補足:阿毎多利思比孤
2020.05.24
戦後日本のマルクス史観に片寄った似非歴史学者の古代日本史また半島や大陸第一主義の近代歴史観は、意図された間違いがあります。

そういった先入観を捨てて、客観的に歴史の事実をみてみましょう。

現代の共産中国が、文化大革命で否定した「古代支那」の文化や歴史書には、両面性がありますが、まだまともな部分もありました。

“中国4000年の歴史”というとき、現代の共産中国(中共)は70年の歴史しかなく、中共はことごとく「古代支那」の文化文明を共産主義思想のもと否定したままなのです。

なので「中国」をどう定義するかにもよりますが、“中国4000年の歴史”というのは真っ赤なウソで、現在の中共と、「古代支那」は大半が異なる民族国家であり文化的にも連続性がありません。

「古代支那」には、まだ正しい歴史を残そうとした「真実」がみられますが、現代の中共は、今般の“武漢ウイルス”の一件をみてもおわかりのとおり、マルクス・レーニン主義(共産主義思想)に毒された“ウソ”の歴史でいろどられています。

戦後、日本の歴史学界も類似で、共産主義思想による“色メガネ”でみた学説にもとづいた歴史教育が行なわれてきました。

ちょうど朝日新聞などの反日マスコミが、半島や中国の“悪どい”側面は報道せずに、日本やアメリカを“批判的”にでっち上げて報道するのと、まったく同じ思想的心理があります。

意図的にそれを行なっているのですが、彼らは共産主義思想による“正義”という誤まったバックボーンを“信仰信条”のようにもつために、その過ちに気づいていません。


以上をご理解いただいたうえで、まだ一面の歴史的真実があった「古代支那」の歴史書を見ていきましょう。


◆『旧唐書』より抜粋

【倭国伝】
倭国は、いにしえの奴国なり。(中略)世々中国と通ず。(中略)その王の姓は阿毎(あめ)氏。

【日本伝】
日本国は倭国の別種なり。
(中略)あるいはいわく、倭国自らその名の雅やからざるをにくみ、改めて、日本となすと。
あるいはいう、日本、ふるくは小国なれども、倭国の地を併せたりと。

※『旧唐書』=618年~907年の唐の記録、945年に奏上。


いかがでしょう。

「倭国」と「日本」は別の国だったと書かれ、事実「倭国伝」と「日本伝」が『旧唐書』には併記されています。

また、倭国は、有名な「漢委奴国王」の金印が福岡(志賀島)から出たことでも知られるように、福岡県北西部に位置した、いにしえの「奴国」だと記録されています。

要は、九州「倭国」が存在したのです。


もうひとつ、時代をさかのぼりますが『隋書』を見てみましょう。

◆『隋書』より抜粋

【倭国伝】
倭国は、(中略)『魏志』にいうところの邪馬台(国に都す)なるものなり。
(中略)名は卑弥呼、よく鬼道をもって衆を惑わす。

開皇20年(600年)、倭王の姓は阿毎、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩雞弥(あほけみ:大王=おおきみ)というもの、使いを遣わし(中略)
「(中略)日出ずれば、理務をとめ、わが弟に委ねんという」

高祖いわく、「これ、はなはだ義理なし」


この7年後、阿毎多利思比孤大王は、再び隋に使いを遣わし、有名な言葉を伝えたことが『隋書』に記されています。

「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子にいたす。つつがなきや云々」

※『隋書』=隋 581年~618年の記録。文帝と煬帝の2代で滅亡。


日本をおとしめたい歴史学者が、意図的に間違えて教えてきたことは、「日出ずれば、理務をとめ、わが弟に委ねん」をそのまま非文明的な日本だったので、大化の改新が必要だったというマヌケな解釈です。

なぜなら、次の使者による「日出ずる処の天子」という一文は、“すでに日が昇った”ということからメッセージされたものだからです。

その意味は、九州「倭国」は、“すでに理務(政権)を“弟”にゆずったよ、ごきげんはいかが”という上から目線の「独立宣言」なのです。

それゆえ煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者あり」と怒ります。

ここでいう“弟”というのは、本州「日本国」のことなのです。


前文の高祖文帝が「はなはだ義理なし」と言ったのは、古くから支那の「冊封下」にあって邪馬台国の卑弥呼などさんざん世話になっておきながら、いまさら「日本国」(弟)に政権をゆずるから冊封下から抜けるというのは、「義理がないではないか」と言っていたのです。


このへんの記述は、隋(支那)は、倭国が自分の代で冊封下から抜けるのは不名誉なので、「日出ずれば、わが弟に委ねる」などとワケのわからないことを倭国が言ってきたかのように、ボカした表現で記録していることに気づかなければなりません。

結局、九州倭国王の阿毎多利思比孤は、実の“弟”が本州畿内国「日本」にいたかはともかく、禅譲基盤ができたので、九州「倭国」を小国の畿内「日本国」に“吸収合併”させるカタチで、支那の冊封下から抜け、「統一独立国家大和」を7世紀初期に築くことに成功します。


なぜ、このような外交交渉ができたのかというと、当時の隋は他国との戦いで倭国にまで手がまわらず、実際的にも“滅亡”寸前だったので、日本に攻め入ることはできないと、阿毎多利思比孤は完全に読んでいたからです。

もちろん、かつての“東征”による成果が出て、本州畿内国に「政権基盤」が整ったからでもあります。

それは、『日本書紀』でいう「推古天皇」の御世で、推古女帝はまだ若く傀儡政権で、実質の権力を握っていた「蘇我馬子」の時代なのです。


つまり、蘇我馬子が、九州倭国王、阿毎多利思比孤の実際の“弟”なのか、それとも多利思比孤“本人”なのかはともかく、九州倭国の「歴史書」は、吸収合併後の「蘇我本宗家」に移されていたのです。

『日本書紀』には、蘇我入鹿が中大兄らに弑逆されたクーデター「乙巳の変」のさいに、蘇我氏自身が「歴史書」を燃やしたとしていますが、実際は燃やされたことにして“証拠隠滅”を図り、九州「倭国」の歴史を消し去ったのです。

しかし、九州「倭国」の歴史の一部は、『古事記』や『日本書紀』のなかに、九州「倭国」の出来事としてではなく、古代“大和の歴史”かのように書き換えられて、断片的に残されています。








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