信長弑逆の理由はコレ
2020.04.14
今年の大河ドラマ「麒麟が来る」は、“本能寺”をどのように描くのかが見所の一つです。
もっとも、これまでのストーリーによると、光秀は「既存の権威」を大切にするかのように描かれています。
そのため、現状では「足利将軍家」復興のために信長を討ったという説をとるのかもしれません。
ですが、そこはドラマです。
それだと、起承転結に弱く、意外性がないので面白くありません。
では、どう描くのでしょうか。
ヒントとなりそうなのは、「麒麟が来る」というタイトルです。
光秀は、既存の権威などのためではなく、もっと広く「天下泰平のために信長を討った」とする脚本が考えられます。
「麒麟が来る」とは、そういう意味にとれるからです。
「キリンビール」のホームページには、次のように書かれています。
「伝説では、麒麟はよいことがある前触れとして姿を現すといわれています。
心やさしい動物で、虫や草を踏まないよう、地に足をつけず、空を翔けています。
太平の世のしるし、とも呼ばれ、平和で穏やかな日々をもたらす幸福の象徴とも言われています。」
もし、同様の解釈を大河ドラマがするなら、「麒麟が来る」というのは、太平の世、すなわち「平和で穏やかな日々をもたらす」ために光秀は信長を本能寺で討ったとする筋立てが考えられるというお話です。
では、ドラマはともかく、実際に光秀が信長を討った動機は何でしょうか。
光秀は、天下統一がみえた信長にとって、もはや自分や明智一族が完全に見捨てられたと、ハッキリわかったからです。
一例を挙げます。
1、信長に継ぐ織田家ナンバー2だった光秀でしたが、武田討伐の総大将をつとめた信忠(信長嫡男)が武田家滅亡の勲功をあげたことによって、信長後継(ナンバー2)が確定したことです。
2、それを「我らも苦労のしがいがありましたな」とかなんとか言って、信忠ではなく自分の手柄かのように発言したことによって、信長から激しく3度も足蹴にされたことです。
3、ほかにも、家康饗応の大役を、言いがかりのような理由から降ろされたことです。
4、そして、格下だった秀吉の援軍(その下につくこと)を命じられたことです。
5、極めつけは、丹波など都(中央)の領地を没収されたことです。
以上は、光秀自身に関する代表的な一例です。
つまり、これまで信長の天下獲りに、最も功労があり、信長もそれを認めていました。
ですが、“本能寺の変”のわずか3か月前から、上述のように光秀は立て続けに“邪魔者扱い”をされます。
これては、さすがの功臣・光秀も、諸将や家臣部下の手前、武将にとってのメンツが立ちません。
四国の長宗我部家と三好家の件は、そのヨビ的な補足の動機にすぎません。
もし、信長が、四国の件によって光秀の“裏切り”を感じていたのなら、3万もの大軍を預け、秀吉の援軍に向かわせることはありえません。
当時の「星のディレクション」から見ても、天下統一を目前に“過信”する信長に、ナンバー2の座から、“用済み”とばかりに見捨てられた光秀は、中国出征の直前、“目の前にニンジン”をぶら下げられたような状況が訪れます。
それが、中国への援軍の道筋にあたる京・本能寺に、わずかなお供と宿泊する信長そして二条城の信忠でした。
当時の光秀にとって、2度と訪れない一瞬のチャンスでした。
それが、6月2日の明け方だったのです。
もし、今、逡巡して、中国に続く右に進路をとれば、もはや老齢の光秀に“再浮上”の目はありません。
信長に忠誠を尽くしてきた光秀でしたが、それを足蹴にされた反動もあって、自らのプライドと一族存続のために、京に向けて左に進路をとり、信長を本能寺で弑逆(下克上)する決意をしたものです。
コレが当時の「星のディレクション」と史実から明らかになった「本能寺の変」の理由です。
もっとも、これまでのストーリーによると、光秀は「既存の権威」を大切にするかのように描かれています。
そのため、現状では「足利将軍家」復興のために信長を討ったという説をとるのかもしれません。
ですが、そこはドラマです。
それだと、起承転結に弱く、意外性がないので面白くありません。
では、どう描くのでしょうか。
ヒントとなりそうなのは、「麒麟が来る」というタイトルです。
光秀は、既存の権威などのためではなく、もっと広く「天下泰平のために信長を討った」とする脚本が考えられます。
「麒麟が来る」とは、そういう意味にとれるからです。
「キリンビール」のホームページには、次のように書かれています。
「伝説では、麒麟はよいことがある前触れとして姿を現すといわれています。
心やさしい動物で、虫や草を踏まないよう、地に足をつけず、空を翔けています。
太平の世のしるし、とも呼ばれ、平和で穏やかな日々をもたらす幸福の象徴とも言われています。」
もし、同様の解釈を大河ドラマがするなら、「麒麟が来る」というのは、太平の世、すなわち「平和で穏やかな日々をもたらす」ために光秀は信長を本能寺で討ったとする筋立てが考えられるというお話です。
では、ドラマはともかく、実際に光秀が信長を討った動機は何でしょうか。
光秀は、天下統一がみえた信長にとって、もはや自分や明智一族が完全に見捨てられたと、ハッキリわかったからです。
一例を挙げます。
1、信長に継ぐ織田家ナンバー2だった光秀でしたが、武田討伐の総大将をつとめた信忠(信長嫡男)が武田家滅亡の勲功をあげたことによって、信長後継(ナンバー2)が確定したことです。
2、それを「我らも苦労のしがいがありましたな」とかなんとか言って、信忠ではなく自分の手柄かのように発言したことによって、信長から激しく3度も足蹴にされたことです。
3、ほかにも、家康饗応の大役を、言いがかりのような理由から降ろされたことです。
4、そして、格下だった秀吉の援軍(その下につくこと)を命じられたことです。
5、極めつけは、丹波など都(中央)の領地を没収されたことです。
以上は、光秀自身に関する代表的な一例です。
つまり、これまで信長の天下獲りに、最も功労があり、信長もそれを認めていました。
ですが、“本能寺の変”のわずか3か月前から、上述のように光秀は立て続けに“邪魔者扱い”をされます。
これては、さすがの功臣・光秀も、諸将や家臣部下の手前、武将にとってのメンツが立ちません。
四国の長宗我部家と三好家の件は、そのヨビ的な補足の動機にすぎません。
もし、信長が、四国の件によって光秀の“裏切り”を感じていたのなら、3万もの大軍を預け、秀吉の援軍に向かわせることはありえません。
当時の「星のディレクション」から見ても、天下統一を目前に“過信”する信長に、ナンバー2の座から、“用済み”とばかりに見捨てられた光秀は、中国出征の直前、“目の前にニンジン”をぶら下げられたような状況が訪れます。
それが、中国への援軍の道筋にあたる京・本能寺に、わずかなお供と宿泊する信長そして二条城の信忠でした。
当時の光秀にとって、2度と訪れない一瞬のチャンスでした。
それが、6月2日の明け方だったのです。
もし、今、逡巡して、中国に続く右に進路をとれば、もはや老齢の光秀に“再浮上”の目はありません。
信長に忠誠を尽くしてきた光秀でしたが、それを足蹴にされた反動もあって、自らのプライドと一族存続のために、京に向けて左に進路をとり、信長を本能寺で弑逆(下克上)する決意をしたものです。
コレが当時の「星のディレクション」と史実から明らかになった「本能寺の変」の理由です。