奴国、邪馬台国☆雑考編
2020.08.26
 
今回はいくつかの雑考編です。


1、「金印」(漢委奴国王)

住吉大神(すみのえのおおかみ)らにならぶ海人族(あまぞく)の雄「安曇連」(あずみのむらじ)が当初、拠点とした博多湾の志賀島(しかのしま)から「金印」が発見されました。

「漢委奴国王」と刻印された金印は、『後漢書』に記される倭(わ)の奴国の使者に西暦57年、光武帝が賜った「印綬」(印章と紐)だとされます。

奴国の使者は「大夫」(たいふ)と自称したと記されていますが、これは支那の身分でいえば“大夫”にあたる奴国の身分だと考えられます。

それはともかく、「漢委奴国王」という印刻を素直に読めば「漢が委ねる奴国の王」です。

一方で、「漢の委奴国の王」と読む向きもあります。

“委奴国”を、いにしえの「伊都国」(いとこく)と読むわけです。

しかし、後の歴史書には「倭国はいにしえの奴国なり」という記述があります。

なので、「委奴国」を“倭の奴国”と読むのはアリでも、「いとこく」と呼ぶには無理があります。

実際、邪馬台国で有名な「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)には、女王国(倭国)を構成する国として、一大卒の「伊都国」と「奴国」(なこく)が2つ出てきます。

つまり「奴国」と「伊都国」は別の国です。

さらには、福岡県糸島市に比定される「伊都国」の東南にあったと記される「奴国」は、金印が発見された博多湾を抱える福岡平野部に位置していることから、「金印」の刻印と一致する「奴国」で間違いなさそうです。

ちなみに、「奴国」というのは、博多湾沿岸部は古代は湿地帯で沼が多く“ぬまこく”と呼べる地形から、“ぬこく”(なこく)となったようです。



2、女王国の中心は「伊都国」

卑弥呼を女王に共立して“倭国大乱”は収まりました。

いわゆる“女王国連合国家”が2世紀末に誕生したのです。

しかし、女王になってのち、卑弥呼は自らの“都”とする邪馬台国からほぼ姿を見せていないことが「魏志倭人伝」に記されています。

では、実質上、女王国連合を管轄したのはだれでしょうか。

それは、「一大卒を置きて諸国を検察せしめ、諸国これを畏憚(いたん)す」と記され、畏れはばかられていた「伊都国」(王)です。

伊都国には、「世々王あり」と記されるように、かねてより王がいて、奴国や不弥国(ふみこく)をはじめ女王国連合の30余国を“検察”していたのです。

江戸時代にたとえますと、ちょうど京都に“天皇”がいて、実際の政治は江戸で“徳川幕府”が行なっていたのと同じです。

そのため“都”の「邪馬台国」(卑弥呼)には実権がなく、実質は「伊都国」(伊都国王)が“卑弥呼”の名によって魏と通じ、諸国ににらみを利かせていたというのが実状です。

このことがわかれば、当時、伊都国が検察できる範囲はおのずとかぎられてきます。

博多湾に流れ込む御笠川などの河川に隣接する福岡平野周辺の諸国と、上流は太宰府近辺から逆に山口川→宝満川→そして有明海へと流れ込む筑後川の北岸部をメインとした諸国の範囲です。

鉄道も電信もなかった当時、河川が主な交通手段でしたので常時、目が届く範囲はかぎられます。

そのため、同じ北部九州でも福岡平野の東側の山を越えた、宗像市を河口とする遠賀川(おんががわ)流域の「秦王国」(しんおうこく)などは含まれず、『隋書』でいう「竹斯国」(ちくしこく:筑紫国)をメインとした福岡県西部や中南部が、邪馬台国を含む「女王国」です。



3、「拘奴国」と「狗奴国」

魏志倭人伝には女王国(邪馬台国)に敵対する「狗奴国」が記されています。

『後漢書』には「拘奴国」が記されるのですが、いずれも「くなこく」です。

『後漢書』の「拘奴国」は、「女王国より東のかた海を渡ること千余里にして拘奴国に至る。皆、倭種なりといえども女王に属せず」と記されます。

一方、「魏志倭人伝」の「狗奴国」は、「(女王国の境界がつきたところ)その南に狗奴国あり。男子を王となす。女王に属せず」さらには「倭の女王卑弥呼、狗奴国の王、卑弥弓呼(ひみここ)と もとより和せず」と対立状態にあったことが記されています。

「後漢」と「魏」とでは、後漢のほうが歴史的に古い国なのですが、『後漢書』と『魏書』(魏志倭人伝)とでは“逆転”します。

『魏書』(魏志倭人伝)のほうが古いのです。

「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)は、事実を捻じ曲げて記すことがあることでも知られる陳寿(ちんじゅ)によって、3世紀末期に記されました。

曲筆の代表例は過去の記録に「邪馬臺国」(台)と記されていたにもかかわらず、陳寿はかってに「邪馬壹国」(一、壱)と倭人条(魏志倭人伝)に記載しました。

一方、『後漢書』は、5世紀前半に范曄(はんよう)によって記されています。

そのさい、学識もあった范曄は過去の記録を調べなおして、正しく「邪馬臺国」(台)と『後漢書』に記しています。

それはともかく、「女王国」の南にあった「狗奴国」は熊本県界隈です。

なぜなら、3世紀の鉄鏃(てつぞく:鉄の矢じり)が日本でダントツに出土しているのは、福岡県と熊本県です。

邪馬台国の3世紀に、魏志倭人伝の記述どおり、北の「女王国」(福岡側)と南の「狗奴国」(熊本側)界隈で大きな戦さがあったことが裏付けられているからです。

もし、仮に、5世紀頃の装飾古墳群で知られる菊池川沿いを含む熊本県に「邪馬台国」があったとしましょう。

その場合、まず、九州北部沿岸部の「伊都国」の検察が、熊本県にあった場合の“邪馬台国”やその南にあった旁余(ぼうよ)の諸国にまでおよぶでしょうか。

また、熊本を“邪馬台国”とした場合、その旁余の諸国のさらに南に「狗奴国」に比定できる対等の勢力圏が存在しなければなりませんが、そんな国が存在することはもちろん、大きな戦さの記録はもちろん、痕跡などはないのです。


ちなみに、両国の戦いは、「魏」をバックにした「女王国連合」(邪馬台国グループ)と、「呉」をバックにした有明海沿岸の「狗奴国グループ」による、一種の三国志(魏/呉/蜀)の“代理戦争”の様相を呈していた一面があります。

このような「呉」が渡来した痕跡は、やはり熊本県(有明海沿岸部)なのです。

一方、それゆえ「魏」は、卑弥呼側から要請があったこともあって、海を渡って「詔書」や「黄幢」また「激」をもって「女王国」(邪馬台国グループ)を告諭したのです。

なぜなら、もし「呉」をバックとした狗奴国が、九州北岸部の伊都国をはじめとした「女王国」を占領してしまえば、「魏」は海を隔てて狗奴国と敵対してしまうことになります。

呉と魏は「南船北馬」といわれるように“海戦”に長けた呉に、魏は南方の陸(呉)と東方の海(狗奴国)とから攻め込まれてしまう恐れがあるためです。


お話は変わりますが、「拘」と「狗」は、当時の筆による行書だとほぼ同じです。

読み間違えていて、実は同じ国たとしたら、あくまでも推測ですが、“狗奴国”は『後漢書』が記された5世紀前半の時代には、築後平野を経て東征し、瀬戸内沿岸部の「呉」(くれ)や「四国」などに影響を与えた可能性が考えられなくもありません。



4、「邪馬台国 四国説」の誤謬

最後に「邪馬台国 四国説」に触れておきます。

阿波国をはじめとした四国には、縄文時代のもとより古い文化がありました。

また、古代イスラエルの影響もなくはなく、畿内はもちろん関東にまで影響をおよぼしています。

さらに申し上げますと、古代日本の“基盤”(ルーツ)の一つなのです。

一方、「邪馬台国」自体はともかく“女王国連合”は、倭国大乱を経て2世紀末にできた新興国です。

阿波国など四国の日本古来の特別な「伝統」をもった国とは異なり、支那の冊封体制下にあった、いわば“属国”のような国にすぎません。

それゆえ、支那の歴史書に比較的に詳しく1~3世紀の古代日本として記されています。

というだけなのに、なにか“日本の原点”かのように勘違いしている方が多いのです。

まったく違います。

日本古来の文化や国邑(こくゆう)は、縄文時代より各地に築かれ、四国はその代表の一つです。

天皇の即位にあたって麻の白衣を献上する阿波国(忌部氏)は、支那の冊封下にあった“北部九州連合”「女王国」(邪馬台国グループ)などとは異なる、日本古来の伝統的な国家です。

そのため、「邪馬台国 四国説」を四国以外の人々が唱えるならともかく、地元の四国民までもが声高に「邪馬台国は四国にあった」などと断言するのは、阿波国をはじめ四国や畿内をふくめた古代日本の品位を貶めるものにほかなりません。


さて、四国説の人々がなぜか勘違いしていることの一つは、「丹」です。

魏志倭人伝に「真珠、青玉を出だす。その山には丹あり」という記述を、「丹は四国でしか採れない」とナンチャッテ歴史番組で、とある“学者”が誤まって言ったウソを信じ込んでいるのです。

どの範囲を「丹」と定めるかによりますが、狭く水銀朱ととらえても「水銀鉱床」は、日本列島各地に分布しています。

一例をあげましょう。

九州豊前は水銀朱(丹)の産地でした。

また、佐賀県と長崎県の県境にある虚空蔵山(こくうぞうさん)は水銀朱が採れる山で、「その山には丹あり」といえます。

もちろん、阿波の那賀川に面した平野部に程近い「加茂宮ノ前遺跡」や「若杉山遺跡」もその一つです。

ほかにも、紀伊半島の奈良や伊勢でも「丹」こと水銀朱が採れました。

さらに申し上げますと、四国の山間部を“邪馬台国”とした場合、その南に「魏志倭人伝」に記される旁余の諸国があり、さらにその南に「狗奴国」が存在し、3世紀に両国が戦った痕跡がなければなりません。

平和な古代の四国の南にそれらがないことから、大陸の影響を受けて戦さの多かった北部九州の邪馬台国などとはやはり異なるのです。



歴史的に「邪馬台国」の場所を比定しようというのは必要です。

ですが、卑弥呼や“邪馬台国”また“女王国”をありがたがるのは、万世一系を記した『日本書紀』の観点からみても主流ではないのです。

事実、『古事記』にも『日本書紀』にも、ワケあって卑弥呼や邪馬台国は記されていません。

ただし、卑弥呼を「共立」して倭国大乱を収めたことで、邪馬台国を“都”とする「女王国連合」を築いたことは、のちの“統一大和”のモデルになった可能性があるといえます。


以上、「邪馬台国」に関する雑考をお届けいたしました。









- CafeNote -