようです。

●『日本書紀』 「欽明天皇」紀より抜粋
「欽明天皇は即位された。年はまだ若干(そこばく)であった。」
「天皇はついに大殿に崩御された。時に年、若干。」

2、
『神皇正統記』などほかの記録をみると、欽明天皇の4人の皇子は年齢の幅がひらきすぎており、それぞれの記録で出生の順番さえ異なります。

3、
敏達天皇と推古女帝は“兄妹”で、しかも“夫婦”、なぜか中2代をおいて即位しています。
…[参考] 舒明(夫)皇極(妻)、天武(夫)持統(妻)の夫婦天皇の場合は、連続しています。

4、
皇子が4人も即位されながら、その子どもたちがだれ一人として皇位に就いていないことです。

これらは何を意味しているのでしょうか。

用明天皇と推古女帝は、(本来の)和風諡号(しごう)を「橘豊日天皇」(たちばなの とよひの すめらみこと)と「豊御食炊屋姫天皇」(とよみけ かしきやひめの すめらみこと)と申し上げます。

いずれも、“豊”がつくことから九州倭国系の天皇(大王)また出自です。

敏達天皇は、「渟中倉太珠敷天皇」(ぬなくらの ふとまたしきの すめらみこと)と申し上げることから、畿内大和国系の天皇(大王)です。

祟峻天皇は、「泊瀬部天皇」(はつせべの すめらみこと)と申し上げますが、“合併に反対した”ことから馬子に殺された大王です。

祟峻のあとをついだ推古女帝は、天皇(大王)らしくない諡号(おくりな)から、馬子の傀儡(かいらい)か名ばかりの“天皇”です。

推古の和風諡号は上述いたしましたように、“豊御食炊屋姫 天皇”なのですが、まるで“飯炊き女”相当で、天皇号としては軽すぎるのです。

『日本書紀』は、4人の天皇を欽明天皇の皇子として一つにつなげたために、“聖徳太子”と誤解される厩戸皇子の父「用明天皇」の在位は、わずか2年半、「祟峻天皇」もわずか5年で、しかも蘇我馬子に殺されているわけです。

ところが、「天皇(大王)を殺した」にもかかわらず、馬子がお咎めをうけた記録はありません。

それどころか、次の推古女帝の御世に「大臣」(おおおみ=首相)に就いたと記されています。

なぜかといいますと、蘇我馬子は「九州倭国」と「畿内大和国」を合併させ、統一独立国家大和「日本」を誕生させた功労者で、統一後、大和において実権をにぎっていた実質の大王だったからです。

そのため、祟峻を殺しても、お咎めをうけることはなく、必然的に、祟峻後、即位したと記される“推古女帝”は、権力者蘇我馬子の傀儡(かいらい)にすぎず、もしくは馬子が大王だったことを隠すために、『日本書紀』がつくりあげた“天皇”です。

推古の出自は、用命天皇の同母妹、額田部皇女(ぬかたべの ひめみこ)です。

ということから、推古女帝が蘇我馬子を“大臣”(おおおみ=首相)に就けたと記していることも、19歳になったばかりの厩戸皇子に“国政”をすべてを任せられた(摂政)というのも、さらには厩戸を“皇太子”(ひつぎのみこ)に定められたいうのも、この時代に「皇太子」という制度はまだなったということをふくめて、ありえないお話です。

結論的に書きますと、推古女帝の御世というのは、「蘇我馬子」が大王でした。

次の舒明天皇の御世は、馬子の子「蘇我蝦夷」が大王です。

さらに、最後の皇極天皇の御世は、蝦夷の子「蘇我入鹿」が実際の大王でした。

ですが、そうとは書けない『日本書紀』は、この事実を糊塗(こと)して、乙巳の変(645年)による“大化の改新”を創作し、中大兄(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)の功績としたのです。

それゆえ、『日本書紀』上奏後は、藤原氏が「望月の世」を迎えていきます。

次回に書きますが、上述の「舒明天皇」(第34代)と「皇極天皇」(第35代)というのは“叔父と姪”で、また“夫婦”と記されています。

この2代の天皇(大王)を、敏達天皇の皇子でまったく詳細が『日本書紀』に記されていない「押坂彦人大兄皇子」(おしさかの ひこひとの おおえの みこ)につなげたために、天智天皇(第38代)にいたる蘇我氏との世代関係が合わなくなっています。

平安時代になって、淡海三舟(おうみの みふね)が、現在使われているように漢字2文字の漢風諡号を定めました。

その際に、宝皇女(たからの ひめみこ)こと「天豊財重日足姫天皇」(あめとよ たからいかしひ たらしひめの すめらみこと)を、“皇極天皇”としました。

“極”には、月極(つきぎめ)駐車場といったように月ごとに“終わる”という意味があります。

ゆえに「皇極」というのは、“皇位が終わった”ことをあらわす諡号です。

事実、“皇極天皇”をもって、馬子、蝦夷、入鹿の「蘇我三代天皇」(大王)は終わりをむかえ、“九州倭国王家”と言い換えてもいいのですが、蘇我本宗家は滅んでいます。

『古事記』が「推古女帝」で終わっているのも、このような理由があるからです。





- CafeNote -