甘いNHK「本能寺サミット」
2020.03.20
昨日19日、NHKで「本能寺の変サミット2020」が放送されたことを知りました。

結論は、7人もの学者ならび細川護煕元首相をゲストに招きながら、従来の番組と同様に、なぜ光秀は「本能寺の変」に至ったのか、結論も最有力説も示さないまま終わりました。


誤解なきように書いておきますと、「本能寺の変」に至った理由としては、出演していた7人の学者による多数決では、光秀と秀吉の「織田家ナンバー2争い」だとする「四国説」に最も多い5人もの票が投じられ、反対は2票にとどまっていました。

ふむふむ、そうすると本能寺の変は、四国を秀吉が推す「三好家」に任せるか、それとも光秀に縁がある「長宗我部家」に統治させるかで、天下統一にあと一歩まで迫っていた信長父子を討ったということですか。

光秀の動機としては、本末転倒です。

もっとも、番組MCの爆笑問題というかNHKは、「四国説が正しい」と結論を述べていたわけではありませんので、曖昧なまま“責任逃れ”でお茶を濁したかっこうです。


「本能寺の変」の真相の解明には、次のことを知らなければなりません。


織田家ナンバー2で、「本能寺の変」の直前まで信長を「天下人」に押し上げたのは、蟹宮生まれの信長自身の用心深さもさることながら、実働的には都や畿内の人脈や作法に通じた光秀の勲功が大きかったのです。

事実、信長も「本能寺の変」の年、天正10年3月の武田家滅亡までは光秀を認めていました。

ですが、「本能寺の変」は“三日天下”(実際は11日)に終わり、のちに天下をとった秀吉や家康によって、自らの体制維持のために光秀は“武士にあるまじき謀反人”として、二流か三流の人物ように貶められ、そのような“宣伝”を現代人は信じ込んでいます。

そんな“二流”か“三流”の光秀が、「単独で信長を殺せるはずがない」と思って、「本能寺の変 黒幕説」を描いて生みだすといった、大きな勘違いをもたらしているのです。


事実は、まったく違います。

当代ナンバー2の光秀を操る黒幕などはおらず、光秀の単独遂行です。

また、娘の細川ガラシャとは異なり、キリスト教を信じなかった光秀は、イエズス会からも企てを図る“悪人”かのように報告されていましたが、信仰的判断で正しくありません。

その反面、秀吉は天下を手にした後、信長を天下人に押し上げたのは秀吉かのようにウソの美談「太閤記」を残し、光秀の功績を消し去りますが、「本能寺の変」の前年までは信長と“義兄弟”でもあった有能なナンバー2の光秀が間違いなく最大の功労者です。

そんな光秀が、「本能寺の変」を起こしたのは、信長が家督をゆずっていた嫡子「信忠」が、武田家滅亡とともにその地位を固め、ナンバー2となって光秀は“御用済み”、つまり未だ敵地である石見と出雲(現島根県)に“お払い箱”として、完全に見捨てられることが決定的になったからです。

“怨恨説”とは異なりますが、老齢の光秀には、信長に言われたとおり秀吉の援軍に下れば、もはや挽回のチャンスは一生ありません。

あとがない光秀は、家族や家臣を守り、長宗我部氏への信義を貫くためにも、6月2日早朝、信長を討つには残された唯一のワンチャスに進むしか道がなかったのです。


実際、光秀は決断しました。

そういった二度とない崖っぷちの判断を迫られたのが、下克上「本能寺の変」の真相です。

これは歴史的な織田家の流れをみても、また当時の星の動きによる「ディレクション」(運勢変化)や、信長自身の「ホロスコープ」(出生天球図)をみても、「本能寺の変」のホラリー・ホロスコープ(事件天球図)からは、そのような事実が裏付けられます。







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